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九、血の疼き

   帝との謁見は恙無く終わり、一行は千瑛が用意した宿へとやって来た。御所からさほど遠くない鴨川のほとりの、落ち着いた佇まいの小綺麗な宿である。  冬の日暮れは早い。  とっぷりと日が暮れて、灯り一つ無い鴨川の川岸は、轟々と流れる水音のみが響いていた。昨日の雪解けで、川の水は増水し流れも速い。   千珠は一人、濡れ縁に出て考え事をしていた。  鴨川を臨む形で建つ宿の縁側から、飛び石を踏んで直接川辺に降ることが出来る道が造られており、気候のいい時期は、さぞかし雰囲気が良いことだろう。さらさらと流れる川の流れに耳を傾けながら、四季の移ろいを感じることの出来るような、雅やかな風景が広がるに違いない。  しかし今は冬の夜。暗闇と、全てを押し流すような黒い濁流だけがそこにある。  真っ黒な川のうねりを見つめていると、凍てつくように冷たい夜の風が、千珠の頬を容赦なく突き刺してゆく。そんな痛みに気付かぬ程、千珠は深く考え事に沈んでいた。 「おい、寒がりのくせに外で何してんねん」  障子を開けて、舜海が外に出て来る。  しかし千珠はその声に気が付かず、舜海に背を向けたまま返事をしなかった。  怪訝な表情を浮かべた舜海は自分の羽織を脱ぐと、そっと千珠の背に引っ掛ける。不意に背中に感じた暖かさにびくりと反応した千珠は、首だけで振り返った。 「お前か……」 「どうした?浮かない顔して」  舜海は立っている千珠の隣に立つと、同じように濁流を眺めた。 「……少し気になることがあるだけだ」 「気になることって?」 「あの鬼のこと……」    ひと呼吸置いて、千珠は呟く。 「一緒に魔境へ行かぬかと、言われた」 「え?」  舜海は弾かれたように、千珠を見た。 「……お前、そんな言葉、真に受けてるんちゃうやろな」  引きつった笑みを浮かべ、問い返す。しかし千珠は、複雑な顔をして、無言のままである。  物言わぬ千珠に苛立ちの表情を浮かべ、舜海はおもむろにその肩を掴んで自分の方へと向き直らせた。 「ちゃうよな?」 「……」  千珠は尚も無言のまま、眉を寄せて目を逸らした。  動揺しているつもりなどなかったのに、舜海の力強い目を真向から受け止められないことに、千珠は戸惑っていた。  同族からの、(いざな)い。  どことなく、郷愁を呼び起こされるような、鬼の匂い。人の世で生きることを決めたのに、その足場がぐらつく。妖鬼としての本能が、ざわめく。  沈黙する二人の間に、轟々と濁流の音だけが横たわっていた。唇を噛んでいた舜海が、堪りかねたように声を荒げる。 「おい!お前の住む世界はここやろ!一体何を迷ってんねん!?」 「……そんなこと、分かってる!」  目を逸らしたまま、千珠は思わず語気を強めていた。舜海は軽く目を瞠り、千珠を揺さぶる手を止める。 「分かってる!頭では分かってる、ここにいたいと思ってる!でも……血が、騒ぐんだ。あいつと戦ってると、どうしても、向こうの世界に引き寄せられるような感じがして……」 「血、やと……?」  舜海は千珠の不安げな表情を見て、痛ましげに顔をしかめた。  千珠自身、訳がわからず不安だった。  人の血と、鬼の血。せめぎ合う二つの力が、あの鬼によってぐらぐらとその均衡を崩しつつあるということが。  鬼とは元来、争い、戦い、獲物を屠る妖鬼である。人の世に在る限り、千珠はその本能に身を委ねることはない。  それでいいと、思っていた。  自分は半妖。純血の鬼のように猛々しく荒ぶる本能は持ち合わせていないのだと。  人としての血を頼りに、人の世でこの力を振るうことを決めたのだと。  しかし、抑えきれぬ鬼の本能が、千珠の中で疼いている。  陀羅尼を打ち倒した時に得た快感、妖鬼相手に自分の強さを見せつける愉悦、地面に平伏す敵を見下した時に感じた激しい優越。  それは麻薬のように、千珠の心を囚えて離さぬのだ。  苦しげな千珠の表情を(おもんばか)ってか、舜海は溜息混じりに頭を掻く。 