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十八、血と拳

 翌朝日が昇る頃に、千珠が先に城へと戻っていった。  舜海は、堂へ続く石の階段に腰掛け、じっと眼を閉じて千珠の気を辿る。朝靄のかかった中、一筋二筋と、朝日が視界を照らし出す。  舜海は昨晩の千珠の言葉を思い出していた。  嬉しかった。  自分の弱かった頃の思い出など、誰にも聞かせたことはなかった。弱くて卑屈だった頃の、思い出したくもなかった過去なのに、千珠は自分の存在を肯定する言葉をくれた。  それがこんなにも身に染みるとは思わなかった。ややこしく心に絡みついていた刺のあるものが、するりと解けてゆくような心地がして、何だか身軽になったようにすら思われた。    ――……優しいやつ。  舜海は唇に微笑を浮かべて立ち上がると、自分の馬に歩み寄り、木にくくりつけていた手綱をほどいて、首筋を撫でてやる。栗毛の雄馬で、気性は荒いが舜海とは長い付き合いの馬である。 「よしよし。帰るか」  鐙に足をかけて馬に跨ると、一気に朝霧の中を駆けてゆく。  ❀   城下町の外れから、城の裏門へと続く草原を馬と行く。  北の空を見ると、山の端から厚い雲が顔をのぞかせていた。少し強い風が吹き、甲高い声の山鳥が数羽、低く空を飛んでいる。 「今日は雨になるか……」  舜海は呟くと、誰もいない静かな道をぐるりと見渡す。至って平穏な、なんということもない朝の風景。  しかし、なんとなく胸騒ぎのする天気だった。  舜海は馬の歩調を速め、城に急いで戻った。  舜海は厩に馬を戻してやり、水を与える。ばしゃばしゃと水を勢い良く飲んでいる愛馬を見下ろしていると、不意に背後に気配を感じて振り返った。 「おはようさん」  兼胤が立っていた。夜着のままなのか、着流し姿で袖を抜き、懐手をしてにやにやと笑っている。舜海はざらりと神経を逆撫でされるような、嫌な予感を覚えた。 「……ああ。早いな」  一応言葉を返す。兼胤は相変わらず唇に意地の悪そうな笑みを浮かべて、舜海に歩み寄る。 「お前ら、どこ行ってたん?」  兼胤は首をかしげながら、自分よりもやや背の高い舜海の目を掬い上げるように見上げる。舜海は、ぴくりと眉を動かしたが、努めて平静な表情を浮かべた。 「お前らって?」 「お前と千珠じゃ」 「俺は俺で用事や。あいつも何かあったんやろ」 「そんな、誤魔化さんでもええぞ。お前の衣、千珠の匂いがぷんぷんするわ」 「……」  実際、ついさっきまで千珠を抱きしめていた衣だった。舜海はちらっと兼胤を見ると、兼胤は三白眼の大きな目でじっと舜海の表情を窺っている。 「それはお前の勘違いや。千珠千珠って、ええ加減にせぇよ」 「それではぐらかしたつもりか?俺、見てしもうたんじゃ。お前らが廃寺で何してたか」 「!」  舜海はぐっと眉間に皺を寄せた。兼胤は顎を上げると、勝ち誇ったように目を細めた。 「昨日、町の酒場に繰り出してな、その帰り道でお前を見たんじゃ。お前も女漁りかと思って付いて行ってみたら、何とまぁ。無敵の美しき千珠さまと逢引とは」 「……」  舜海は何も言えず、ぎろりと兼胤を睨みつけた。兼胤はそんな舜海の強い視線にも動じる様子もなく、むしろそれを楽しむような目で舜海を見返した。 「いちいち俺につっかかると思ったら、そういうことか。ええのぅ、お前は千珠を独り占めしとったんか」 「お前には関係ないやろ」  低い声でそう言った舜海は、ぐいと兼胤の胸ぐらを掴みんで厩の柱に押し付けた。どん、と鈍い音が響き、側にいた馬が驚いて嘶く。  兼胤はそんなことには動じず、笑みを浮かべたまま舜海の襟ぐりを掴み返した。 「今、妖気封じられてるんやって?」 「!」 「道理で昨日も弱っちかったわけじゃ。あれなら、俺の力でどうにでもなるじゃろ」 「あいつに手ぇ出すな!!」  舜海はさらに強く兼胤を押し付けると、腰に帯びていた短刀を抜き、兼胤の首に突きつけた。兼胤はちら、とその刀を見る。 「……ええ気迫じゃ。でもな、そんなんして俺をどう止めるんじゃ。俺を殺せば戦になるぞ?これでも一国の大名なんでな」 「……!」  舜海は腹の中で何かに火がつくような感覚を覚えた。怒り、悔しさ、焦り……ありとあらゆる負の感情が、舜海の中で燃え上がる。 「留衣どのにも知られたくないやろ?光政殿は知ってるんか?