160 / 341
序 鴨川の春
ここは京の都。
弥生に入り、張り詰めた冷たい空気が緩み始めた。溶けゆく根雪の隙間から、ちらほらと可憐な黄色い花が咲き始めている。雪解け水で増水した鴨川のほとりには、そこはかとなく春の気配が訪れていた。
そんな川べりを歩いていると、吹き抜ける風の中に新芽の芽吹く青い匂いを嗅ぎ取ることができる。
舜海は表情を緩め、淡い空色に霞む、柔らかな空を見上げた。
❀
三条まで下ってくると、土手を登って通りへと出た。普段ならば人々の活気に満ちているはずの京の町だが、今日はひっそりと喪に服したかのように静まり返っている。
人気の少ない、うら寂しい花の都。
もう春は近いというのに、浮かれた空気はそこにはない。
暗い表情でそそくさと小走りに道を急ぐ人々の姿を、舜海は眉を寄せて見守った。
しばらく歩くと、大きな築地塀に囲まれた屋敷の続く道に出た。舜海はその中の一つの門の中へと、すいと入っていく。
綺麗に掃き清められた庭を抜けて、屋敷の玄関口までやって来ると、舜海は左右を見回した。すると、ぱたぱたと小さな足音が近づいてくるのが聞こえてくる。
「遅い!!」
戸口から現れた少年が、いきなり舜海に跳び蹴りを繰り出してきた。
舜海はやすやすとその足首を右手で受け止めると、ぐいとそのまま少年を片手で宙吊りにする。
「いてててて!!!」
舜海にぶらんぶらんと逆さに揺られ、少年は悲鳴を上げた。道着を身に付け、結い上げた茶色味のかかった髪の毛を揺らしながら、涙目でこちらを睨み上げる小生意気な目つきに、舜海はため息をつく。
「阿呆、毎回同じ手に引っかかるか。単純なやつめ」
「うるせっ!単純って何だよ!舜海様に言われたくないんですけど!」
「それにな、今俺らは忙しいねん。そんな中わざわざ稽古つけに来てやってんのに、その口のききかたは何や」
「父上の薦めがなければ、こっちだってあなたの稽古なんてごめんだよ!」
舜海は逆さのまま殴りかかろうとしてくるその拳をいなすように、ぱっと手を離した。べしゃっと地面に倒れ伏した少年は、すぐさま立ち上がって間合いを取る。その顔は、不機嫌満面だ。
舜海も口をへの字にして少年を見下ろした。
少年の名は、源 槐 。齢は十を数える。
神祇省長官・源千瑛の一人息子である。
そして、青葉の鬼・千珠の異母弟だ。
いつもは槐が陰陽寮の土御門邸に訪ねて来るのだが、ここ数日、不可解な事件が続いたために今日は舜海が千瑛邸まで訪れているのである。
それは千瑛からの頼みでもあり、どうも何か他に用事もある様子であったため、舜海はこの小生意気な弟子に会いに来たというわけだ。
槐は父の血を引いているだけあって霊力が強い。ゆくゆくはその力を用いて朝廷の守り人となるために、神祇省の育成部門に所属している。
槐は齢十の子どもであるが、霊力を操る能力には長けている。しかし学問はからきしで、性格はまっすぐだがどこか幼く、いつも一歩まわりから遅れを取っているらしい。
業平が太鼓判を押す、舜海の剣技を聞き及んだ千瑛に厚く希望され、槐の苦手な剣術の稽古を請け負っているのである。
「やれやれ、ご機嫌ななめやな」
「だって、全然外に出してもらえないんだよ。もう退屈。しかも、何が起こってるか教えてもらえないなんてさ」
槐はじっと舜海を見上げた。どうもその話を聞かせろと、眼でせがんでいるようだ。
槐は千瑛と顔立ちがよく似ている。そして、その槐の顔を見るにつけ、舜海はどうしても千珠のことを思い出さずにはいられなかった。
千珠の弟。
二人がとりわけよく似ているというわけではないが、必死で剣を打ち込んでくる槐の顔や、褒められてて喜ぶ槐の表情の端々に、千珠の影がちらついた。
その度舜海の心は、懐かしさと切なさに、胸がちくりと痛む。
「俺に聞こうったってそうはいかへんぞ」
舜海はじろりと槐を見下ろす。槐は思い切り唇を尖らせると、舜海に足払いをかけてきた。しかしそれもひらりとかわされ、槐は首根っこを掴まれて庭の方へと連れて行かれてしまう。
「おや、舜海殿、よう来てくれた」
障子が開いて、千瑛が顔を出した。そのまま濡れ縁に座ると、竹刀を取り出そうとしている槐に向かって声をかける。
「槐、ちょっと向こうから茶菓子と茶をもらってきておくれ」
槐はぶすっとする。
「今から稽古なのですよ!せっかく久しぶりに暴れられるのに」
「何、お前も食ってから励めば良い」
その甘い言葉に、槐はちょっと眉毛を動かし、
「しょうがないなぁもう。取ってきます」
と、食べ物につられて土間の方へと駆けてゆく。
舜海はそんな槐を眺めながら、ため息をついた。
「あっさり食い物につられよった……ほんまに単純やな……」
「ははは、まぁそこが可愛くもあるだろう」
千瑛は少し困り顔をしながらも、楽しげに笑う。舜海は千瑛の隣に座った。
「さて、例の件、何か分かったかい?」
急に声を低くする千瑛に、舜海も表情を引き締める。
「猿之助の従者が一人、捕まりました。やっぱり、あいつ相変わらず裏でよからぬことを企んで動いているようです」
