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第九話「織の告白」

 「そういや、あそこ復活したらしいな」 「どこだよ」 「ほら、106教室。封鎖されてたじゃん」 「ああ、アレかよ……」 「なんかアレ、教授も関わってたらしいぜ。最後の方だけらしいけど」  林のその発言に、渡が、苦虫を噛み潰したような顔をした。どことなく、二人の雰囲気がおかしい。 「アレとかあそことか、なんでそんなぼかしてんだよ。なんかまずいことでもあったのか?」  柏が尋ねると、二人は更に気まずそうな顔をした。 「お前知らねーの?」 「106が封鎖されてんのは知ってる」 「柏、お前一時から先生に呼ばれてただろ。早くいけよ」  堺が食い気味にそう言った。焦りからか、普段とは違い、携帯から顔を上げて、まっすぐに柏を見てしまっていた。 「もう少しあるから大丈夫。んで、なんだって?」 「柏……」 「106教室! “闇の研究集団”の使ってた部屋だよ」  林は、最後の方にいくにつれて声のトーンを下げながらそう言った。柏は首を傾げた。 「はぁ? なんだその厨二クセェ名前のヤツ」 「分かる、クソダセェよな。なんか、教室に『闇』って張り紙してたからそう呼ばれてるらしいぜ」 「へー、それ俺も知らなかった。そういう情報よく知ってるよな林」  何故か林は、痴情のもつれやら悪い噂やらに詳しい。彼いわく、「みんな俺を馬鹿だと思って口が滑る」らしい。彼は得意顔で口を動かした。 「……まあ、人体の研究って言って、学内の女無理やり襲ったりするやばーい集団だよ」 「は、そんなのクソじゃねぇか」 「そうだろ? なんか、学生の中の誰かがそれの闇暴いて、メンバーは全員退学になったらしいけど。……でも、お前知らなかったの意外だったな。だってお前……」 「柏、ほんとに遅れるぞ」  堺が話を遮る。彼にしては珍しいどころか、普段ならまずありえない。柏はなんだか嫌な予感がして、堺を押し退けるようにして林に尋ねた。 「……俺がどうしたって?」 「ッ、柏」 「お前、一時期メンバーだって噂立ってたじゃん」  柏は眉をひそめた。渡も、へぇ、と驚いた顔をしている。 「……なんで俺が?」 「いや、それは流石の俺も知らないけど」 「メンバーの誰かの怨みでも買ったんだろ。イケメンは大変だなぁ」  渡はケラケラ笑った。  堺の目がそわそわしている。しかし、林はそんなこと気にせず、話を続けた。 「知ってるか? アイツら、研究者気取って、犯した人間、ナンバリングしてたらしいぜ。ほら、ラットに番号つけるみたいにしてさ。んで、研究資料とか作っちゃってさ。趣味悪ぃよな」 「……ナンバリング?」 「っ、林!」  堺が大きな声を出す。驚いて、林が堺をじっと見た。 「……もうその話はよせよ。まだ学校に通ってる被害者だっているんだ」 「あ、確かに……」  林は口に手を当てて、申し訳なさそうに周りを見回した。その横で、渡も変な顔をしている。 「ナンバリング」  柏は小さな声で呟いた。  辻の突きつけてきたUSBメモリには、不自然に番号が振ってあった。 「…………織」  そして織が持っていたのも、同じUSBメモリだ。  「……堺」  構内から出てきた堺を呼び止めたのは、柏だった。 「柏か。どうした?」 「……昼の林たちの話だけど」  堺はピタリと動きを止め、柏をまっすぐに見つめた。 「……ああ、あんなの、ほとんどデタラメだからさ。気にすることない……」 「ほとんどってことは、少しは本当なのか?」 「……ッ、違う、全部デタラメだ。あんなの都市伝説だから」  じっと柏が、堺の顔を見ていた。ハッとして、堺は口元を押さえた。 「…………何隠してる?」 「……っ」 「お前、何か知ってるのか?」  堺はバツが悪そうに口を噤み、俯いたまま首を振った。柏が、一歩彼に詰め寄る。 「……織が、辻さんと同じものを持ってた。ナンバリングされたUSB。辻さんは、それを俺に見せにきた。見覚えあるかって。……なぁ、お前、それについて何か知ってるんだろ?」 「知らない」 「……あいつらが持ってたの、“闇の研究集団”のUSBじゃ、ないだろうな……。