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第八話「奥底」

 サラサラと清く涼やかに流れる川。浮かれるように色づき始めた木々。遠くで、小さな滝がごうごうと音を立てている。  もう10月も折り返さんとしているのに、まだ夏のような暑さが、織の身体を徐々に火照らせていく。 「すげー! 見ろよパロ、めっちゃ綺麗な川!」  パロのリードを持った柏が、反対の手でスーツケースを引きながらバタバタと走り出す。パロが、彼に釣られるようにしてパタパタと走っていった。周りの人間たちが、微笑みながら彼らを見る。  この辺りは、犬連れの観光客がとにかく多く、犬を連れた青年など珍しいものではなかった。しかし、犬と一緒になってはしゃぐイケメンとなれば、注目も浴びる。  しかも、柏という男は、何故か人の目を引く男だ。織はため息をつきながら、ゆっくりと彼らの後を追いかける。  二匹は、橋の上からキラキラした目で川を見下ろした。織は柏の側まで行くと、俯いて立ち止まった。 「大丈夫か、織。休憩するか?」 「……いい」  織は首を振った。 「……あ、あれうまそう! 行こうぜ、織」  柏は、織が持っていたスーツケースも一緒に持つと、「かき氷」と看板の立っている店に向かって歩き出した。  やや古びた店には、テラス席があった。犬を連れた客が、そこで楽しそうにかき氷を食べている。「わんちゃんOK」と書かれた看板を見て、二人はパロを連れたまま店へ入った。  空いていたテラス席に座る。日陰になっているだけ、まだ外より幾分マシだった。 「おじちゃん、このかき氷ひとつ。あと取り分け皿ください」  柏が、店員の男性に向かってにこりと笑う。額の汗を自分のタオルで拭う柏から、織は目が離せなくなった。すると突然。柏が顔を上げ、バチンと二人の目が合う。 「……っ」 「あっちぃな」  汗だくの柏は、からっと爽やかな笑顔を見せた。 「少し待ってろ」  小さな声で呟いて、柏は立ち上がった。パロが彼のあとを追う。どこへ行くのかと見ていたら、彼はセルフサービスの水を二杯注ぎはじめた。 「おじちゃん、このかき氷、犬も食べられますか?」  柏は、店のカウンターにいた店員に話しかける。年をとった店員は、笑いながら首を振った。 「いやぁ、ワンちゃんはワンちゃん用のかき氷にせにゃ」 「じゃあ、それもください。……かき氷だって、パロ。食ったことあるか? 良かったな」 「あら、お兄さん、イケメンさんね。観光?」 「はい! あ、おばちゃんが食べてるの俺の頼んだのと一緒だ。おいしいですか?」 「おいしいおいしい! ここらじゃ一番よ!」  水を取りに少し歩いただけなのに、柏は周りの客から話しかけられながら帰ってきた。本当に、人を集める人間だ。 「……織、ここのかき氷めっちゃうまいって!」 「聞こえてたよ」  柏は水を机に置くと、にこにこ笑いながら椅子に座った。 「…………水、ありがとう」 「おう。……うぉ、水うま!」  柏は嬉しそうに笑った。織もコップに口をつける。冷たい水が喉を通る感覚が気持ちいい。織は一気に半分ほど水を飲み干した。  そんな織を見て、柏は、ははと笑った。一体何がおかしかったのか、織にはちっとも分からなかったが、彼の目が慈しむように緩むのを見て、何も聞かずに目をそらした。 「はい、かき氷ね」 「ありがとう、おじちゃん! めっちゃおいしそう」  二人の目の前に、緑色のシロップのかき氷が置かれる。ふわふわの深い緑色の上には、小豆とバニラアイスが乗っている。  織は店員に笑いかける柏を見て、思わず微笑んだ。彼は嫌味のない、朗らかで明るい性格をしている。年配者からの評価はさぞ高いことだろう。  柏は、かき氷を別の皿につぎ分けはじめた。 「織、どんくらい食う?」 「え、俺も食べるのか?」  織は驚いて尋ねた。柏が食べるのではなかったのかと、織は首を傾げる。 「食べとけって。美味いらしいし」  柏はそう言った。