「そうか……。その従者は、口を割りそうか?」
「今のところは、駄目ですね。でも、業平殿が下総の仕事から戻らはったから、すぐに進展があるやろうと思います」
「なるほど。全く、悔やまれるな……」
二年前の、陀羅尼事件。
神祇省の下、陰陽師衆は元陰陽師衆棟梁・佐々木猿之助の行方を追っていた。手掛かりが掴めぬまま、ここひと月のうちに妙な動きが見られるようになったのだ。
元々佐々木派だった陰陽師たちがぽつりぽつと陰陽寮から姿を消し、その後妙な事件が都で起こり始めたのである。
人柱を立て、陀羅尼という強力な鬼を魔境より召喚した猿之助であるが、今回も妖を使って人を襲わせているらしい。
忽然と姿を消す女子供、人ならぬものに追われ脚を食い千切られた男、血痕だけを残して煙のように消える家族……そんな不気味で恐ろしい事件が、ぽつりぽつりと起こっているのだ。それ故、京の人々は恐怖している。
陰陽師衆は猿之助を血眼になって探していたが、まだ成果は上がっていない。
「槐を誤魔化して家に押し留めておくのも限界でね、今日はわざわざ来てもらってすまなかった」
「いいえ、いいですよ。俺も町を見廻れたし」
「こちらも感知結界を敷いているのだが、あの男、昔はこちら側の人間だったし、手の内をよく分かっている。うまくかいくぐられているのだよ」
「こっちもですよ。やっぱ一回山探しでもしたほうがええんちゃいますかね。都の中にはおらんのちゃうかな」
「そうだな……」
千瑛がつと、口を閉じた。どうも、槐は少し前からそこに潜んでいたらしい。槐は菓子の乗った盆を手に、廊下の角から姿を現した。
「やっぱり、なにか起こっているのですね。僕にも教えて下さいよ」
「お前にはまだ早い」
と、千瑛はにべもない。
「すぐそうやって子ども扱いだ!」
槐はぷんすか怒り出した。千瑛は困り顔をすると、槐から盆を受け取り、隣に座るように促す。
「お前はすぐにそうやってかっとなる。良くない癖だぞ。そんなことでは、戦いの中で冷静な判断はできない」
「でも……そうやっていつも、大人ばかりこそこそしてるじゃないですか!」
「今はまだ、はっきりお前に説明出来るだけの材料がないのだよ。もう少し事がはっきりしてきたら、ちゃんと教えてやる」
千瑛が槐と同じ目線に合わせ、静かにそう言って聴かせると、槐も少し怒りの表情を収めた。
「……すみません」
「はいはい。まぁ今日は、いっぱい舜海殿に相手をしてもらいなさい」
「はい」
槐は素直にそう言うと、千瑛の隣に座って茶を飲んでいる舜海を見た。そして、ふと舜海の顔を見て思い立ったように、言った。
「そうだ、千珠さまに来ていただけばいいじゃないか!」
急にその名を聞いた舜海は、不意打ちを食らったように茶を盛大に吹き出した。千瑛も目を丸くする。
槐は、さも名案を閃いたと言わんばかりに、目を輝かせている。
「二年前も都を救ってくださったんだ!きっとまた助けてくれるよ!」
「いやいや、まだ何もそんな大事になると決まったわけじゃ……」
と、舜海は引きつった笑顔を槐に向ける。
「ふむ……」
しかし千瑛は、何事か考えるように顎を撫でた。
「確かに、このままこちらの対応が後手後手になっては、陀羅尼事件の二の舞だな……」
「しかし、そんな毎回毎回他国から助けを求めるのもええ話しじゃないでしょ?」
と、舜海。
「まぁね、都の威信に関わることではある。……我々がまるで能無しだ」
と、千瑛は目を閉じる。
「もう少し調べてから……」
「いやでも、千珠は鼻も利くし……また検分に来てもらうという形で……」
「千瑛殿、それはあんたが会いたいだけやろ」
舜海は小声で千瑛にそう言った。千瑛はちらりと舜海を見遣ると、罰が悪そうに咳払いをする。そして、小声でこんなことを言い返した。
「それはあなたも同じでしょう」
「……」
舜海は何も言えず、ぐっと言葉に詰まってしまう。
槐は楽しげに続けた。
「きれいで強くて、格好いいもんなぁ。舜海様とは大違いだよね」
「何やとこら、もういっぺん言ってみぃ!」
ぴきりと額に青筋を立てて、舜海は手を伸ばして槐の首根っこを掴み、ぶらんぶらんと揺らす。槐はむっとした表情で舜海を見返す。
「千珠さまはかっこいいって言ったんだ!舜海様は五月蝿くて乱暴で……」
「お前が素直に言うこときかへんから俺が五月蝿くて乱暴になるんやろ!」
「あぁもう、離せよ!!犬や猫みたいに扱うな!」
ぎゃあぎゃあと大騒ぎする槐を振り回しながら、舜海は想う。
――千珠が、都に来る?
早く青葉に帰りたいと思いつつ、都の状況を放っておくことも出来なかったため、約束の二年をとうに過ぎてしまった。
――あいつ、怒ってるかな。それともももう、俺のことなんか必要なくなるくらいに、強うなってるんやろうか……。
互いに強くなろうと、約束したあの夜のこと。離れたくないと訴えながら、泣いていた千珠の姿を想うと、胸がきゅんと音を立ててざわめく。
――早う、会いたい……。
二年という月日を隔てても、舜海の心は何一つ変わってはいない。
ともだちにシェアしよう!