ああ、あの稽古に来てる若い衆も、こんなこと知ったらどう思うじゃろうな」  舜海は何も言えず、歯を食い縛った。    ――こんな奴に、千珠の居場所を奪われる?あの笑顔を、再び涙に曇らせるのか?  舜海は手を離して短刀を収め、両手をだらりと下げた。 「……頼む、それだけはやめたってくれ。悪いのは俺や。俺を殴るなり刺すなりすればええ」  兼胤は笑みを納めると、今度は酷薄な表情を浮かべて舜海を見た。 「そんなことしたって、俺にはなんの楽しみもないわ。……なぁ、俺にも千珠を抱かせぇ。それで他の奴らには黙っといてやるけん」 「それは……!」 「お前が言えば千珠だって観念するじゃろ。……ええ声で鳴くよなぁ、あいつ。外で見物してて、堪らんかったわ」  舜海は逸らしていた目を、再び兼胤に向けた。腹から燃え滾る怒りの炎が、その目からも迸るような、憎しみの込められた目だ。  兼胤はその視線を喜ぶかのように、再びねっとりとした笑みを浮かべ、勝ち誇ったような表情を見せた。 「いつからああいう関係だっったんじゃ?お互い慣れた身体みたいじゃな。あれなら、俺のもすぐ呑み込めてしまいそうじゃ」 「……てめぇ!!」  怒りが暴発し、舜海は兼胤に殴りかかった。兼胤は笑みを浮かべたまま目を見開くと、舜海の動きを見定めてひょいと身体を反らす。そして、舜海の拳をよこからするりと絡めとると、舜海の腕を捕らえて地面に叩きつけた。 「ぐ、ぁああ!!」  右腕を捕らえられたまま、舜海は地面に転がされ、右腕の付け根を兼胤に踏みつけられた。すかさず舜海は脚で兼胤の両足を抱え込み、兼胤も地面に引き倒す。兼胤の上に馬乗りになった舜海は、その左頬に向けて拳を振り下ろすが、手応えは地面の砂利だった。  柔らかい動きで舜海の拳を避け、兼胤は巴投げを食らわせた。舜海は受身を取ってすぐに兼胤と向き直り、二人は掴み合い、殴り合った。  数年ぶりに会う兼胤の拳はさらに重さを増していたが、舜海は怒りに任せ、兼胤の腹に渾身の一発を打ち込む。兼胤は呻いて、一瞬体を引いた。その隙に乗じて兼胤の顔を狙って拳を打ち込むと、再びするりと兼胤は舜海の腕を捕らえた。  脇で挟むように囚われた舜海の腕は、びくともしない。兼胤はにやりと笑うと、舜海の腕の骨を肩から外した。  ごりっという音が体内に響き、舜海は痛みに呼吸を飲み込む。 「うぐっ……!!」  使えない右腕を庇って距離を取ると、兼胤は容赦なく舜海に攻めかかってきた。殴られ、蹴られ、舜海は終に地面に倒れてしまう。 「くっそ……!」 「()い様じゃのぅ、野良犬の舜海よ。でもまだまだ、動きがぬるいな。戦が終わって、すっかり呆けてしもうたんじゃないか」  兼胤は舜海に歩み寄り、鳩尾を勢い良く踏みつけた。舜海は血を吐き出して悶える。 「俺はなぁ、時代関係なく攻めて来る海賊相手に、いっつもいっつも戦争じゃ。おかげで血には不自由せんかった。兄貴があんなじゃけぇ、俺が国を守らんといけんからな」  舜海は咳き込みながら、何とか這いつくばって上体をを起こそうとした。しかし再び、兼胤はそんな舜海の頭を踏みつけ、再び地面に伏せさせる。 「その間、お前は何しとった?千珠に溺れて、すっかり腑抜けか?」  舜海はよろよろと立ち上がると、左腕の拳を固めた。血を地面に吐き捨てると、兼胤を睨む。 「そんな目したって、お前はここで終いじゃ。しばらく動けん身体にしといちゃる。その間に、千珠は俺がもらっておく」 「ふざけんな……!」  殴りかかった舜海の左腕を兼胤は造作もなく捉えると、舜海の胸ぐらを掴んで引き寄せた。 「今日のお前は、今までで一番弱い。感情に流されて動くのは命取りだと知っとるじゃろう。つまらぬ男じゃ」  舜海の右頬に、重く硬い拳がめり込んだ。  頬骨が砕ける音を耳にしながら、舜海は暗い奈落の底へと、その意識を沈めてゆく。  どさっ……と重い音を立てて、舜海はその場に倒れ伏した。  ぽつりぽつりと、雨が降り始めた。兼胤はちょっと空を仰ぎ見て、地面に倒れた舜海を見下ろす。そして、さも楽しそうな笑みを浮かべると、そのまま踵を返して城へと戻っていった。  後に残された舜海の身体は徐々に雨を吸い、口から流れだした血が、細い筋となって地面に広がっていった。

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