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九、戸惑い

「いっ……!」  千珠は顔をしかめて思わず呻く。舜海が千珠の傷を井戸水で洗っているのである。 「おいおい、肉持ってかれてんで。鬼が人に喰われてどうすんねん」 「五月蝿い」 「よし、こっち来い」  舜海は城の土間と台所を抜け、自室に千珠を招き入れた。窮屈だからという不届きな理由で寺には帰らぬ舜海のため、六畳間が与えられているのだ。経文や武具でごちゃごちゃとした部屋に千珠を座らせ、明かりを灯すと、舜海は押入から小さな壺を取り出す。  千珠は忍び装束をゆっくりと解き黒い頭巾を外すと、さらりとした銀髪が背中を滑り落ちる。上半身裸になると、真っ白で引き締まった身体が蝋燭灯りのもとにぼんやりと白く光る。舜海は丁寧に薬を塗り、清潔な布を傷の上から押し当てた。 「っつー……!」  千珠は身体をびくっと震わせ、歯を食い縛る。 「滲みるやろ。寺に伝わる秘伝の傷薬や」  舜海は痛がる千珠を笑い、晒しを巻いてやる。千珠はあぐらをかいてしばらく眼を閉じ、薬の滲みる痛みに耐えていた。 「よし、これでも着とけ」  傷の手当が終わると、舜海は草色の浴衣を千珠に投げて寄越した。舜海のものであるためかなり丈が長いが、構わず千珠は立ち上がって衣を身に纏うと、帯をぐっと締める。  舜海はそんな千珠の姿を見上げて「殿が心配そうやったな」と呟いた。  千珠は琥珀色の大きな瞳で舜海を見遣ると、千珠は手当された肩に触れながら「殿に触れられたのは久しぶりだ」と、言った。   光政との関係は、戦の終焉を機に千珠から断った。この国の繁栄ためにも、光政の自分への強い想いを早めに絶っておきたかったのだ。  光政もそんな千珠の思いを知ってか知らずか、それ以後は千珠と二人になろうとはしていない。 「さて、これからどう動く?」  それ以上光政のことに触れたくないのか、千珠はいきなり話題を変える。  千珠の問に、舜海は顎に手を当てて空を見上げた。もうすぐ夜明けか、そろそろ空が白み始めている。 「とりあえず、俺はこの匂いを辿ってくる」 「おう、場所が分かったら戻って俺に言え。供養しに行かなあかんからな」 「分かった」 「もう出るか?」 「そうだな、時間もない。新しい忍装束に着替えてくる」  千珠は肩に手をやり、自室の方へ歩き出した。舜海はもう一度紗代の寝所の様子を見に行こうと、千珠とは反対に歩き出す。  +  舜海が再び紗代の寝所に顔を出すと、柊だけが戸口の側に控えていた。 「あれ、殿は?」 「お疲れやったみたいやし、休んでもろたんや」 「そうか。で、紗代様の様子は?」 「特に変わりない」 「ふーん……」  舜海は紗代の顔を覗き込んだ。ゆらゆらと揺れる結界の向こう側で紗代は眼を閉じ、青白い顔で眠っている。心なしか目元に翳りが出てきて、すこしずつやつれてきているようにも見えた。 「急いだ方がええな……」  舜海と柊は顔を見合わせる。  +  千珠が着替えようと自室に戻り障子を開けると、薄暗闇に光政が佇んでいた。  千珠は驚いて、肩を揺らす。 「殿、こんな所に……」 「何も無い部屋だな」  光政はどことなく疲れた表情でそう言い、部屋を見回す。  千珠に充てがわれた部屋は八畳間で、衣服を仕舞う簡単な箪笥と文机の類しか置いていない。文机の上には兵法の書物が積まれている。 「傷は、どうだ?」  光政は静かにそう尋ねた。千珠は襖を閉め、光政と少し距離を取って正座する。 「どうもない、二三日で治る」 「そうか、すまないな、紗代があんなことを」 「いや、あれは紗代様ではなく憑物だ。着替えたらすぐに敵を探す」 「頼む」  光政はそう言うと、千珠に向き直って微かな笑みを見せた。千珠も立ち上がろうとしたが、不意に伸びてきた光政の大きな手に腕を引かれ、すっぽりと抱きすくめられる。  懐かしい匂いだった。そして、懐かしい体温だった。  戦の最中(さなか)、人を斬って荒ぶった互いの心気を収めるために、夜毎身体を重ね合ったこと、千珠自身もその体温に安らぎを求めていたことを……そして、光政に注がれた強い想いを、その身をもって思い出す。  しかし、数多の人間を殺めた罪悪感までもがその身に蘇ることを恐怖した千珠は、光政の腕から逃れようと身体をよじる。 「……離せ。俺はもう行く」 「黙っていろ」  光政は押し殺した声でそう言うと、さらに千珠を抱く手に力を込める。二人は膝立ちのまま、しばらくそうしていた。 「少し背が伸びたな、体つきも、しっかりしてきた」 「……そうかな」  光政は頬に当たる千珠の絹糸のような髪を撫で、耳から首筋へと唇を這わせた。千珠はぴくりと身体を硬くして、光政を押し返そうと身体をよじった。 「や、めろ」 「相変わらず美しい肌をしているな」 「んっ……」  光政の唇と舌の感触に、千珠は再び身体を震わせる。  光政は千珠の着物を肩からゆっくりと滑らせ、その手で裸の背中を優しく撫でる。乾いた唇が首筋から鎖骨をなぞり、優しく傷の上を撫でてゆく。時折震える千珠の身体を、光政は愛おしげに抱きしめた。 「あ……っ……」  袴の帯にも光政の手が伸びようとした途端、千珠ははっとして渾身の力で光政を押し返した。 「やめろ!」  千珠は息を弾ませ、戸惑いに満ちた目を床に落とす。光政の方を、見ることができなかった。 「すまん。さっきお前に触れた時……もっとお前に触れたいと、思ってしまったのだ。……どうかしている」  光政は首を振って千珠から目を反らし、静かな声でそう言った。千珠は落ちていた衣を引っ掛け、立ち上がって背を向ける。 「俺はもう行くんだ。殿も休め」 「……気をつけてな」  光政が静かに襖を閉めて、部屋を出て行く。  庭を挟んだ反対側の廊下から、舜海は早足にその場を去る光政の姿をじっと見つめていた。

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