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十一、千珠の嗅覚

   光政の行動と自分の身体の反応に混乱した頭を冷ますように、千珠は身支度を始めた。再び黒い忍装束に着替えようと、箪笥の中から衣を引っ張り出す。  帷子を身につけ、半袖の着物に袖を通して帯を固く縛り、長い銀髪を結い上げ頭巾で隠す。そうして自分の身体を黒い布で覆い尽くすと、千珠の意識も引き締まって来るように思われた。  仕上げに黒い麻布を取り上げると、それで目元以外を覆い、顔を隠す。  床の間の刀置きに置いてあるのは、あの日父から貰い受けた一本の脇指である。それを手に取り、千珠は一旦目を閉じた。精神を集中させ、心を平静にするためだ。  そうしているうちに、太陽がの光が障子の隙間から入り込んできた。千珠はすっと目を開くと、それを背に差して表へ出た。  地面から屋根を蹴って本丸御殿の屋根の上まで一息に駆け登ると、眼下に美しい風景が見渡せる。  瀬戸内海を照らし始めた太陽の光で、世界がまっさらになっていくように見える。千珠は心地よい初夏の風を受けながら目を閉じ、ついさっきその身に受けた呪いの匂いを探す。  あの白檀香のような香りと、生臭い気配。  爽やかな朝の空気の中、明らかに異質なその匂いを嗅ぎとると、千珠は目を開けて息を吐く。匂いのする方向に注意を研ぎ澄ませる。  ――そんなに遠くないな……。  千珠は身体をぐっと縮ませ、一気に跳んだ。樹木の枝々を蹴り、山中を風のように下り、青葉の国を縦断して海岸近くまで出る。瀬戸内は点々と島々が浮かぶ海であり、豊かな漁場ゆえ船も多い。そんな長閑な風景を眺めつつ、千珠疾走った。  かの呪いの匂いは、そう遠くもない西の海から漂ってきているのを感じる。紗代の父が今居を構えているのは備前の国であるから、おそらくそのあたりに何かしらの手がかりがあるに違いない。   黒装束の千珠はまるで鳥が空を滑るように、海沿いに広がる山や町を駆け抜けてゆく。

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