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二十七、迷いに堕ちた千珠

「まだ千珠は目を覚まさぬのか?」 と、光政は振り返らずにそう尋ねた。 「ああ、まだ眠ったままや」  舜海は眉根を寄せたまま、応じる。 「あいつの苦しみに気づいてやれなかった罰が……今やってきたのだろうか」 「あまり自分を責めるなよ、兄上。そのうちひょっこり目を覚ますかもしれない」 と、留衣が兄を慰める口調でそう言うと、光政は妹を振り返り微笑んだ。 「様子を見てこよう」  光政は自ら、千珠のもとを訪れる。  伏せられた長い睫毛が、日を追うごとに影を増しているような気がする。  このまま目を開けないのではないかという恐怖に、襲われる。  ――目を開けてくれ。また俺に無礼なことを申してみよ。  光政は無意識のうちに千珠の手を握り締めていた。  細く、微かに熱をもった千珠の手。  か細い鈎爪が、光政の手に一筋の赤い糸を引いた。 「なんで千珠はこんな状態に……?」 と、後ろから舜海が光政に声をかける。 「こいつは、ずっと人間と鬼の血に葛藤していたのだ。……しかし、俺との契約ゆえに人を殺さざるを得なかっただろう?それゆえ、迷って苦しんで……俺がここまで千珠を追いつめていたんだ」  そう話す光政の声が、微かに震えた。 「殿だけのせいやない。我々皆が、勝利をこの細っこい鈎爪にすがりすぎたんや」 「しかし、千珠をここへつれて来て、契約を迫ったのは俺だ」 「僧兵に殺されかけていたのを救ったのは殿やないか。そして契約を承諾したのも千珠自身。殿が一身に気を病むことはないやろ」 「……。悪いが……二人にしていてくれないか。俺も少し、気持ちの整理をしたい」 「分かった」  舜海は頭を軽く下げると、千珠の寝所を後にした。  光政は千珠の額に手をおいた。髪の毛をかきあげてやり、千珠の瞼と唇に触れてみる。  暖かく、柔らかい。以前と変わらぬ千珠の肉体。  しかし心はここにはなく、今は恐らく深い夢の中。  ――どんな夢を、見ているんだ……?  平和な夢なら、このまま寝かせておいてやるほうがいいのかもしれない。光政はふとそんなことを考えた。  もう苦しむこともない。その手を血に濡らすこともない。  ――それならいっそ、永遠にこのままでも……。  光政は頭の中にふと閃いた不穏な考えを打ち消すように、固く目を瞑った。

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