織は少し躊躇って答えた。 「……少しでいい」 「おう」  柏から、小皿山盛りにかき氷をつぎ分けたものを渡される。織は両手で皿を受け取った。柏が、残りのかき氷にスプーンを刺す。そのまま、口に大盛り放り込んだ。 「うま!」 「兄ちゃん、うまいだろ」 「バカうまい!」  子どものような無邪気な笑顔で、柏は答える。整った顔をくしゃっと歪ませて、全力で笑う彼の笑顔は、確かに惹きこまれるものがある。――辻が好いて守りたいと思うのも納得の笑顔だ。  織はかき氷を一口分掬い、口に入れた。抹茶と練乳の、涼やかで甘い味が広がる。氷が少し口に入るだけで、身体の熱がいくらかはマシになった気がした。 「……え」  織は、はっとして柏に尋ねる。 「……お前、もしかして、休憩するために寄ったのか?」  柏が、スプーンを咥えたまま、驚いた顔で織を見た。それから、困ったような笑みを浮かべる。 「だって、織、今にも倒れそうな顔してるのに休憩しないって言うから」  若い店員が、パロの前に犬用のかき氷を持ってくる。氷の上に、なにやらフルーツのようなものが見えたが、それが何か確認するより先に、パロが皿に顔を突っ込んだ。 「あっはは、パロお前、それ味分かってんのかよ?」  柏がケラケラ笑う。再び織と向き合い、彼はスプーンを口に入れた。 「うまいな」 「……ああ」 「……あ、いかん、キーンてなった……キーンて……」  頭を抑えて悶える柏を見て、織はふっと笑みをこぼす。織が笑ったのを見て、柏がまた、満足そうに微笑んだ。  パスパスと不慣れそうな音を立てながら、二人と一匹は部屋までの長い廊下を歩いていた。 「……はぁ、だいぶ疲れたな。途中でスーツケースだけ預けに来て正解だった。……あ、やべ」  柏は、勢い余ってスリッパを吹き飛ばした。ケンケンと2歩ほど歩いてから、スリッパを履き直す。 「……ええっと、203……203……」 「ここだ、柏」  織は部屋鍵を差し込み、ドアを開けた。い草の匂いが鼻をかすめる。目に飛び込んできたのは、露天風呂のついた和室だった。 「うおぉ! すごいな」 「……ああ」 「すげー。やっぱ来てよかったなあ」  柏は心底嬉しそうに笑った。その一言に、織は少しほっとする。荷物を畳の上に置いて、織はすぐに座り込んだ。 「…………大丈夫か、織」 「ああ」 「汗かいたなぁ。一回ぱっと風呂入ろうぜ」  柏は荷物を畳の上に全て置くと、スーツケースを開き出した。 「……俺もあとで入る」 「後? 俺先で良いの? あ、でも俺のが汗だくだもんな」  代謝の良い柏は苦笑をこぼした。スーツケースから下着を取り出すと、柏は乱暴にスーツケースをしめる。織は自分の後ろのふすまを開けて浴衣を取り出し、柏に投げて寄こした。  裏葉色の浴衣だ。深緑の帯も上品で美しい。 「……よく似合いそうだな」 「あ、わかる? 俺ってホラ、やっぱかっこいいし? なんでもかっこよく着こなせちゃうよなぁ」  織は耳を真っ赤にして俯いた。別に、口に出すつもりはなかったのに。 「早く入れ」 「あはは、分かってるよ」  柏は脱衣所へ向かっていった。織は襖をしめると、畳の上に寝転がる。部屋は二つの部屋が連なったような間取りで、この襖を閉じれば、手前の部屋からは外の露天風呂が見えない作りになっている。織は襖が閉じているか再び確認して、ひとつ大きなため息をついた。  勢いで、こんなことになってしまった。どうしたらいいのかわからない。いや、どうかしてはいけないのだけれど。 「……パロ? どうした?」  パロは、織のそばに座り込み、織をじっと見つめている。彼はしきりに外を気にしていて、織の顔と外を交互に見た。 「……そんな目で見るな。俺は入らないよ、勘弁してくれ」  織は静かに微笑むと、パロの頭を撫でた。パロはなんだか不満げな顔をして、脱衣所の方へ入っていった。 「わぎゃっ!?」  風呂場の方からカエルを轢き潰したような声がして、慌てて体を起こす。何事かと思っていたら、柏が裸のまま、ずぶ濡れのパロを抱えて部屋に入ってきた。 