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七、いざない

 一行は、千瑛に率いられ、夕刻に御所に入った。  広大な面積を持つ京都御苑の西側に位置する蛤御門をくぐり、白い砂利の敷き詰められた幅広の道を進む。しばらくしてその道を左に折れると、帝のおわす御所の正門、建礼門が現れる。  檜皮葺(ひわだぶき)の切妻屋根、年月感じさせる黒黒とした四脚柱の重厚感溢れる造りをした門の左右には、武装した衛士が篝火の横に立ち、厳しい表情で一行を睨みつけている。  皆は砂利を踏みしめながら、健礼門をくぐって内裏へと向かう。  すると次に現れるのは、丹塗りの見事な承明門(じょうめいもん)である。瓦葺き切妻屋根、十二脚の柱で支えられた雅やかなこの門は、紫宸殿の南正面に位置している。承明門の付近にも弓を背負って立つ衛士がそこここに立っており、物々しい雰囲気である。  千珠は編笠を被って目と髪の色を隠しながら、千瑛のすぐ後ろを歩いていた。 「ここでは、私と千珠の関係については極秘なのだ。すまぬが、皆口を併せておいてくれ」  千瑛は皆にだけ聞こえる声でそう言った。そして、真後ろを振り返って千珠を見ると、 「すまんな。神祇省の長官が白珞の珠櫛と通じていたことが知られるのは、あまりよろしくないのだ」 「分かっております」  千珠は深く頷きながら応える。 「あまりよろしくないどころか、死罪でござんすよ」  宇月は前を歩く柊と舜海に小声でそう囁くと、二人は目を見合わせて顔を青くした。 「……何や、霧が出てきてないか?」  承明門の前に差し掛かった時、足元を撫でるようなひやりとした霧が、じわじわと立ち籠め始めた。一行は門前に並び立つと、気配を探るように辺りを見回す。  承明門の向こうには、広々とした白砂利の南庭を隔てて、帝のおわす内裏がすぐそこだ。こんなにも帝に近い場所に鬼の出現を許すなど、神祇省にとってはあってはならぬこと。言語道断の所業である。  衛士達も異変を感じ取ったらしく、応援を呼ぶ声や警戒を促す声で、俄にその場に緊張感が走った。  霧はまた一層濃くなり、夕日の色を霧に留めるように、視界は橙色に近い薄闇となった。  千珠は鼻をひくつかせ、舜海も霧の中に目を凝らしながら、険しい表情で錫杖を握りしめる。 「来るぞ……朝方の鬼か」 と、千珠は編笠を少し上げ、背中に庇うようにしていた父を振り返る。 「父上、門の中にいてください。不穏な気が流れてきています、帝をお守りせねば」 「本当だな……。よし、ここは任せた。陰陽師たちもすぐに来るだろう」  千瑛は重い門を押し開けて、するりとその内側へと入ってゆく。  千珠は皆の前に出ると、指を広げて爪を軋ませた。千珠の尖った爪がその長さと鋭さを増し、鉤爪へと変化(へんげ)する。 「近い」  夕闇色にそまった濃い霧の中、黒い影が左右にゆらゆらと揺れながら近づいて来るのが見える。舜海と柊は、その不気味さにごくりと生唾を飲み込んだ。千珠以外の妖の類には、まだ免疫がないのである。  陰陽師たる宇月は流石に落ち着いたもので、その影を見極めようとしているのか、目をしっかと開いて妖気を探っている。そして山吹は無表情に、背に差す忍刀に手をかけた。  ゆっくりと近づいてくるその影はどんどんその大きさを増し、やがて、千珠の前で止まった。 「また貴様か」  低い、地の底から発せられているかのような重い声が響いた。只人の二倍はあろうかという大きさの、黒い、(ひぐま)のような姿の鬼である。  千珠は左手首の数珠を外して懐に仕舞い、ゆっくりと、掌から青白く光る白珞鬼の宝刀を抜いた。  右手に刀を握り締め、優美な動きで刀を構えると、千珠の身から風が生まれる。ふわりと、千珠の周りから霧が晴れてゆく。  すると、黒い影のようだった鬼の姿が、夕闇の中にはっきりと見て取れた。背後で皆が息を飲む音が聞こえてくる。 「それはこちらの台詞だ。こんな所に何しに来た?こんなところに用事でもあるのか」  黒い鬼は黄色い目を光らせて、編笠の下にある千珠の目を、まっすぐに見据えた。 「鬼門を通って魔境に帰る。それだけだ」  鬼はそう言うと、手から何かを放り投げた。どしゃ、という湿った重たい音と共に千珠の足元に転がったのは、二人の衛士の死体であった。    どちらも、血に塗れ、首がない。