おい、堺、お前、何を知ってる?」  低い声で言い放ったあと、柏は自分の胸に手を当てた。 「……いや。俺は……、俺は何を知らないんだ?」  堺は、一歩引き下がると、首を何度も振った。 「……言えない」 「知ってんのか」 「俺は知らない」  堺は、肩からかけているバッグの紐を、ぎゅっと掴む。ここまで縮こまる彼を、柏は初めて見た。 「……知らねえって言ってんだろ……。……これ以上、アイツに恥ずかしいこと、したくねぇよ……」  柏は、持ち上がっていた右手を下ろした。それから、何も言わずに、一歩引き下がる。 「……本当に知らないんだな」  堺は瞳を小刻みにゆらゆら揺らして、ゆっくり頷いた。口を開くことはなかった。 「……堺、お前、人狼ゲームとか、やるなよ。すぐ負けちゃうだろうから」  くるっと反転すると、柏は歩き始めた。寂しそうな柏の背中を見て、堺は、喉の奥がきゅっと痛んだ。 「か、柏!」  耐えられなくなって思わず叫んだ。  柏が立ち止まる。堺は二歩前に進み出ると、なんとか声を絞り出した。 「……何も、ごめん」  柏は俯いた。 「……でも、皆、お前を守りてぇんだよ。お前に隠し事すんのも、嘘つくのも……、皆、お前を好いてるからなんだ」  堺が言う「皆」が、誰のことかなど明白だった。柏はゆっくりと、足を踏み出した。  またこの気分だ。母が死んだときと同じ。……自分は何も知らなかった。疎外感にもよく似た感情。皆、知らぬ間に傷付いて、怯えて震えて、恨んで妬んで、それでも、柏を守ろうと、柏に嘘を吐く。辻も、堺も、織も。  柏はゴシゴシ袖で目をこすった。上着のポケットを握りしめる。少しだけ心が落ち着いた。柏は一つ深呼吸して、ゆらりと顔を前へ向けた。  きかなくては。  深く息を吸う。ドアを掴んで、吸った息を長く吐く。目を開き、柏はドアを開いた。 「ただいま!」 「おかえり」  リビングから織の声が聞こえた。彼の普段通りの声に、ほっとする。しかし、それと同時に、彼に“闇の研究集団”について尋ねることが怖くなった。今で充分平穏だ。自分は、疑い無く幸せだ。それなのに、尋ねてしまえば、何かが変わってしまう気がしたのだ。  柏は、無言のままゆっくり鍵を締め、パロが走り寄って来るのをうまくいなしながら、スーパーの袋を抱えて廊下を歩く。  部屋へ入ると、織がパソコンと睨み合っていた。 「……おい、お前またカンヅメかよ」 「……旅行に行ったと言ったら、何か短編をかけと言われた」 「だからってずっとパソコンに張り付いて書く必要ないだろ」 「ちゃんと休息取ってるよ」 「なら、まあいいけどな。……あ、コレ今日買ったのに賞味期限明後日だな」  袋から取り出したジュースを織の前に置く。彼は当たり前のように、ありがとうとそれを受け取ると、柏になにも尋ねることなく蓋を開けた。 「今日は夜中までやるのか?」 「ああ」 「なら夜食も作っといてやるよ。何がいい?」 「おにぎりがいい」  織はすぐに答えた。柏は、胸がぎゅっと掴まれたような心地がした。こういう、無意識に、遠慮なく頼ってきてくれると、柏はどうにも気分が高揚するのだ。  柏がなにも言わないのを不思議がった織が、怪訝そうに柏を見上げて口を開いた。 「……この前のやつ」  柏は、とうとう笑顔をこぼした。 「あはは、醤油シーチキンか。あれ美味かった?」 「美味かった。……何笑ってんだ?」 「いや、何でもねぇ。思い出し笑い」  思い出して笑えることなど、今日はなかったのだけれど。柏はガサガサと棚を漁った。 「……なぁ、織」 「うん?」  織が顔を上げる。 「……俺ってさ、そんな、皆から守られなきゃいけないくらい弱そうに見える?」  まだ柏は棚を漁り続けている。織は首を傾げた。 「……守る? 弱そうには、まぁ見えねぇが……」  織の頭に、ふと柏の明るい笑顔が思い浮かぶ。 「……守るといえば、お前の笑顔とか、無垢な優しさには、守る価値がある……らしい」 「あっはは、んだそれ……」  柏はケラケラ笑った。それから、少しだけ手を止める。 「嘘って優しさか?」 「知らないほうが幸せってことも、あるだろ。