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終話 生きる場所

 かすかに漂う千珠の妖気を辿ってゆくと、鎮守の森に出た。舜海は歩調を緩め肩で息をしながら、森の中を進む。  鳥居をくぐると、暗がりにぽつんと小さな社が見えてくる。普段から近くに住まう者たちが手入れをしているのであろう、境内の中は奇麗に掃き清められていた。 「千珠、おるんか?」  呼びかける舜海の声が、静寂に溶けこんでゆく。月は雲に隠れてしまい、真っ暗な闇夜である。しばらくその場に立って辺りを見回していると、暗闇にようやく目が慣れてきた。 「おーい」 「五月蝿いな」  頭上から千珠の声が聞こえてきた。舜海は安堵し、声のする方を見上げた。  社の屋根に腰掛けてこちらを見下ろしている千珠の姿が、ぼんやりと白い影のように浮かび上がる。しかし、表情は暗くて見えない。 「何か用か?」  無愛想な声である。  ここからいなくなったのではないかと心配になった……などと素直に言えるはずもなく、舜海は千珠を探しに来た理由を言い倦ねた。 「いや、その、姿が見えへんから……」 「殿にも言われたよ、理由なく消えるなと」 「そ、そうか。何で昨日から姿消してたんや?」 「殿に早くお世継ぎをとご進言申し上げたら、ご機嫌を損なわれたのだ」 「だから一人で戻ったんか」 「そういうことだ」  何となく、そんな話をしたのではないと察しはついていた。舜海との間に起きた出来事について、何か話をしたのだろうと。 「すまんかった。俺があんなこと……ややこしうしてしもたな」 「何の話だ」  千珠は音もなく屋根から玉砂利の上に降り立つと、舜海の方に近づいてきた。 「まぁこれで、しばらくすればおかしな噂は消えるだろ」 「お前なりに気ぃ回したんやな」  この国と光政の将来のことを千珠が気に掛けていたことを思うと、光政との間でなされた話も想像がつく……と、舜海は理解する。 「ふん」  千珠は社から出ていこうと、舜海の脇を通り過ぎようとした。舜海はそんな千珠の腕を掴む。 「どこ行くねん」 「何だよ、痛いぞ」  千珠は逆に舜海の腕を取ると、その腕を背中の方へ一瞬で捻り上げる。 「いててて!!」 「油断してるな。お前はいつでも、俺に喰われることを心配していろ」  鳥居にぐいぐいと力任せに押し付けられ、身動きが取れない。捕らえられた手首に千珠の鉤爪が食い込む痛みが、酔って呆けていた舜海の頭をはっきりと醒ます。 「……痛いやろうが、離せや!」  舜海も渾身の力を振り絞って、千珠の手を振り払う。千珠はくるっと後ろに一回転して飛び退ると、砂利の上にふわりと舞い降りた。  手首の傷の上は、ぬるりとした血の感触があった。舜海は暗闇の中にぼんやりと見える千珠の白い影を、見据える。 「お前は本当に美味だな」  雲が晴れて、月明かりが辺りをうっすらと浮かび上がらせた。千珠は指についた舜海の血をぺろりと舐め、にやりと笑う。  その姿は妖しく美しく、舜海は切り裂かれた手首を押さえながら僅かに怖気を覚えていた。 「次は肉を喰らいたいな……」  千珠は笑みを浮かべたまま地上高く跳び上がり、舜海に飛び掛ってきた。舜海は素早く身をかわすが、振り下ろされた千珠の爪によって抉れた土塊と玉砂利が、鋭く舜海に降りかかってくる。 「おい!お前……何してんねん!」 「丸腰では何も出来ないか」  千珠は音もなく舜海の背後に回り、両腕でその首を捕らえた。  速い。それに、この力は。  少し力を加えられたら、この首は折れてしまう……舜海は息を呑む。  次の瞬間、千珠は舜海の首筋に牙を立てた。 「いっ……!やめろ!」  舜海はあらん限りの力を振り絞り、千珠の衣を引っ掴んで背負投を喰らわせ、地面に叩きつけた。そのまま千珠の上に馬乗りになると、今度は舜海がその細首を掴む。 「一体どういうつもりや!お前!」 「……ふふ、くくく」 「え?!」  千珠は拳を目の上に当てて笑っていた。舜海は肩で息をしながら、怪訝な表情で千珠の顔を見ていた。 「お前、完全に惚けていたからな。ちょっと喝を入れてやっただけだ」 「なんやと!?」 