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二、不穏な空気

 昨年の暮れ。四国・伊予国で世代交代があった。  大きく体制が変わり、昨今瀬戸内を中心に少し不穏な空気が流れ始めている。  少しずつ伊予国の生活は荒れ、海賊となった民が近隣諸国の漁師を狙うような事件が起きているのだ。  備前と播磨に挟まれる青葉にも、その火の粉は今にもふりかかってきそうな気配があった。今のところ直接の被害はないが、海賊によって殺された者の遺体が漁師たちの網にかかって揚がることもあり、民は怯えていた。  近隣の同盟国とともに結成した沿岸警備軍に、青葉の忍衆も組み込まれているため、千珠たちは頻繁に港にゆき、周囲を警戒しているのである。     その日、千珠は竜胆と共に港に出向いていた。  真っ黒な忍装束をきっちりと着込んだ二人は、兵たちが詰めている屯所へと顔を出した。そこは漁師町の小さな掘っ立て小屋であり、そこにはいつも、十名程度の屈強な男たちが武装して控えているのである。  皆漁師をしながら武道に励むものばかりで、その中には千珠や舜海に稽古をつけてもらっていた者も数名いた。海に詳しく、船の操作に長けた男たちである。 「お、忍者たちか」  屯所の前で見張りに立っている二人の男のうち、良く日に焼けた三十路ほどに見える男が、どこからともなく現れた千珠たちを見つけてそう言った。 「おやこれは……千珠様じゃないですか、ご苦労さまです」  するともう一人の若い男が、千珠の目元を見て背筋を伸ばし、深々と一礼する。 「ちょうどよかった、ちょっとお耳に入れときたいことがあったんですよ」  その男は齢二十前後の若者で、道場にも頻繁に出入りしている、漁丸(いさりまる)という名の青年だ。二人を屯所に招き入れると、屋内に屯していた二人の男がじろりと千珠たちを見る。  見慣れない男達だった。どうやら、同盟国から巡回して来る国外の者達なのだろう。  漁丸はお構いなしに千珠たちを奥に通すと、青葉の沿岸警備軍の長、七蔵(しちぞう)を呼びに出て行った。  千珠たち忍衆は、城の外では絶対に頭巾と口布を外さない。顔を知られては隠密行動に差し障るため、目元だけが黒い布から覗いているだけの状態で行動するのだ。しかし、千珠の琥珀色の瞳は否応なく目立つため、千珠を見慣れない他国の男たちが、じろじろとその姿を観察してくる。  無遠慮な視線を感じることには慣れてきていたため、千珠は反応せずに竜胆と黙って七蔵を待つ。そういう所は少し、大人になってきた。 「いやいや、お待たせして申し訳ない」  がらがら、と木扉を横に滑らせて七蔵が入ってきた。ちょうど漁に出ていたらしく、鎧は付けずにふんどしと陣羽織りを羽織っただけの軽装である。  寒がりの千珠は、そんな七蔵の格好を見ているだけで風邪を引きそうだと思った。もっとも、妖気に守られた千珠は病気などひとつもしないのだが。 「なにか不穏なことでも?」  千珠が口を開くと、七蔵は千珠たちの前に座りながら難しい顔をして頷く。 「いやね、最近海賊は減っているんですわ。ここいらも取締が厳しくなってるからね。でも、最近妙な噂があってな」 「噂?」 と、竜胆。 「うむ。漁に出ていた奴らが言うには、海賊に襲われそうになった時、龍が自分たちを助けてくれたってんだよ」 「龍が、だと?」 と、千珠。 「うむ。龍というか、波がね、まるで手を伸ばすみたいにして、海賊の船をどんどん破壊していったって話をするんです。夢でも見たんじゃねぇかって言ってたんだが、何人もが同じ話をするし、波の中に眼が光ってただのって話す奴もいる。あれはありがたい神様のお使い龍が、自分達を助けてくれたなんて言うもんだから、こりゃきっとなんかあるんだろうって思ってな」  千珠は竜胆と顔を見合わせた。 「場所は?」 と、千珠。 「瀬戸内なんだけどね、ちょうど備後の国のあたりって言っていたな。あの辺りは島が多いだろ?たくさん死体が打ち上がってるって話だ」 「……確かに妙だな。調べに行くか」 と、千珠は竜胆を見る。  竜胆は、ゆるゆると首を振った。 「簡単に言わないでくださいよ。千珠さまの足ならすぐでしょうが、俺がついて行くとなると時間がかかります。とりあえず、頭にも報告しないと」 「あ、そっか」  七蔵は、更に続けた。 「まだあるんだよ。その龍もどきが出る時間帯には、必ず大きな太鼓の音と、笛の音が聞こえてくるんだと。不気味だろう?怨霊かなんかじゃねぇかって、話を聞いた奴ら皆怖がっててねぇ」 「それで海賊も減ってるんだろうな」 と、漁丸が言った。 「とにかく、ちょっと調べに行ってくれねぇか?千珠さまなら、何とか出来るだろうって皆で言ってるんだ」  七蔵は、ぱん、と顔の前で千珠に合掌する。 「都で鬼退治もしたんだってな。海の物の怪だって、千珠さんならやっつけれるだろ」 と、七蔵は拝み倒すようにそう言った。  千珠は腕組みをする。 「とにかくそれが何なのか確かめないことには、なんとも言えないな。もう少し情報が集められるようなら、集めておいて欲しい」 「分かった!」 「あと、船の手配を頼むことになるかもしれん、足の早いやつを準備しておいてくれ」 「任しておいてください」  漁丸は顔を輝かせてそう言った。千珠の役に立つのが嬉しいのである。  千珠たちが屯所を出てゆき、七蔵が少し肩の荷が降りたような顔をしていると、千珠のことをよく知らない二人の兵が、不服そうに七蔵に物申す。 「おやじ、あんな女みたいな忍者に何ができるってんだ?俺らで船出して、調べに行ったらいいじゃねぇか」 「そうだ、手柄を上げりゃ、褒美だって出るかもしれねぇってのに」  七蔵は、頭に巻いていた手拭いを外して汗を拭うと、呆れ顔で二人を振り返る。 「おめぇらなんにも知らねぇんだな。あのお方はな、齢十四にして先の戦を勝利に導いたお方なんだぞ。お前らなんか一瞬で殺されるくらい、強い方なんだ」 「馬鹿言うんじゃねぇよ。あんなひょろい(わっぱ)、俺達に力で敵うわけ無いだろ」 と、男の一人が可笑しそうに笑った。 「けっこう綺麗な顔してたよな。一回くらい、遊んでやってもいいかもな」 と、もう一人が卑しく笑う。 「馬鹿野郎!そんなこと聞かれたら、ほんとにお前ら殺されるぞ。あの方には鬼の血が流れているって話なんだからな。いいからあんまりちょっかい出すなよ」  七蔵は険しい顔で、厳しく二人にそう言った。二人は尚も不服そうな顔をしていたが、ちょっと肩をすくめて黙った。 「まぁとりあえず、俺らは化物に襲われねぇように用心するだけだ」  七蔵は扉を開け、眼前に広がる青い海を眺めた。  空は青く澄み、真昼の太陽が凍てつく冬の海を照らしている。きらきらと美しく波打つ水面が、今は平和に揺れている。

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