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八、怨念

 舜海は紗代の背に封魔の御札を貼りつけると同時に体当りをして、千珠に馬乗りになっていた紗代を突き飛ばす。 「ぎゃああああああああ!!」  御札の貼り付けられた箇所から白い煙が立ち昇り、微かに焦げるような匂いが辺りに漂う。おぞましい悲鳴が響き渡る中、不気味な黒髪は潮が引くようにみるみる元の長さに戻ってゆき、千珠は自由になった拍子ににその場から飛退(とびすさ)った。  紗代はその場にばたりと倒れ伏し、乾いた黒髪が地面に広がった。千珠が肩を押さえ荒い息をしながらそんな様子を見守っていると、騒ぎを聞きつけた人々の足音が聞こえ始める。 「千珠!」  光政が夜着で駆け寄ってくる。痛みのせいで立ち上がれず膝をついたままの千珠の肩を抱き、心配そうに顔を覗き込んだ。 「どうした?これは一体……?ひどい出血だ」 「あれは、紗代様だ」 「なんだと」  光政は振り返って、倒れている女を見る。舜海が慎重に紗代を抱き起こし仰向けにすると、光政が息を呑んだ。 「紗代だと?これは、一体どういう事だ」 「あの首飾りの怨念が、紗代様に乗り移っていたみたいやな」  光政は紗代を抱き取ると、その顔を覗き込んだ。千珠に食らいついたときの血で口元は汚れ、血の気のない青白い顔をしている。 「どうしたら……?」 「しばらくは結界の中にいてもらうか」  舜海は千珠の方に歩み寄ると、傍らに座り込んで肩の傷に触れた。駆け寄ってきた兵に明かりをもらいながら千珠の傷を改めてみると、左肩はざっくりと裂かれ、血が溢れ出ている。舜海は眉をひそめたが、敢えて気軽な口調で言った。 「おうおう、痛そうや。ずいぶんと手ひどくやられたな」 「紗代様だぞ、むやみに爪を立てられないだろうが」  千珠はむっとしたような表情で、肩を押さえている。その指の隙間からも、ぼたぼたと血が落ちる。 「その血、ちょい貸せや」 「え?」 「お前の血で、結界を張る陣を描く。鬼の血やからな、ちょっとやそっとじゃ破れへんはずや」 「くそ、人使いの荒い奴だな」  千珠がよろりと立ち上がるのに肩を貸すと、舜海は紗代を抱き上げる光政を見て「寝所に寝かしてくれ、そこに結界を張る」と、言った。 「分かった」  光政は一瞬千珠に気遣わしげな視線をやったが、すぐに何事もなかったかのように紗代を連れて歩き出す。  舜海はその視線に、気づいてしまった。  紗代を抱きかかえていながら、その意識がひたすらに千珠の方へ向いていることも。 「大丈夫か?」  舜海は見てしまったものの気まずさを誤魔化すように、千珠に尋ねる。 「どうもない」  千珠は右側を舜海に支えられながら、素っ気なく応えた。 「後で手当したるから、今は辛抱せぇ」 「大丈夫だって言ってんだろ」 「そんだけ言えてりゃ大丈夫やな」  舜海はからりと笑った。  千珠の血を晒しに染みこませ、紗代の眠る褥の回りを梵字で囲んでいく。光政はじっと固い顔のまま、紗代の枕元でその様子を見守っていた。 「……よし。皆下がれ」  舜海は合掌をすると、経を唱え始めた。  その声に反応して、梵字の一つ一つが次第に淡い光りを放つ。徐々にその光は紗代を囲う蚊帳のような形になり、陽炎のようにぼんやりと薄い膜が、紗代の周りを囲んだ。 「これから、どうすればいいのだ?」  光政は、結界の中で眠る紗代を見つめながら、舜海に尋ねる 「原因を探さなあかんな。怨念の類なら、元を辿って供養する。あの首飾りは破壊しよう」 「そうか。手がかりは?」 「俺が見てこよう。匂いを辿れば、出処も分かる」 と、千珠は晒しで肩を押さえつつそう言って立ち上がり「直接やられたんだ、今ならこの呪いの匂いがよく分かる」と、付け加えた。 「よし……頼むぞ」  光政が複雑な瞳で千珠を見ると、千珠は目を伏せて頷く。 「ああ」 「寺から坊主を何人か呼ぼう。明日は紗代様はそいつらに見張っててもらう。今夜は俺が見とくわ」 「いや、舜海。お前は千珠と行け。早く紗代を楽にしてやりたい」 「ああ、でも危ないで、殿一人じゃ」 「大丈夫だろう、柊がいる」  光政の声に、柊がすっと音もなく現れた。  千珠はすかさず「おい、お前どこにいたんだ。俺が大変な目に遭ってるって時に」と、文句を垂れる。 「気づいたら髪の毛に首締められて、屋根裏で伸びててん。誰も助けに来てくれへんから、今さっき目覚めたところです」  柊は舜海と千珠を恨みがましい目でじろりと睨み、千珠と舜海は顔を見合わせた。 「いいやん、生きててんから。こっちはそれどころじゃなかったんやぞ」 と、舜海。 「もうええってええって。油断してた俺も悪かったんや。それよりはよ千珠さまの手当したらんかい」 と、柊はひらひらと手を振って舜海を追い払うような仕草をする。 「ああ、せやった。千珠、行くぞ」 「あぁ」  千珠は光政をちらりと見遣り、寝所を後にした。

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