「……すまん、大きな声出した」  舜海は詫びると、千珠を掴んでいた手を離す。  障子から漏れてくる薄明かりの中、千珠の目が潤んで揺れている。放っておいたら泣き出しそうにも見える千珠の気を取り直すつもりなのか、舜海はわざとらしくも聞こえる明るい声で話題を変えた。 「今、女どもは風呂入ってんねん。柊は見回りに出とる。俺もひとっ風呂浴びて来るかな」  そう言いながら背を向けかけた舜海の袖を、千珠は無意識に掴んでいた。  もう少し、ここにいて欲しかった。この不安に揺らぐ心を、身体を、抱き留めていて欲しくて。 「……舜海」 「ん?」 「……」  どう言っていいか分からず、千珠はただただ潤んだ瞳で舜海を見上げる。すぐそばにある、舜海の黒くきりりとした力強い瞳に見つめられるだけで、不安に溺れそうになっていた千珠の心が、少しずつ凪いでゆく。 「舜海……」 「ん?何や」 「あの……その」  ――もっとそばに寄りたい。抱きしめて欲しい……でもそんな事を、そのまま口にすることは、恥ずかしくてできない……。 「どうした」 「お前の……唾液が欲しい」 「……は?」  迷った挙句口から出てきたのはそんな台詞だった。舜海はぽかんとした顔をしていたが、何度か瞬きをしている内に、千珠の言わんとすることに気づいたらしい。ぽん、と手を打って、破顔する。 「おいおい、どんな頼み方やねん」  舜海の笑顔を見て千珠は少し表情を緩め、ようやく少し、笑った。  そんな表情の揺らぎに気づいた舜海は、はっとする。  ――俺がこいつを突き放して、どうする。俺が戸惑ってどうする。俺は、こいつの迷いを吹き飛ばしてやらなあかんのに……。  舜海はそう思い直すと、千珠の身体を引き寄せて、力強く抱きしめた。千珠も珍しく自分から舜海の衣に縋り付き、顔をその胸に埋める。  千珠が、少し震えているのが分かった。寒さのせいか、恐れのせいか……。  ――……愛おしいお前を、魔境へなど行かせてたまるか。  千珠の頬に片手を添え、冷え切った小さな唇を唇で覆う。うっすら開いた千珠の柔らかな唇を舌で割ると、暖かい舌が遠慮がちに絡みついてくる。  頬から手を滑らせて首筋に指を掛けると、少し早く脈打つ千珠の鼓動を感じた。  左手で千珠の腰をさらに強く抱き寄せて、何度も何度も、深く唇を重ね合う。千珠が伸び上がって舜海の首に腕を絡ませた拍子に、背に掛けられていた羽織が、ぱさりと床に落ちた。  二人の吐く熱い吐息が、冷え切った空気の中に、白く立ち上っては消えて行く。 「……んっ……っ……」 「千珠」 「……ふ……ん」 「そんな声出すな。変な気分になるやろ」  接吻の隙間から零れ落ちる千珠の甘い吐息に、煽られそうになる。千珠はつと顔を離して、緩み蕩けそうな表情で舜海を見上げた。 「……そんな目で見るな」 「……どんな目だよ」 「物欲しそうにしやがって」 「し、してないだろ!そんな顔!」  かっ、と千珠の頬が紅色に染まる。 「してるやん。なんちゅう顔してんねん」 「五月蝿いな、もう離せよ」  我に返った千珠はぐいぐいと舜海の顎を下から押し上げ、距離を取って身を離した。 「いててて!はぁ?甘えてきたんはお前やろ」 「あ、甘えてなんか!」 「甘えてたやん。全く、お前というやつはいつもいつも」 「いつも何だよ」 「中途半端に誘惑されるこっちの身にもなってみろ」 「ぐ……」  千珠は顔を赤くしたまま、言葉に詰まっている。  舜海は落ちていた羽織を拾い、歩み寄ってもう一度千珠の肩に掛けてやる。美しい顔に罰の悪そうな色を乗せ、上目遣いに見上げてくる可愛らしさに負けて、舜海はもう一度千珠を抱いた。  そういう素直じゃないところも、たまらなく好きだと、改めて思う。 「舜……」 「阿呆。黙ってろ」 「……誰が阿呆だ、馬鹿」 「へいへい」 「……」  抱きしめたまま頭を撫でてやると、千珠は大人しくなった。胸に押し当てられる小さな頭を撫でながら、舜海は濁流に目を落とす。  何もかもを攫っていってしまいそうな、激しい濁流を。

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