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三十八、後ろ向き

 日が暮れる前に、二人は白珞族の里を離れた。  馬を並べて、山道を歩く。  千珠は無言のまま、何を考えているのか、それとも何も考えていないのか、疲れた表情を見せている。 「もう休むか?千珠、疲れたやろ?」 「……そうだな」 「この先に廃寺があるから、そこで休もう」 「ああ」  千珠は生返事をして、舜海についてくる。 「なあ、舜海」 「ん?なんや?」 「今日……満月だな」 「え?ああ、ほんまやな。……ってことは」  舜海が東の空を見上げると、山際に丸く白い大きな月が顔を出し始めていた。  千珠は、すっきりしない顔で舜海を見ると、言いにくそうに言った。 「俺、今夜一晩、人間になるんだ。完全に妖力がなくなるんだ」  舜海は千珠を振り返る。千珠の身体からは、事実、ほとんど妖気を感じなくなっていた。 「それなら、早うどこかで休もう。あんまり外におらんほうがええやろ」  普段無表情であることが多いゆえに冷静にも見える千珠であったが、今はそわそわと辺りを窺うように視線を彷徨わせ、明らかに何かに怯えているようにも見えた。舜海はそんな千珠を先導して馬を走らせ、半刻ほどで、こんもりとした森の中にある廃寺までやって来た。  取り敢えず、人となる千珠を隠し夜露を凌ぐ場として、鄙びた堂を一晩借りることとした。  堂の中はあちこち床板がめくれており、天井には主のいない蜘蛛の巣が蔓延(はびこ)っているという荒れ果てぶりであるが、それでも身を隠す場所を得て、千珠は少し落ち着きを取り戻したようだった。  編笠を外し、そこから背中に流れ落ちた長い髪は艶めいた漆黒に染まっていた。舜海は目を瞠る。 「おお。ほんまに人間ぽいやんか」  舜海は呑気に感心しているようだ。 「人間なんだよ。よく見ろ」  千珠は舜海に向けて、手のひらを広げて見せた。 「爪がない」  鋭い鉤爪が消え、普通の人間の指になっている。ふと顔をあげて千珠の目を見ると、普段は琥珀色の千珠の瞳は、濃い黒茶色である。  薄闇の中で見る黒髪の千珠は、いつもよりずっと幼く見えた。 「じゃあ、今もし俺と戦っても、お前負けるんか?」 「何の太刀打ちもできないな」  千珠は堂の隅っこに座り込んで膝を抱えたが、微かな物音にびくりと身体を震わせ、四つ這いで舜海の近くに戻ってくる。  そんな様子を物珍しげに眺めている舜海の視線に気づくと、ちょっと不貞腐れた表情になりつつも、舜海のそばでもう一度膝を抱えて座り込んだ。  舜海は吹き出しそうになるのを堪えつつ、辛うじて残っていた燭台に火を灯して千珠の方へ向けた。そして、縮こまっているその姿を見て少し笑う。    ――……なんや、可愛いところもあるやん。  と思いつつ、舜海は千珠を刺激せぬように静かな口調で尋ねる。 「怖いんか?」 「……不安なんだよ。いつもは妖力で守られてる感じがするけど、今は、丸裸でいる気分だ。毎月毎月死にたくなるね」 「俺がおるんやから、大丈夫やって」 「ふん、あてになるもんか」 「……む。口の悪さは変わらへんようやな」 と、舜海はぴき、と青筋を浮かべて千珠を軽く睨む。 「もう寝よや。寝て起きたら朝になってるやろ」 「うん……」  千珠は疲れているのか、のろのろと寝支度を整え始めた。髪を解き、羽織の袖を抜いてその身に巻きつける。  妖力を感じられない千珠は、ひどく小さな存在に見えたが、これが人としての年相応な姿なのかもしれない。  所在なげに丸くなっている千珠の心細そうな表情を見兼ねて、舜海は溜息混じりに提案した。 「震えるほど寒いなら、俺があっためたろか」 「……薄気味悪いことを言うな」 「ぐぬ、人の善意をお前というやつは……!あのな、夏が終わったばかりとはいえ、山の夜は冷える。目の前でぷるぷる震えられたら、こっちが眠れへんわ」 「……お前、俺のこと襲うか?」  唐突に千珠はそんなことを言い出すものだから、舜海はぎょっとして、「はあ!?襲わへんよ!」と声を荒げる。 「何だよ、その慌てぶりは」  千珠は胡散臭そうな目で舜海を睨む。 「急に変なこと聞くからや、阿呆」 「なら……一緒に寝てやってもいい」 「いちいち引っ掛かる言い方しよって……。ほんならまぁ、こっち来い」  千珠は舜海のそばに這っていくと、その肩に引っ掛けた黒衣の羽織の中に抱き込まれる。  