どうしたんだよ、急に哲学に目覚めたのか?」  柏は首を振り、棚に顔を突っ込んだような体制で言った。 「……あ、シーチキンねぇな。織、買ってきてくんねえ?」 「…………なんで俺が」 「パロがリード持って散歩待ちしてる。お前今日外に出てないだろ」  織が、しぶしぶパソコンを閉じる。部屋着を脱いで、ラフな私服に着替えた。 「あ、織、お金財布に入れとくぞ」 「ま、待て、俺が入れる」  織は少し慌てた様子で、自分の財布を取り上げた。柏から1000円札を受け取ると、織はリビングの扉を開いた。 「あ、コーンの缶詰も買ってこい」 「なんで」 「さらにうまいヤツ出来るから。ほら、いってらっしゃい。夕飯も作っとくからな」  柏はひらひらと手を振った。ぱたんと扉が閉まる。  聞かないのが正解か。知らないふりをするのが、自分の求められていることか。それが幸せか。……一緒に、悩ませては、くれないのか。それほど、守らなければならないと思われるほど、脆く儚い笑顔に見えるのだろうか。  柏は、心がきゅっと萎んだように感じた。    織は、パロの首輪にリードをつけると、玄関の扉を開く。すでに、日は随分暮れていた。 「アイツ、手振るだけで周りの空気清浄したりしてるのかな」  パロに向かってそう言って、織はクスッと笑った。なんて馬鹿馬鹿しい。“推し”に心酔する彼に毒されてきているのかもしれない。  大学が近いこの場所は、頻繁に大学生とすれ違う。楽しそうに笑う彼らを見て、織は自分の学生時代を思い返した。  もし、自分の学生生活の中に、柏の存在があったなら。そんなことを思う。少しだけ、堺が羨ましかった。  右手で財布をにぎりこむ。柏と自分を繋いだ100円玉、などと、こっ恥ずかしいロマンスに浸る。変に浮かれる自分に恥を覚えつつも、小説家など皆ロマンチストだと開き直った。  買い物を終えて、歩き疲れた織は近くの公園に寄り、ベンチに座った。暗くなった空を見上げる。街灯の明かりに、白く光る羽虫がたかっている。財布を上着のポケットに突っ込もうとして、何かに引っかかった。手を入れると、出てきたのは、あのUSBメモリだった。  ゾワッと寒気に襲われると共に、もうほとんど思い出せないような、彼の笑顔がぼんやり浮かんだ。 「……俺は、いつまでこんなものが捨てられないんだろう」  織はUSBメモリを見つめて、ぼんやりと呟いた。パロが、ベンチに飛び乗る。織はパロの黒い瞳をじっと見た。 「……だめだな、本当に。……どこかで読んだが、こういうのは、きっぱり捨てるべきなんだと」  かつての繋がりなど、きっぱり捨ててしまうべきなのは、分かっている。けれど、酷いことをされたと分かっていても、使われていただけだと言い聞かせても、織にはそれが捨てられなかった。……だって、あのときの彼の愛は本物だった。彼の優しさは、頭を撫でる彼の手のひらの暖かさは、本物だった。  パロが織の膝上に乗っかる。土でズボンが汚れた。パロの頭を撫でながら、織は口を開く。 「なあ、パロ。俺さ、柏といると、なんか、どうしたらいいかわからなくなるんだ」  名前を呼ばれたパロは、織の顔を見上げた。 「……柏が俺の世話焼かなくなってもいいって思ってたんだ。あいつが俺に幻滅しても、別に構わないって思ってたんだ。……だって、俺に柏は眩しすぎるだろ?」  織の瞳が揺れる。 「…………でも、今はどうしたいか、わからないんだ。……ほんと、どうしたらいいんだろうな」  いっそ話してしまいたいような気もするし、ずっと話したくないような気もする。  パロはきょとんとして首を傾げた。織はふっと微笑む。 「……過去の思い出に縋って縋って、バカみたいだろ」  パロは織の顔をべろりと舐める。 「…………駄目かな……、俺みたいなの、やっぱ誰からも好かれねぇかな……」  パロはワンと吠え、突然地面に飛び降りた。それから、グイとリードを引っ張る。 「……分かってる。すぐ行く」  織はゆっくり立ち上がると、パロに引っ張られるようにして歩き出した。  夕飯の準備を終えた柏は、部屋を見回した。織の部屋は、元々は生活感のない、整った部屋だった。しかし、自分が来てから、なんだか部屋が散らかったような気がする。 