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二十九、父
ふと目をあけると、千珠は夜闇の空を漂っていた。
ちょうど新月なのだろうか、真っ暗な夜の空に星が煌めいている。
――ここが都か。
厳重に退魔結界が張り巡らされているのが分かる。霊体の千珠には、京の上空を網目状に張り巡らされた結界の姿が、はっきりと見えている。
不意に引き寄せられる力を感じ、その力に身を委ねると、千珠は暗がりの中に静まり返る一棟の建物の方へと引き寄せられてゆく。
ふわりと中へ降り立つと、立烏帽子に濃紺の直衣を身にまとった男の後姿が目に入った。青白い煙が立ち昇る香炉に向かい、その男は手を合わせている。
千珠がそちらに歩み寄ると、その男はゆっくりと千珠のほうへ身体を向けた。
「……父上?」
「大きくなったな、千珠」
「俺のことが見えるのですか?」
「ああ」
男は優しく微笑んだ。懐かしい笑顔だと感じた。記憶はほとんどないというのに、幼い頃、何度もこの笑顔に出会っていたような気分になる。
都らしい、品の良い顔立ちをした色の白い男だった。涼しげに整った目元や鼻筋のあたりなど、千珠の面差しによく似ている。
男の目から、ひと筋、ふた筋涙が零れた。
「会いたかった、ずっと、ずっと」
父は声を詰まらせてそう言った。
「父上……」
父の手が千珠の方へ伸びたが、その手は虚しく空を掠める。
「……お前は今、霊体だったな。迷いの世界から抜けられぬそうだね」
「はい……」
「私たちは、お前をここまで深く苦しめていたのだな」
父は目を伏せた。
「お二人のせいなどと、考えたこともありませぬ。ただ、俺がもっと強い心を持っていれば……と。それが悔しくて、ならぬのです」
「人を殺せば、己の中の人間の血に苛まれ、かといって人を殺めるのがお前に課せられた盟約の掟。千珠……お前にとって、何が最善なのだろうな。このまま黄泉の国へ行き、母上や白珞族の皆と平穏に生きるという道もある」
「黄泉で……」
「何の迷いもない。人を殺めて生きることもない。慣れ親しんだ仲間たちと平穏な生活が送れるのだよ」
「……」
「しかし、お前には人間との契約もある。見なさい、これを」
父が、香の煙をすっと撫でるように払う。煙はふわりと円を描きながら空間に広がり、その中に像を映し出した。
眠る千珠の横で、険しい表情を浮かべる光政が見えた。その後ろに舜海が控えている。いつもの明るさはどこへ消えたのか、沈んだ目を伏せて。留衣も、城の屋根の上で膝を抱えて空を見上げている。
そして、花音の姿が映った。無邪気に眠る花音は、千珠が出立の前に読んでやった本をしっかりと抱きしめている。
千珠は懐かしさに微笑んだ。
映像は戦場へと変化した。泥と血に汚れながら戦う兵士たち。采配を振るう光政の姿。留衣を筆頭に敵国の城を荒らす忍たち。馬を駆る舜海の姿。
そして煙がまた揺らぎ、見慣れた景色から立ち上る黒煙の像へと変化する。敵国の兵士が、青葉の国に攻め入ろうとしているのだ。
千珠は思わず腰を浮かせた。
「これは少し先の未来。青葉軍の遠征の隙をつき東軍付きの海賊が青葉の国を荒らそうと目論んでいる」
「何故このようなことが見えるのですか?」
「そなたの母が私に教えてくれたのだよ」
「これでは、青葉の国を奪われてしまう……!」
千珠は焦りを抑えられない。思わず立ち上がって格子の窓から夜空を見上げた。
「……行かなくては」
「それがそなたの答えなのだな?」
千珠が振り返ると、父はにっこりと微笑んでいた。
「そなたには守りたいものがある。そなたを必要としている手がある」
「……はい」
「その逸る気持ち、そなたは立派に自分の居場所を得ている証拠だ。離れてみて初めて、お前を求める存在や、成すべきことに気づくものだ」
父は立ち上がって、千珠と向かい合った。
「行きなさい。今ならまだ間に合うよ。西軍の筆頭として、青葉の皆と共にこの都へ上ってきたとき……ようやく、生身のお前と対面できよう」
「はい。必ずお目にかかります」
千珠は微笑み、差し伸べられた父の手に自らの手を重ねた。
「間違いなくお前は私の息子だ。その時を待っているぞ、千珠」
父は微笑み、触れることのできぬ千珠の背中を、とんと押した。
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