「織、パロが濡れた!」 「待て、来るな! 畳だぞお前! パロも何やってるんだ……」  織はため息をついた。パロを受け取ろうと、タオルを持って、脱衣所でおとなしく待っている柏の近くに寄る。織が顔を上げたとき、柏と目が合い、自分の喉から変な音がした気がした。水も滴る、とはこのことか。 「あっ」  ぼうっとしていた隙に、パロが再び露天風呂に駆けていく。満足そうな顔で、ヘッヘと笑っている。 「あは、パロ、お前風呂好きだったのか?」 「……入れてやってくれ」 「よし、パロ、一緒に入ろう」  柏とパロは、再び外へ出ていった。織は扉を閉めるとずるずる座り込み、頭を抱えた。  「織、大丈夫か? 無理して飲むなよ」  机の上に並べられた、たくさんの缶。全て、近場のコンビニで柏が買ってきた酒だ。アルコール度数の高いものから低いものまで、様々な酒が机から溢れんばかりに並んでいる。  数が多いのには理由がある。実は柏は酒好きで、友達と酒を飲むことを一番の喜びだと思っている男だった。ただ、一番の友人である堺は酒が飲めず、実はここまで親密な人間と酒を飲んだのは、これが初めてだったのだ。 「無理……、いや、してない」  織はぽやぽやと答えた。柏が苦笑する。 「お前全然飲めないんじゃないか。飲めると思って二人分買ってきたんだぞ。……こりゃ俺も酔っちまうな……」 「……まだ酔ってない」  パロの頭を撫でて、織はそう不満げに呟いた。一大人として、そんなふうに言われるのは心外だった。  織はふっと目線を上げる。目の前で、美しい夜景を背に、浴衣を着崩した柏が、酒をあおっている。このまま切りとってブロマイドにしてやろうかと織はぼんやり思考して、くだらないなと一人で笑った。 「……柏」 「うん?」 「……柏はきっと、彼女をうんと優しく扱うんだろうな」 「まあ、超絶紳士の柏冬樹様だからな」  柏は自分の胸に手を当てて、自信満々に笑った。しかし、すぐに俯いてしまう。彼は缶をゆらゆら揺らしながら、アンニュイな表情を浮かべた。 「……いや、やっぱり優しくはないか。現に、泣かせちゃったわけだし」 「柏は悪……柏が悪いかどうかは分からないだろう。もしかしたら、相手が悪いかもしれない訳だし」 「俺が悪いよ。だって付き合うってそういうことだろ」  織は首をかしげた。 「相手の悪いところも、俺の悪いところのうちだ」  織は眉をひそめて、缶を口につけくいと持ち上げた。そんなふうに考えたことはなかった。それじゃあ、一生自分を悪だと思い続けなくてはいけないじゃないか。 「……柏は人が出来すぎてる。苦労するぞ」 「ほっとけ。俺は人のために苦労をするのが好きなんだよ」  柏は吐き捨てるように言った。どうやら、自分が苦労している自覚は少しあるらしい。 「自分のこと大切にしろと言ったのはお前じゃないか」  織が反論すると、柏は一瞬ぽかんとして、それからケラケラ笑った。 「……織、お前俺を聖人君子だとでも思ってるのか?」 「なんだよ」 「もちろん、俺は自分を一番可愛く思ってるよ。でも、俺は今現状困っていない。幸せは飽和状態だ。だから他の人のために動くだけ。何も他人第一じゃない」 「…………家を失ったくせに、幸せだって?」 「でも、そのおかげで織と暮らせてるだろ?」  柏はにやりと笑う。 「…………お前は人の気も知らず……」  そこまで言って、織ははっとした。 「はは、悪かったと思ってるよ。今思い出しても恥ずかしいもんな、100円で……ふふ……」  柏は、織の焦りには少しも気づかず、くつくつ笑いながらまた酒を開けた。織はほっと胸をなでおろす。 「…………お前が阿呆で助かった。……今日は駄目だな、口が滑る」  織は飲みかけの酒をぐいと一気に飲み干した。もう飲むまい。 「……織は、今まで恋人とうまくいかなかったのか?」 「…………なんで」  突然尋ねられ、思わず織は尋ね返してしまう。 「北条先生の描く物語が、悲恋ばかりなのが気になってたんだよ。