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七、憑依
千珠は再び柊と組み、紗代の見張りについていた。柊は寝所を、千珠は庭の木の上で周囲に気を巡らせている。
紗代が寝所に戻ってから数刻が過ぎていたが、何事も起こらず、静かな夜であった。赤子は乳母と共に別の部屋で眠っているため、そこには紗代の付き人の女が数人眠っているだけである。
三日月がうっすらと辺りを照らし始めた夜半過ぎ、千珠はふと、何かの気配を嗅ぎとった。
――なんだ……?この気配は?
ほのかな香の匂い、そしてうっすらと立ち籠める霧。千珠は音もなく寝所のすぐそばに降り立ち、中の様子を窺った。
寝所の中から、誰かが立ち上がって庭の方へ歩いて来る気配があった。
千珠は身を低くして、息を殺す。柊たちと同様の真っ黒な忍装束だ、到底この暗闇では相手の目に映らないだろう。
御簾を挙げ出て来たのは、紗代であった。
ふらふらとした足取りは覚束ず夜着は少し乱れ、寝起きのような乱れた髪で、ぼんやりと赤子の眠る部屋の方向へと歩を進め始めた。
千珠は、焦点の結ばぬまま開かれた紗代の瞳の中に、ぼんやりと光るものを見つけた。そこから微かであるが、あの箱から匂った気配を感じ取る。
――柊は何をしている?
千珠は怪訝に感じたが、ただならぬこの状況を放置するわけにもゆかず、音もなく紗代の前に立ちはだかった。
「紗代様、どこへ行かれるのですか?」
紗代は突然現れた千珠に驚くふうでもなく、ぼんやりと千珠ほうを向いた。瞳は左右てんでばらばらの方向を向いており、まるで千珠を見てはいなかった。明らかに紗代本人の意識はない。
「お戻りください。こんな夜に出歩いては危のうございます」
「……わたしのややはどこじゃ?」
「乳母のところでお休みになっておいでです。お戻りください」
「ややに会いとうなってなぁ、今すぐに」
紗代はうっとりとした笑みを浮かべて、歌うようにそう言った。千珠は眉根を寄せる。これが紗代の口調ではないことは明らかだ。
「……貴様、誰だ」
千珠は低い声でそう尋ねた。
「ふふ……ずいぶんな口をきくではないか」
紗代がねっとりと微笑み、千珠は不意に足元の違和感にぞっとして目線を下げた。すると、紗代の髪の毛がするすると床を伝い、千珠の足首にぐるぐると絡みつき始めているところであった。
「!」
千珠は驚いて床を蹴り、鉤爪でその髪の毛を切り裂いた。間合いを取って庭に降り立ち身構えると、紗代の目からはぎらぎらと赤黒い光が漏れ始めていた。
「赤子を喰ろうてやるのよ。この国の未来を担う赤子をの」
紗代が甲高い声で笑うと、再び髪の毛が鋭く千珠の方へ向かって来る。千珠は宙を舞って身をかわしながら、執拗に絡み付こうとする髪の毛を切り裂くが、切っても切ってもきりがない。千珠が城壁の上に膝をついた瞬間、紗代の髪がついに右手首と太腿を絡め取り、千珠は驚愕する程の力に引き摺られて地面に叩きつけられた。
ずん、という重い音が響き渡る。一瞬後には、宙を舞った紗代が千珠の上に馬乗りになっていた。
「……おや、お前は人ではないね……なんと強い妖気だろう……美味そうだ、お前も喰ろうてやろう」
「くそっ……!」
もがいてももがいても、まとわりつく髪の毛は振り払えない。光政の妻たる女に鉤爪で斬りかかるわけにもゆかず千珠がもたついていると、紗代の顔が目の前に迫り首筋に引き裂くような痛みが走った。
「うっ……ああああ!」
只人とは思えぬ怪力と、まるで噛み付かれながら傷を酸で溶かされるかのような痛みに、千珠は声を上げていた。忍装束が破られ、肩口の肉が食い千切られる。千珠の力を持ってしても振り払えない紗代の力、明らかに禍々しい物が憑依している証だ。
「離せ……!くそっ!!」
喰らいついたまま離れない紗代の肩を掴んで脚をばたつかせていると、嗅ぎ慣れた霊気の匂いが千珠の鼻腔をくすぐった。
「千珠!」
舜海の声だった。
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