「……織たち遅ぇし片付けるか」  柏はタオルで手を拭いてから、まずはテレビ近辺にしゃがみこんだ。自分がよく座っている場所だ。机の上に置いていた読みかけの本を、棚の中に戻す。他の作家の本は見やすい場所に並べてあるというのに、北条都築の作品だけは、一番下の端っこに、たくさんのファイルと共に並べてある。彼いわく、本と資料を一緒に並べているらしい。未発表の作品の資料もあると言われてから、柏はそこに手を出していなかった。  ふと、ファイルの山の中に、不自然に折れ曲がったファイルを見つけた。そういうことに関しては几帳面な織の持ち物にしては珍しい。柏は、何も考えず、ふっとそれを手に取った。 「え、これ……」  表面に書かれた、No.12の文字。よく見れば、裏面には「研究者名」「被験体名」と書かれていたらしき跡がある。名前の部分はうまく読み取れなかった。 「…………人体の研究」  ファイルに挟まっていたのは、癖のある長文で書かれた、被検体No.12という人の「実験記録」だった。No.12の発した言葉から、行動、反応まで、手書きの文字で細かく書き記されている。資料には名前が書かれておらず、このNo.12が、誰かまではわからない。しかし、柏は嫌な予感がしていた。  資料を何枚か読み終えたとき、紙とは別に、何かが挟まっていることに柏は気がついた。柏はそれを手に取る。もう一つ挟まっていたのは、織の裸の写真だった。 「ッ、なん……っ」 「……触るな!」  聞いたこともない織の大声に、柏が振り返る。織がさっと顔を青くした。 「…………おり……」 「ッ、見たのか!?」 「え、え?」 「中身を見たかときいているんだ!」  織は柏に詰め寄った。柏は、喉に言葉をつまらせながらなんとか声を出す。 「……資料、と、写真……を、一枚……」 「ッ……!」  織が、顔に絶望を浮かべた。 「…………最悪だ、クソ、……やっぱこうなるのかよ……」  織は頭を抱えて、ふらふらと二歩後ろに下がった。パロが、たかたかと足音を立てて逃げていった。 「…………お、織、大丈夫か……」 「……大丈夫に見えるのか?」  柏はたじろいだ。 「わ、悪かった。俺、あの、見ようとして見たんじゃなくて……」 「分かってるよ」  織は顔をあげようとしない。柏は俯いた。 「……違う、悪かった。読んじまったんだから、『見ようとした』って言うべきだな」  確かに、知りたいと思った。彼や“闇の研究集団”について、自分だけが知らないことが、辛いことを隠されるのが嫌だった。しかしそれは、決して、織に隠れて彼の秘密を暴きたかったわけではない。 「…………これ、“闇の研究集団”のヤツだろ?」 「……なんで知ってんだ」 「今日、林と渡が話してた。……多分、堺も知ってる、だろ?」  柏の言い方からして、堺ははっきりとは、辻の話はしなかったようだ。  織は、柏のほうをまっすぐに向き直すと、低い声で尋ねた。 「…………どう思った」 「どう、って……」  織の目が、柏を真っ直ぐに捉える。 「気持ち悪かっただろ? 絶望しただろ。なあ、どう思った」 「な……っ、んなこと思ってねぇよ!」 「なら、俺が男に抱かれて悦を感じる変態だと知って、一体どう思ったんだよ! なぁ、どう思ったってきいてんだろ!」  言葉が止まらなくなる。柏に真実を知られても平気だと思っていた。彼が自分に幻滅すればいいと思っていた。柏は自分には見合わないから。だから、堺に詰め寄られても、「怖くない」と堂々と口にできた。  しかし、いざこうなるまで、自分の気持ちが分かっていなかった。  嫌われたくない。知ってほしくない。北条都築に憧れている彼を、殺したくない。自分を攻撃するような言葉が、勝手に溢れて止まらない。 「っ、どうもこうもねぇよ!」 「ねぇわけねぇだろうが! お前気持ち悪くないのか? 自分を家に泊めてる男が、憧れてた作家が、学生時代こんなことしてたんだぞ!」  柏は織の肩をつかむ。 「だとしたって、関係ねぇよ! 織は変わらず織だろうが! この資料に書いてあることが本当だろうが嘘だろうが、関係ねぇんだよ! 俺は織って人間が好きで、北条先生は俺の希望だ!」  