後ろで、宇月の小さな悲鳴が聞こえる。 「黙って通せばいいものを……。邪魔すると貴様もこうなる」  低く呻くような笑い声が響く。 「逢魔が時。今が鬼の力を一番に奮える時間よ。お前のような飼い馴らされた鬼には分からんだろう、この力の滾りが」 「ふん、興味ないね」  千珠はふっと姿を消すと、一瞬で鬼の頭上に跳び上がり、宝刀を振り降ろした。不意を突かれた鬼は、肩口から袈裟斬りに傷を負い、赤黒い血飛沫が上がる。  鬼の咆哮が御所の中に(こだま)し、びしゃびしゃと白い砂利の上に赤が飛び散った。  千珠は地面に降り立つと、すぐに下から鋭い突きを繰り出した。鬼はそれを避けて後ろに飛び退ると、獣のように四つ這いになり牙を剥いて唸り声を上げ、砂利を蹴散らして千珠に飛び掛ってくる。鋭く長い爪の生えた前脚が、千珠を引き裂こうと振り下ろされた。  爪の先が掛かり、編笠が飛んで、長い銀髪が露になった。鬼の爪を避けた千珠は、ふわりと後ろに跳んで刀を構え直す。その白い手首から、ぶしゅう、と血が吹き出した。 「白珞鬼(はくらくき)か……まだ生き残ってる奴がいたんだな」  鬼は爪に引っかかった千珠の衣と血の匂いを嗅ぐと、そう呟いた。 「白珞鬼ともあろう気高き種族が、何故人間などに下り同族を追うのだ」 「お前には関係ないね」  千珠が真向から斬りかかると、鬼は刀を両手で受け止めた。ぶつかり合う二つの強大な妖気に、まるで竜巻のような風が生まれ、砂利や松の木を舞い上げていく。  千珠は片手を宝刀から離すと、振り上げた鉤爪で、鬼の横面を斬り裂いた。再び鬼の咆哮が上がり、ひときわ強い突風があたりを駆け巡る。  片目に傷を追った鬼は、目茶苦茶に腕を振り回し、千珠を力任せに投げ飛ばす。千珠は承明門の上にひらりと身軽に降り立つと、そこからまた鬼に飛びかかり、一撃目で負わせた傷の上に宝刀を突き立て、その巨体を地面に叩き伏せた。  ずぅぅんん……!と、地震のように大地が揺れ、巨大な鬼が地面に引き倒される。千珠は宝刀をその首に突きつけたまま、静かな瞳で鬼を見下ろした。  血に濡れた鬼は、荒い息をしながら千珠を見上げた。その口からは生臭い血の臭いと饐えた腐臭が吐き出され、千珠は思わず顔をしかめた。 「……強いな……。そのような力を持ちながら、何故人の世に留まるのか」  肩で息をしながら、その鬼は再び千珠に問うた。千珠は宝刀をその首に突きつけたまま、微動だにせずに応える。 「……お前には関係ないと言ったろう」 「人の世で生きる白珞族……魔境で生きることを選ばず、他の妖鬼と戦うことから逃げ、人間どもに力を貸すことを選んだ恥さらしな種族よ。挙句の果て人間に滅ぼされるとは、どこまでも見下げ果てた情けなき一族だ」 「黙れ……!」  鬼はじっと千珠を見上げると、にたりと笑った。 「……俺は陀羅尼(だらに)という。貴様の名は?」 「……お前に名乗る名などない」 「ふっ。……一緒に行かぬか、この俺と」 「何だと?」 「お前のその力、人の世に在るは強すぎる。強過ぎる力は、いずれ邪険にされ叩き潰されるのが世の常。人間風情に尽くしたところで、報われはせぬぞ」 「……貴様とは生き方が違うのだ。もう黙れ、首を飛ばすぞ」  千珠はぴたりと陀羅尼の首に刃を押し当てた。陀羅尼は、低く笑う。 「何故斬らぬ?ここまで追い詰めておいて、なぜ(とど)めを刺さぬのだ。感じているのだろう?俺とお前は同胞だと。斬れぬのだろう、同じ妖鬼のこの俺を」 「……」  千珠はぴくりと反応した。陀羅尼はにたりと笑い、黄色い目をすっと細める。  次の瞬間、霧の向こうから豪雨のように、数百の破魔矢が降り注いできた。  千珠は咄嗟にその場から飛び退くが、陀羅尼はそれを避けることが出来ぬまま、まるで針山のようになりながら破魔矢をその身に受け止める。それでも尚低く笑い続けている。  陀羅尼の声が不気味に霧の中に響く中、破魔矢の雨が一旦静まる。 「くくく……こんなものは効かぬよ。白珞の子鬼よ、よくよく人間どもと手筈を整えてから来るべきだったな」  陀羅尼はぶるりと全身を震わせると、破魔矢を全て振り落とし、ちらりとその背後に目をやった。  霧の向こうに、揃いの黒装束に身を包んだ陰陽師たちが、ずらりと立ち並んでいた。

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