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二十八、母

 千珠は、起き上がった。  視線を巡らせると、辺りは見渡す限りの蓮花畑である。空はうっすらと桃色かかった薄曇りで、薄ぼんやりとした虹が、空のあちこちに橋をかけている。  ――ここは……?  立ち上がってさらに遠くまで見渡すと、きらきらと玉虫色に輝く水面が見えた。千珠はそちらに足を向けてみる。  見たこともないような大河だった。緩やかにうねりながら、地平線の果てから果てまでを繋ぐかのような、巨大な河が横たわっている。  水際に立って遥か向こうを見やると、微かに陸地の影のようなものが見えるが、霧に阻まれて輪郭は覚束ない。  ――どこなんだ……?ここは。  暑くもなく、寒くもない。風もなく、ふわりふわりと蓮花の良い香りが千珠を包み込む。  千珠は不思議と戸惑いも不安もない穏やかな心持ちで、その美しい風景を眺めていた。  「千珠」    どこか懐かしさを感じさせる、やや低めで優しい女の声。  千珠は弾かれたように振り返った。  豊かな銀髪をした、美しい女が佇んでいる。  琥珀色のやや釣り気味な大きな目や、つんと少しばかり上を向いた小さな鼻やふっくらとした紅い唇は、千珠のものとそっくりである。  白装束の上に、淡藤色に色鮮やかな蓮の花が描かれた美しい羽織を身にまとうその女は、千珠に優しく微笑みかけた。 「は、母上……なのですか?」  千珠は目を瞠る。 「大きくなったな、千珠」 「うそ。何で……?」  千珠はじりりと後退りした。  ここは黄泉の国か?それとも俺は幻想を見ているのか……? 「ここは黄泉への入り口だ。千珠、お前は深い迷いを抱いているようだね」  千珠の母、珠櫛(たまぐし)は、まっすぐに千珠の目を見つめてそう言った。千珠ははっとする。 「人の世に戻るか、それとも何の迷いもない黄泉の国へ共に参るか、そなたが決めるが良い」 「何を仰っておられるのか……」  千珠は頭が混乱してきた。 「水の中をごらん」  千珠は言われるままに水面を覗き込んだ。静かな(さざなみ)の後、何かがそこに像を現しはじめた。  古びた薄暗い場所に、誰かが寝かされている。    これは……俺?  その横に座っているのは、光政か? 「これは何です……?」 「人の世の様子だよ。お前は今、深い眠りから醒められないでいる。そして、この男はそれを己のせいだと自分を責めている」 「え……?」 「まぁ、光政殿のせいでないといえば嘘になろう。そなたを助けたまではよいが、契約を半ば強引に迫ったのはこの男だ」 「……」 「そして、そなたに重い葛藤を課してしまったのは、他でもないこの私」  千珠は母を振り返った。  珠櫛は、少し寂しそうな目をして、微笑む。 「すまぬな……。千珠」 「そんな。俺は母上を恨んだことなど一度もない」  千珠は立ち上がって母と向かい合った。 「その苦しみ、誰かに刃を向けることが出来れば楽だろう?この母に向ければよい」 「何を仰るのです?そんなことが出来るわけない」 「この先も、その苦悩を抱えて人を切り裂くのか?お前にそれが出来るのか?」 「……」 「迷っているね……。そなたは父上の優しい血を受け継いでいるからな」  母は眉根を寄せ、華やかな美しいその顔に苦しげな表情を滲ませる。 「俺……どうしたらいいんだろう」  千珠は、ぽろりと迷いを吐いた。  母を目の前にして、甘えたい気持ちが湧いたのかもしれない。  珠櫛は千珠に歩み寄り、そっとその頭に手を置いた。千珠のものよりもずっと長く鋭い鉤爪の生えた、白い手だった。 「父上に、会いなさい」  「え?父上に?」 「父上は今、朝廷にて神祇官の長官をしておられます。妖魔の類は、京に容易には立ち入れぬけれど、父上が取り計らってくれるでしょう」 「……俺のことを覚えておられるかどうか……」 「我が子の顔を忘れてしまう親などおらぬ。安心なさい」 「……はい」 「水面の中に見える場所へ、行きたいと念じなさい。父のもとへ降り立ちたいと」 「はい」 「千珠、私の可愛い子……。逢えて良かった」 「母上……」  母の目に、涙が光る。ゆっくりと髪を梳く母の手の温もりや、その目に溢れる千珠への愛おしさを、もっともっと感じていたかった。  しかし、互いに離れ難くなりそうになる心を振り切るように、母の手はすぐ千珠の背を軽く押す。 「さぁ、おゆき。私はいつでも、お前のそばにいるからね」 「……はい」  千珠は目を閉じた。  意識が蓮花の香りの中へと溶けてゆくのを感じながら、その身を深く深く水の底へと押し沈める様を思い描く。

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