そうなのかと思って」 「じゃあ、リア充感満載の恋愛小説を書いてる奴らはみんなリア充なのか?」  確かに、と柏はうなずく。 「…………なら、うまくいったのか?」 「いくわけないだろ」 「いってねぇのかよ」  柏は子どものようにケラケラ笑った。織は、飲み終わった缶を両手で掴んで、俯く。 「……今まで二回、恋人がいたことあるんだ。けど、高校んときは、『そもそも好きじゃなかった』って。……大学の奴は、そもそも付き合っていたのかも分からない」 「え、なんだそれ、人でなしばっかだな」 「理由はどうでもいい。……単純に、俺が面白くなかったんだろ。俺が魅力ある人間なら、きっと付き合ってからでも好きになってもらえただろうから」 「……織は不器用だからなぁ」 「誰だってそうだ、きっと。好きな人の前ではうまくいかないもんだろう」  織が悲恋ばかりを描いているのは、恨みと怒りをぶつける場所がわからなかったからだ。織は小説に、自分の受けた理不尽を描いた。例えば、相手に縋り執着した、若い高校時代のを。従順に、愛し尽くして捨てられて、悲しみに暮れた夜の眠りから覚めて見た、大学時代のを。  織はまた新しい缶の蓋を開けた。これだけ長く彼とこんな話ができたのは初めてで、寝るには少し惜しかった。 「……でも、俺を好きになる人間なんて、きっといないんだろうな」 「そんなわけねぇだろ。今までのお前の人運が悪かっただけだって」 「さっきお前、相手の悪いとこは自分の悪いとこみたいなこと言ってただろ。……まあ、俺は皮肉屋で意地っ張りで、わがままだから、その通りか」 「あは、そうか? うーん……、そうかもな」  柏はくしゃっと笑う。それから、その琥珀色の瞳を一度覗かせ、緩く細めた。 「……でも、そんなのどうでもいいくらい優しくて面白くて、一緒にいて心地良い」  ああ、駄目だ。織は思った。 「……お前といると、時々、どうしたらいいのか分からなくなる」  舌が勝手に回る。視界が悪い気がする。目の前で、柏が笑いながら、自分の話を聞いている。口がペラペラと動く。  「………んわあ!」  柏は勢い良く飛び上がった。右、左と首を振る。机の反対側で、織が突っ伏して、すやすやと眠っている。 「……おり、織、大丈夫かぁ」 「……ん……んん……」 「織、起きろ織……、ここじゃ風邪ひいちまうぞ」  肩を揺らすが、彼は起きる気配がない。眼鏡もかけたままでよく眠れるものだ。 「……たく……」  柏は少し困ったように笑い、織を抱き上げると、布団の上に寝かせた。眼鏡を取り、枕元に置く。ふあ、と一つ大きくあくびをして、立ち上がろうとしたとき、織の腕が、柏の腕を掴んだ。 「……どこに行く」 「どこにって、寝んだよ……布団で……」 「どうして?」 「どうしてぇ? 夜だからだよ……」 「布団はここにあるだろ」 「織のだろぉ?」 「どれも同じだろ」  織は柏を引き倒すと、柏の身体に抱きついて、柏を自分の布団に転がした。 「ずっとここにいろよ、クソ野郎」  そうだ、布団ならどれも同じだ。もう死ぬほど眠たいし、寝れるのならなんでもいい。自分の布団に帰るのも、もう面倒だ。  柏は織の横に寝転がると、瞼を閉じた。自分と同じシャンプーの匂いに混じって、微かに織の匂いがした。  「……なんだって?」  柏はぱっちり目が覚めた。朝日が登り、鳥がさえずっている。隣では、織が柏の服を掴んで眠っていた。 「……お、織……」  起こそうとして、一声かけただけでやめる。起こしてどうなる。気まずくなるだけだ。  幸い、織は寝起きが悪い。慣れれば、布団をはいでも寝ているようなヤツだ。  下僕の起床に気がついたパロが、傍に駆け寄ってきてワンワン吠え立てた。いつもの朝飯の催促だ。 「……パ、パロ! しーっ! 静かにしろ!」 「……ん、パロ……?」  何故起きる。柏は心の中で文句を垂れた。こんな簡単に起きられるのなら、いつも起きてくれ。 「…………お、おはよう、織」 「おはよ、う……?」  