織が、今にも泣きそうな顔をして、無理矢理口を開く。 「なら、俺が最初から、お前に抱かれたくてお前を泊めたって言ったら、どうだよ」 「は……」 「気持ち悪いだろ。お前を最初からそういう目で見て、そういうこと考えて……」 「っ、いい加減にしろ、自分のこと気持ち悪いとか言うんじゃねぇ!」 「気持ち悪いだろ! 全部資料に書いてある通りなんだよ、俺は気持ち悪い変態だ」  柏が、顔をしかめ、ファイルから資料を全て取り出して、力いっぱい引き裂いた。織は呆気にとられてしまう。 「……お、前何してやがる!」 「もうこんなもの捨てちまえ。捨てちまえよ! こんなんあるから、自分を気持ち悪いとか思うんだよ! だったら、こんなもん俺がやぶり捨ててやる!」 「や、やめろ!」  織が、柏の腕を掴んだ。柏は、ピタリと動きを止めた。 「…………なんでだよ」 「それ、は……彼が、……彼の、愛情で……」 「……っ、こんなのが愛情だって?」  柏は頬を引きつらせる。織は首を振った。 「分から、ない……、俺は……、俺はそれを……見たくなくて、でも、……だって、彼が、俺を、好きだって……」  織は、混乱して、柏の腕を強く掴んだ。 「忘れたくない……。愛されてたんだ、俺は、本当に、愛されてたんだ……」  柏は、織というやつはなんて不器用な人間だろうと思った。苦しそうな彼を、とても見ていられないと思った。 「っ、こんな気持ち悪い俺を、彼だけが、許して、くれた……、実験資料は、その価値の証明なんだ……」 「っざけんな!」  柏は大声を上げた。織の手を振り払い、左手首を掴む。それから、彼を自分の胸に引き寄せた。 「俺のが織を好きだ!!」  織の目が見開かれる。ゆらゆら揺れる黒の瞳を、まっすぐに柏は見つめ、織に何かを叩きつけた。 「お前、なんの為に身体壊してまで頑張ったんだよ! 忘れたのか!? お前の価値は、ここにあるんだろ!」  織に叩きつけられたのは、一冊の本だった。ボロボロに折れ曲がり、いくつも付箋が張り込まれ、読み込まれた、“北条都築”の本。デビュー作、「愛執」。 「お前の価値がこんなクソみてぇな紙切れ数枚なわけねぇだろ! こんな偽物の価値なんか捨てちまえ! お前がコレを捨てらんねぇんなら、俺が捨ててやるよ! これは、ラブレターじゃねぇんだぞ。お前を嬲って楽しんでる、悪趣味なヤツのクソみてぇな暴力の記録だ!!!」  柏が、肩で息をしている。ここまで、彼が言葉を荒げて怒鳴るとは思わなかった。織は、ボロボロの本を抱えたまま、ただじっと柏を見つめていた。 「お前は、本当に、コレが大切なのか……?」  柏は資料を握りしめる。織は何も言えず、固まったままだった。  柏は息を荒げたまま、ずるずると崩れ落ちると、織の前で膝をついた。 「…………お前が苦しんでんなら、俺はそれを一緒に背負いてぇよ」  本を持った織の両手を、柏が優しく掴む。 「…………何も知らねえって、寂しいよ、織……」  きっと、皆、柏を勘違いして生きてきた。柏は馬鹿ではない。辛いことも悲しいことも、知らずにのうのうと生きてきたから、優しいのではない。世の中の不条理を、肌で感じてもがいて、それでも、人のために苦労するのが好きだと笑う、お人好しな男なのだ。 「……お前の笑顔を守りたくて、皆お前に嘘を吐いた。……でも、それってもしかしたら、お前に対する侮辱で、俺達の傲慢なのかもしれないな」  織は呟いた。  誰もが傷を抱えて、それでも平気なフリをして生きている。それが、柏だけ例外であるわけがないのに。自分の悩みのせいで彼の笑顔が曇るかもしれないなどと考えるのは、あまりにも自意識過剰だろう。  これまで、どれほどの疎外感を、無力感を、彼が感じたことだろう。柏のことを本当に信じてやれていなかったのは、堺だけではないかもしれない。 「柏……」  織は自分のポケットからUSBメモリを取り出すと、柏に握らせた。柏が、ぱっと顔を上げる。 「……捨ててくれ、柏。…………俺じゃ、捨てられない」 「……あぁ、もちろん」  細められた柏の目から、美しい雫がこぼれ落ちた。  「何をしてるんだ?」 