舜海の筋肉質で重たい腕が、千珠の肩に回された。  暖かかった。   舜海の力強い霊気に身を包み込まれることで、ひどく安堵することに気付く。  光政のものとは違う、舜海の漲るような霊気が、妖気を失った空っぽの身体に染み入ってくる。その感覚に、涙が出るほど安心していた。  仲間を失った心細さも、戦で斬り殺した人々への罪悪感も、これからの不安も、全てを受け入れてくれるような、おおらかな霊気だった。   「お前……いい匂いだな。美味そうだ」 「おい、怖いこと言うな」  ぴく、と舜海の身体が固まるのが面白く、千珠は笑った。 「お前の霊気の匂い、悪くない」 「ふぅん、そうかよ」 「うん……」  舜海の衣に顔を寄せ、千珠は深く呼吸した。もっともっと、その霊気を吸い込むように。 「こんなことしてたら……殿が怒らへんかな」  ふと、舜海が独り言のようにそう呟く。 「何でだ?」 「いや、ほら、お前のこと……大事にしてはるからや」 「別に気にすることじゃないだろ?」 「まぁ、そうかもしれへんけど」  舜海はすっきりしない表情で千珠を抱きかえて壁にもたれ、ゆらゆらと揺れる蝋燭の火を見つめている。 「俺はあいつに飼われてるわけじゃないんだ」 「そんなこと誰も思ってへんよ」 「そうかな。戦が終わった今、俺はそう思われても仕方ない立場だよな。……俺、知ってるんだ。殿はすっかり鬼に誑かされてるんだって、皆が噂してること」 「そんなん、ほとぼりが冷めりゃ、皆忘れるやろ。戦場ではようあることやし」 「……うん」 「居づらいか?このままじゃ」 「俺は、戦が終わった今、光政の、この国の何であればいいのかが分からない」 と、千珠はぽつりと言った。 「普通、戦が終われば俺たちは里へ帰っていく。戦があればまた呼び寄せられる。戦いの中でしか、人間とは関わらないのだ」 「君主とこういう関係になるっていうのは、他のやつらでもあるんか?」 「まぁな。でも、こんなに感情を持って接せられることは今まで聞いたことがない」 「感情、か」 「光政は明らかに俺のことを大事にしている……しすぎている。あいつは、棟梁として世継ぎを残さねばならない身分だ。奥方からしても、俺のような者が光政とこのような関係にあるのは、好ましくないだろう」 「そうやなぁ……。じゃあやめるんか、殿とのことは」 「これ以上は、面倒なだけだ。それに平和が戻れば、国の中に鬼がいることを皆忌まわしく思うかもしれないし……」 「おい、千珠」  舜海は、膝を抱えてどんどん内に籠っていくような話し方になる千珠の肩を、ぐいと引き、言い放つ。 「意外と暗いねんな、お前」  「は!?う、うるさいな!」  千珠びき、とこめかみに青筋を浮かべる。 「そんな面倒なこと、考えんでいいやん。お前はもう俺たちの仲間やろ?そんなお前が、俺らのそばにおって何が悪いねん。戦でも、これ以上ないほどの貢献をしたんや。お前がいちいち思い悩むことなんか何もないと思うんやけど」 「……」  千珠は大きな黒い瞳で、舜海を見上げていた。そして、ふと何も言わずに舜海のほうへ身体を凭せ掛けると、舜海の衣をぎゅっと握りしめる。 「?」 「お前は、いつも俺に答えをくれる」 「そ、そうか?」 「うん」  ちらりと、千珠の顔を見てみた。  千珠は目を閉じて、とても穏やかな顔をしている。心の底から安堵しているような表情だった。  様々な表情を見ていたが、今の千珠は今までで一番人間らしく、一番幼く、そして一番美しかった。  舜海は千珠の身体を抱き込んだままごろりと横になり、千珠に腕枕をしてやる。 「寝やすいやろ」 「……ん」  千珠は微かに身動ぎした後、規則正しい呼吸を繰り返し、そのまま眠りに落ちていったようだった。  早鐘を打っている心臓に身を任せながらも、舜海は千珠の寝顔から目が離せないでいる。  白い肌、伏せられた艶やかな黒い睫毛、薄く開いた紅い唇……。戦が始まってからずっと、女の肌に触れることも出来なかったこともあり、千珠の美貌や、あたたかな柔らかさは、思っていた以上に舜海の性を刺激する。  ――……男やで、こいつ。顔きれいやし、華奢やけど、男や、男!それに、こいつは、殿の……。  ……殿の、何やろ。 「眠れへん……」  眉を寄せながら舜海は呟き、千珠の黒髪をそっと撫でた。

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