織が、明らかに混乱した様子で、自分の手と、柏の顔を交互に見た。顔を左手で覆い、右手を開いて柏に突き出す。 「…………状況整理の時間は取ってもらえるか?」 「お、おおう、おう!」  柏は大きな声で返事を返した。  「酔っ払って一緒に寝るくらい珍しいモンじゃねぇって、な?」 「……」 「いやほら、宅飲みとかしたらみんな死んで寝るだろ? アレと一緒」  織は何も答えないまま俯き、そわそわしている。柏はなんだか申し訳ない気分になってきた。 「そんなに落ち込むなって、俺のことがそんなに嫌だったか?」 「……落ち込んでるんじゃない。……考えてるんだ。昨日のことが思い出せなくて。俺は……、何か言ってたか?」  柏が、一瞬固まって、それから笑う。 「忘れたよ。言ってたとして、酔っぱらいの戯言だろ?」  戸惑いの表情を浮かべつつ、織はゆっくりと頷いた。 「…………それならいいんだ」  向かい合うと、なんだかとてつもなくこっ恥ずかしい気分になる。柏はそわそわと視線を泳がせた。 「あー……大浴場で朝風呂入ってくる。織はどうする?」 「……パロと待ってる。朝から風呂に入ると身体がうまいこと働かないからな」 「分かった。朝飯までには戻るから」  柏はタオルなどを抱えて、そそくさと部屋を出た。足早に歩いていると、スリッパが三度吹き飛んだ。  大浴場の脱衣所で、服を脱ぐ。鍵を締めて歩きだそうとしたとき、自分がまだ下着を履いていることに気が付き、あまりのことに恥ずかしさで頭を抱えた。大きくため息をついてしゃがみこむ。 「……ずっとここに……」  織はどちらかといえば、柏を鬱陶しがっていたように、柏は感じていた。しかし、昨日の彼は、そんな風にはとても見えなかった。確かに、織からしてみれば、柏は炊事も洗濯もやってくれるいい召使かもしれない。しかし、だからといって、「ずっとここにいろ」と言って抱きしめてくるのは、何か違わないか? 「…………よりにもよって、出てくる言葉ソレかよ……」  顔が熱くなる。織のことが分からない。彼は一体、どういうつもりであんなことをしたのだろう。柏は息を長く吐いてから、勢い良く立ち上がって扉まで歩いていき、また引き返してきた。  「ただいまぁ、堺ぃ」 「…………おかえり」 「すっと手を出すなよ、まずは旅の土産話を聞くもんだろ」  堺はむすっと不貞腐れた顔をして、手を膝の上に乗せた。 「……どうだったんだ、先生との旅は」 「楽しかった! 温泉やばかったし、寺とか城とかも見に行ったんだぜ」 「そりゃなによりだな」 「手を下げろ、手を」  堺は手を下げない。仕方なく、彼の手の上に箱を載せた。  手のひらにのった彼の好物に、堺は、少し嬉しそうにする。堺は今日、どこかぎこちなかったので、柏はほっとした。 「それで? わざわざ俺を待ってまで言いたかったことがそれか?」 「……あぁ、いや……」  柏は、突然狼狽えた。堺は眉をひそめて、怪訝そうにする。 「……堺、最近織と仲いいだろ? 知ってたら教えてほしい……いや、織が口止めしてるとかだったら教えなくていいんだけど」 「なんだよ、ごちゃごちゃうるさいな」  こんな彼は珍しい。堺はますます訳がわからないという顔をした。しばらくして、柏は、意を決したように堺と向き合う。 「…………織って、男が好きだったりする?」  堺は、目を何度も瞬かせた。 「……は?」 「い、いや、俺の勘違いならいいんだ。俺の思い上がりなら、それでいいんだけど……」 「……なんでそんなことわざわざきくんだよ。もし織さんがゲイだったら、お前嫌なわけ?」 「嫌じゃねぇよ!」 「だよな、知ってるよ」  彼はそんなことで人を嫌う男ではない。しかし、だとすれば、何故織に直接尋ねなかったのだろう。だいたい、そんな質問をされる身にもなってくれと、堺はため息をついた。 「……なんでそう思うんだ」 「『ずっとここにいろ』って言ったんだ、織が」 「……は? だから『俺のこと好きなのかもぉ』って? 思い上がりだろ、恋愛ナメてんのか」 「織の言葉の色が違ったんだよ! 