「水を沸騰させてるんだ」 「…………お前本気で俺がソレのことをきいたと思ってるのか? そんなことは見ればわかるんだよ」  柏は、燃えている火の中に、小さく割かれた資料をあるだけ投げ込んでいく。土鍋の中で、資料が簡単に黒い灰になった。鍋の上には、網が敷かれていて、水のはいった小皿が火にかけられている。開け放った窓から、黒い煙がもくもくと出ていく。もしかしたら、今夜は通報されるかもしれない。  柏の上着のポケットには、「愛執」が入っている。織が、それを手に取った。 「ずっとポケットに入れてるのか?」 「俺が上着着てるときは、いつもポッケに入ってる。着てないときは、お前からもらった、あのバッグに入れてる。お守りみたいにしてるんだよ」 「……今まで気付かなかった」 「俺、あんま上着着てないしな。これだけは、家燃えたときも持ってたんだよ。最初に買った、先生の本だ」  何度読み返せばこうなるのだろう。織は、彼の涙の痕をなぞった。彼のかさぶたを、慈しむように優しく撫でた。 「……よし、沸騰した」  柏はUSBメモリの蓋を外すと、沸騰したお湯の中に投げ入れた。 「あっ」  USBメモリは、呆気なくお湯の中でぶくぶくと息絶えた。織は、ぽかんとしてその光景を眺めていた。 「ふん、これでもし復活したら、俺は次回この会社のUSBを買うぜ」  柏は得意げな表情で言った。織は、柏とUSBメモリを目で往復して、素直に口にした。 「……お前、馬鹿だな」 「馬鹿ってなんだよ。柏くんは賢いんだぞ」 「別にそんな真剣にやらなくていいんだよ」  織は、柏の本を机の上に置いて、目を伏せて呟いた。 「……ずっとここにいてくれれば」  柏が、ゆっくりと織に向かい合い、そろそろと尋ねる。 「……なあ、織、それ、やっぱり、好きってことか?」 「は?」 「俺のこと、お前好きなのか……?」 「……俺、さっき言わなかったか?」 「さ、さっきは、なんかこう、なんか違っただろ? 勢いだったし。もう一回確認しときたくて……」  織の目線が、一度柏の顔を見て、それから床を見た。わなわな唇が震えて、再び目が合う。 「…………柏からどうぞ」 「え……」 「当たり前だろう。どちらかといえばお前のほうが勢いだった」  突然、緊張で汗が止まらなくなる。固まってしまった柏を見て、織が、くすっと笑った。 「柏」  彼の甘ったるい声が、耳に届く。からかわれている。主導権を握られている。まるで、彼に首輪をかけられたような心地がした。 「……好きだ。織が好き」  柏ははっきりとした声でそう言った。織が、目をぱちぱち瞬かせ、頬を緩ませた。 「…………っはは、俺も柏が好きだ」  織が柏の肩に手をおいて背伸びをする。柏は、こくりとつばを飲み下して、少し顔を近づけた。織が目を閉じる。織の唇に、ゆっくりと、触れる。 「……っ柏! 柏、机燃えてる!」  織が、ジタバタと柏を叩いた。柏がバッと振り返ると、机から煙が出ていた。 「うぉ、やべ、水! 織、水!! バケツどこだよ!」 「おちつけ! 水くらい皿で汲めるだろ!」 「天才だな!」 「お前は馬鹿だな! 平皿で水が汲めるかよ」  織は深皿に水を溜めると、火元に流し込むように水をかけた。すぐに火は鎮火し、机は少し黒く焦げただけで済んだ。  織は、ほっと胸をなでおろす。 「あっぶねぇ……火事んなるとこだった……」 「ほんとに、もう……、変な火に好かれすぎだ、お前は……」  はぁはぁと荒く息をしながら、二人は顔を見合わせた。 「……っふ、ふふ、はは、ははは……っ」  突然笑いだした織を、柏はバツの悪そうな顔でじっと見つめた。織は腹を抱えて、しばらく肩を震わせていた。 「…………ありがとう、柏……」  織は俯いたまま、震える声でそうつぶやいた。柏は、織の頭を荒く撫で、ふっと微笑んだ。 「……どういたしまして」  織の頭を撫でていたら、パロが駆け寄ってきた。柏はその手をパロにも伸ばす。 「なあパロ」  柏は織を抱き寄せて、ぎこちなく笑った。 「……お前のご主人様、俺のにしていいか」  パロはへっへと笑いながら、柏の指に噛み付いた。

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