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二、能登の妖

    ここは、能登の国。  舜海の言葉通り、佐々木猿之助は都にはいない。  数名の供を連れ、都から遠く離れた北国・能登を訪れているのである。  暦の上では春なれど能登の雪はまだ深く、猿之助たちは寒さに震えながら真っ白な世界を分け入ってゆかねばならなかった。  固く閉ざされた雪山を越える内、稲藁で編まれた深靴の中に忍び込んで来る水気にやられたせいで、爪先の感覚はとうに失われていた。いくら衣を重ねても防ぎようのない凍てついた空気に身体中の感覚が奪われ始めた頃、潮の匂いにふと気づく。  やがて風雪の吹き荒ぶ崖の向こうに、黒くうねる海が見えた。  日本海の波は荒い。近寄る者全てを拒絶するかのような吹雪と波飛沫の中、猿之助たちは封印された洞穴の前に立った。  ――あの忌々しい、白い子鬼。あいつさえいなければ、都は我が手に落ちていたはず。  脳裏に、千珠の顔が浮かぶ。自らの強大な力を驕る、あの美しくも不遜な表情を。  切り札だった陀羅尼を、ああもあっさりとやられてしまっては、こちらの立つ瀬がない。  ――青葉め、あのような武力を今も持ち続けているとは……。  あれに劣らない力を見つけなければ、未来永劫自分たちの一族に未来はない。  猿之助はほくそ笑んだ。  しかし、この噂が真ならば、あの子鬼に勝るとも劣らない妖が手に入るはず。  能登半島の先端・金剛岬の洞穴に、数年前、この地を恐怖に陥れた妖が封印されているという噂を聞きつけたのだ。  それを、我が掌中に収めたい。  猿之助がありったけの呪具を持って、能登まで来たのはそのためである。 「見ていろ……」  猿之助は寒さでかちかちと鳴る自分の歯の音を聞きながら、唇の片端を吊り上げた。  崖下へ降りる道を探して、かの噂に聞いた場所を見つけた。  長い年月をかけて、波で穿たれた大きな洞穴だ。潮が満ちれば隠れてしまうような位置にある入口には、風化して朽ちかけた注連縄が施されている。  猿之助は無造作にそれを払いのけると、湿った岩を踏みしめて中へ進む。  中は凍りつくように寒かった。吐く息から凍って行きそうな鋭い冷気だ。  構わず中を進んでいくうちに、光の届かない、完全な闇が一行を包む。猿之助は従者に火を灯させると、目の前に立ちはだかる岩壁を見上げた。  岩壁には、大きな封印の術式が描かれている。見たところ、最強位の封印術式だった。  猿之助はにやりと笑みを浮かべる。 「道辰(どうたつ)、ちょっと来い」 「はっ」  猿之助は手近な従者を自分の側に呼ぶと、跪いたその従者を見下ろす。かねてから猿之助の側に仕える、付き合いの長い男だった。 「すまんな」  猿之助は冷ややかな声でそう言うと、目にも留まらぬ速さで腰の剣を抜き、その男の首を刎ねた。男は驚愕の表情を浮かべたまま、首だけで凍てる岩盤の上に転がった。  どさ……と重い音が響き、男の胴体がその場に崩れ落ちる。ごくり、と後ろで三人の従者が息を飲む音が聞こえてくる。  猿之助は表情ひとつ変えず、その男の首を掴み上げると、岩壁の前に置く。虚ろな目がじっと自分を見上げていることなど、気にも留めずに。  かじかむ手を奮って印を結び、猿之助は右掌を岩肌に押し付け大声で唱えた。 「解!」  岩肌に張り付くように描かれていた封印術が、猿之助の掌に吸い込まれるように消えた。それと同時に、岩肌ががらがらと音を立てて崩れ始める。  洞穴の奥から、どろりと膿んだ冷気が流れ出す。重たく湿った湿った、凍てつくような澱んだ空気。不気味な気配に、従者たちの後ずさる足音が響く。  猿之助は笑みを浮かべたまま、じっとその闇の中を探るように見据えた。  すると黒い瘴気が、闇に紛れて流れ出してきた。猿之助は口を抑えて、咄嗟に従者たちの元まで退く。 「吸うな!これは毒だぞ」  従者たちは首に巻いていたものを顔まで引き上げると、そこから現れてくるものに備えて体勢を整える。  風で揺らめき、消えかけていた松明の火が、ゆっくりと落ち着きを取り戻し始める。  ひた、ひた、と小さな足音。  全員ざ固唾を飲んで身構えていると、こちらに歩いてくる小さな影が見えてきた。 「……こいつが?」  そこにいるのは、子どもだった。  齢十にも満たない幼い少年である。  しかしその目は暗く虚ろで、何を映しても闇に変えてしまうような黒だ。ぼろぼろの着物で肌を隠し、瞳と同じくらいに黒い髪の毛は、肩まで伸びてぼさぼさに乱れている。肌は青白く、まるで紙のように艶がない。  猿之助はごくりと喉を鳴らした。  不気味だった。まるで、津波が襲ってくる前の砂浜に一人で立たされているような感覚とでも言おうか。  一人の従者が、恐ろしさからか一歩後ずさる。その岩を擦る足音に、少年はふいと目を上げた。  刹那、その従者は岩肌にその身を埋めていた。骨と岩が砕ける音が、残虐な像の後にやってくる。まさに、目にも映らぬ速さだった。  猿之助は恐怖を感じるその前に、こみ上げる笑いを堪えることが出来なかった。 「はははは!!素晴らしい力だ!」  笑っている猿之助を、少年は表情のない目で見ている。残った一人の従者は、恐怖に身を竦ませているのか、まんじりとも動かない。 「素晴らしい!強いな、(わっぱ)!」  見つけた獲物は、予想以上に拾いものだ。後から後から湧いてくる歓喜に、猿之助は腹を抱えて一頻り笑った。  しかし、ふと瞬きをした途端、少年が目の前に立っていてぎょっとする。一体いつ動いたのか、全く分からなかった。 「だれ……?」  その声は幼く、細いこどもの声だ。  虚のように落ち窪んで見える暗闇の瞳に見つめられ、冷たい汗が背中を伝う。  しかし猿之助は平静を装うと、 「私は都から来た者だ。お前を迎えに来たのだ」 と、言った。  少年は尚も虚ろな目のまま、猿之助をじっとりと見上げている。 「そなたの力を借りたい。こんな冷たい所ではなく、我々と都へ行かぬか」 「……みやこ」 「そうだ、都だ。こんなところにいては、寂しかろう」  少年はふと後ろを振り返った。今まで自分が封じられていた真っ暗な洞穴を、眺めている様子に見える。  少年は顔を上げる。 「いく……」 「そうか!よし、そうと決まれば、さっさとこんな寒いところはおさらばだ。行くぞ」  少年は猿之助の差し出した大きな手をちらりと見上げたものの触れる事はせず、すいと自分が先に立ってふらふらと歩き始めた。猿之助はその手を引っ込めると、腰を抜かしている従者の尻を蹴飛ばして立たせ、その後に続く。  波の音が、不吉にあたりを包み込む。  

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