「思い出せよ、俺はこういう奴だって」 「……ふざけるのも大概にせぇよ」 「ふざけてなんかない。お前も俺に、あまり気を向けすぎるなと言いたいんだ」 「はぁ?」  どきりとする。確かににここのところ、千珠の脆い部分をたくさん見てきた。それによって、千珠を守ってやらねばという思いが強まっていたのは事実だ。  それは千珠の一面ではある。しかし、確かに普段の千珠はこういう男だ。本気でやり合えば勝ち目はない。 「……人間は脆いな」  そう言って、千珠は舜海の手首を持ち上げると、流れだす血液をぺろりと舐めとった。傷口に唇を寄せる千珠の舌の感覚にぞくぞくさせられ、変な気分になりそうになった舜海は、ぱっと腕を引いて袖の中に引っ込めた。 「まだ、迷ってんのか」  「……」  舜海は、乱れた衣服を整えている千珠に尋ねる。 「そういう訳じゃないが……。お前のように、ここに居たらいいと言ってくれる人もいる。でも、あれだけの殺戮を見せた俺が、この国に受け入れられるとは思えないよ」 「そんなこと!あいつらはみんな、お前に救われたと思ってんねんで!」 「どうかな」 「戦に出てたのは、訓練された兵士ばかりじゃない。漁師や農民、普通の生活を送る人たちもたくさんおった。そいつらはなぁ、無駄に戦場で死なずに済んで、家族のもとに帰れたんやで。それを感謝せぇへんはずがないやろ。兵士たちは、自分たちの役割も、お前の役割もよう分かってる。大丈夫やから」 「……」 「人が鬼かなんて、今さら何の関係があんねん。壁作ってんのは、お前の方やろ」  気付けば必死の説得になっている。千珠はじっと舜海を見て、少しばかり微笑んだ。 「そんなに、俺にここにいて欲しいのか、お前は」 「ばっ、馬鹿野郎。それは……」  舜海の顔が暗がりでも分かるほどに赤くなり、たじろぐのを見て千珠はまた少し笑う。 「……馬鹿な男だ」 「はぁ?どういう意味やねん」 「俺を哀れと思ったんだろう」 「……違う。そんなんちゃう。俺は、戦で家族をなくしてここにいる。ここにいてよかったと思ってる。人はな、一人ではおらんほうがええ。やっぱり、誰かと一緒にいたほうがいいっていうことを、俺は身をもって分かってるつもりや。だからお前も、迷ってるならここにいろ」  千珠は黙って舜海の言葉を聞いていたが、ふらりと立ち上がってくるりと背を向け、社の方を見た。月が再び陰りはじめ、辺りは暗闇に溶けこみ始める。 「千珠。ええか、お前、普段は鬼のように強いかもしれへんけど、人間の時は弱っちいただのがきや」 「……」 「そんな時は、俺がお前を護ったる。そうじゃない時は、お前がこの国を護るんや」  舜海は後ろから千珠をぐいと抱きしめる。 「それでいいやん。難しいこと考えすぎるな。ずっとここにいろ」 「……」  千珠は舜海の腕からするりと逃れて、乱れていた着物の帯をぎゅっと締め直した。  月光を浴びてきらめく銀髪、暗がりでも輝くような琥珀色の美しい瞳には、迷うことに疲れたような穏やかさがある。 「……お前の言う通りかもしれないな……」  空を見上げると、欠け始めた満月。それを覆いながらも、足早に消えて行く雲。  美しい風景。穏やかな風の音。  ここにいて、人を護る。誰かを護る。  それが、自分にとっての生きる意味なら。  ここで生きてみよう。  滅びた仲間たちの分まで、ここで。  まだ、迷いは拭い切れない。  でもここで、俺を求める者達のいるこの場所で、生きてみよう。  舜海はそっと手を伸ばして、千珠の頬から泥を拭ってやった。 「……帰るぞ、千珠」  まっすぐに千珠を見つめて、舜海はそう言った。  千珠はただ、こっくりと頷く。 「……ああ」  月を見上げる。  白く冴え渡る光を放つ月は、ただただ静かに、千珠を見下ろしていた。 「帰ろう……」  ひんやりとした秋の夜風に、千珠の呟きが溶け込んでいく。  砂利を踏んで元きた道を戻る二人の足音が、暗がりの中に響いた。 異聞白鬼譚【一】ー孤独を忌む鬼ー  ・  終

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