俺だって鈍感じゃないんだ、分かんだよそれくらい!」  第一、織はそんなことを人に軽々しく言うタイプではない。元来一人が好きな性格なのだと、エッセイにも書き記されていた。 「それにさ……」  柏は俯く。 「……『ずっとここにいて』って、アイツの小説の殺し文句なんだよ」  堺は一瞬戸惑った顔をして、それから長く息を吐いた。それを聞き、織とも話したことがある彼には、正直、としか思えなかった。  なんと伝えればよいかわからなくなった堺は、黙り込んだ。柏はソワソワとせわしなく目を動かして、口を開く。 「……この際思い上がりのほうがいい。もし、織が俺を好きだったらどうしようと思ってるんだ」 「……どうしようって?」  堺は気になって尋ねる。 「だって、俺は、恋愛が下手くそだから。……恋人になったら、きっと織も泣かせちまう」  堺が、顔を顰めて固まった。 「な、なんだよ」 「……なんで付き合う前提なんだ?」 「は、え? だって織だぞ?」 「は? お前、あーくそ……ちょっと……」  堺はガシガシと頭を掻く。彼が言いたいことが、うまくわからず、柏は首を傾げた。 「質問変える。お前は織さんが好きなのか?」 「…………織が?」  柏は顎に手を当てて俯いた。  好きとはつまり、どういうことか。織は、生活能力のない男で、皮肉屋で意地っ張りだが優しくて、一緒にいて心地よく、時折見せる仕草の色っぽい奴だ。 「……色……?」 「好きって何か分かりますか、とーきくんよ」 「わ、わかってるよ!」  顎に手を当てる。彼が自分の作ったものをおいしそうに食べるたびに、柏は心が温まる。おかえりとはにかむ織を見ると、いつまでも、ここに帰ってこれたらと思う。彼の仕草は優美だが、その動きの一つ一つが、思わず触れたくなるような色気を孕んでいる。  顎から口元に手を滑らせる。柏の頬が、みるみる真っ赤に染まっていった。 「はーやってらんね。解散解散」 「ま、待ってくれ! 待、……待ってたら堺!」  ガタガタといろんな場所に体をぶつけながら、柏は立ち上がる。周りの学生が、ちらちらと彼を好奇の目で見た。 「俺は、織が好きだったのか?」 「知らねーよ、俺は帰んだよ離せ」 「待ってくれったら」 「うるせぇな!」  堺は大声を上げた。柏が、びくりと飛び跳ねる。 「お前、辻を忘れたわけじゃないだろうな!?」  柏が、はっとして堺を見た。辻は、彼の友人でもあったことを、柏は思い出す。堺は、悔しそうな、悲しそうな、不思議な顔をしていた。 「…………分かるだろ、俺は帰るって言ってんだ」  堺は言った。柏が辻を忘れるような人じゃないことくらいは分かっていた。もう疑ってもいない。彼を恨んでもいない。けれど、自分の欲しかったものを手に入れて、失って、そしてまた違うものを欲しがる彼を見て冷静でいられるほど、自分はできた人間ではないと、堺には分かっていた。  堺はゆらりと踵を返す。 「…………堺!」  遠くから、柏が堺に呼びかけた。堺は、振り返らずに立ち止まる。 「辻さんのことは忘れてねぇよ! 俺が大事にできなかった人だ! でも、すごく感謝してる! 彼女がいたから、俺は織をもっと大事にしてやりたいと思えるんだよ!」 「じゃあもう俺の助言要らないだろ!」  堺は振り返る。柏はその時、何故か、彼のレンズの奥の瞳が、歪んでいるように感じた。 「このクソ鈍感野郎! 鈍感じゃねぇとかよく言えたもんだよな! 今お前がデケェ声で何叫んだか、頭でしっかり反芻しろ!」  堺はそう吐き捨てて、少し固まった。彼はぎゅっと拳を握りしめて、人混みの中へ入っていった。柏が、追いかけようと足を一歩出したところで、椅子に躓き、彼は地面に顔を埋めてしまう。 「いってぇ……」  柏は起き上がる。周りで、クスクスと笑い声が上がった。堺を追いかけたが、彼の姿は見つけられなかった。

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