176 / 341

十六、貴船にて

 うまく逃げ果せた猿之助一行は、宇治には戻らず、もう一つの隠れ家のある貴船にいた。  轟々と流れる貴船川の水音と、自らの苦しげな呼吸音が重なって聞こえる。  山道をひたすら走ったお陰で、一行は疲れはててぼろぼろだった。その上、ただでさえ手駒が乏しいというのに、逃げ遅れた何人かの部下を捕らえられてしまった。  猿之助は苛立っていた。  ――あの白い鬼、いつもいつもあと一歩の所で、仕留められない。忌々しい餓鬼め。  千珠の銀色の髪と白い肌が目の裏にちらつく。そして、あの高慢な美貌と、不遜な目付きも。  猿之助は歯ぎしりをすると、自分のすぐ後ろを歩き、肩で息をする藤之助におぶわれた夜顔を、ちらりと見た。  ――力は強い上、幻術も使えるようだ。だが、全く制御ができない。言葉をあまり解さない上に、何が引き金で暴れ始めるのか分からない。  もう少し、こちらのために動くように躾なければ……。  猿之助は、暗い山道を睨み付けながら、爪を噛む。  ✿  貴船の隠れ家にも、十数名の部下が潜んでいる。  あと一月もすれば、麓では桜が咲こうかという時期なのに、ここはひどく冷え込んで真冬のようだ。岩肌を削りながら流れる貴船の川音が、更に寒さを増幅させるように感じられる。  籐之助は、板張りの床に座り込んだ。どっと疲れが押し寄せてくる。  ここは人の住まなくなった古い屋敷だという。猿之助らの帰りを待っていた部下達によって、小奇麗に整えられているためか、思いの外そこは寛がしい雰囲気がある。  帰ってきた者の手当や、身の回りの世話を細々と行っている部下から温かい茶をもらうと、それを一気に飲み干した。胃の辺りからぬくもりが広がり、ようやく生きた心地が蘇る。  傍らに座り込み、相変わらずほうっとした様子の夜顔を見ると、そっとその肩に手を置いた。  びくっと大げさなほどに身体を震わせた夜顔の反応に、藤之助ははっとした。そして、安心させるようにもう一度、ゆっくりと手を載せる。 「夜顔、もう大丈夫だよ。ほら、これを飲みなさい。うまいぞ」  夜顔はじっと湯呑み茶碗を見ていたが、手を出そうとはしなかった。藤之助はそこに入っている茶を少しすすって、美味そうな顔を見せると、 「ほら、うまいぞ」と笑顔を見せた。  夜顔は一回瞬きをすると、ゆっくりとその湯呑みを受け取った。 「熱いからな、気を付けろよ」 「……あつい……?」 「そう、熱い」  夜顔は、ゆっくりと茶を飲んだ。ごくり、ごくりと夜顔が喉を鳴らすのを聞いて、嬉しくなって笑みが溢れる。ここへ来て初めて、人間らしいものを口にしたことに、安心したのだ。 「うまいだろ」 「……うまいだろ……」  全て飲み干した夜顔は、そう言って藤之助の顔を見上げた。心なしか、少し表情が緩んでいるように見える。  そんな二人の様子を、猿之助と数人の陰陽師たちが、遠巻きに見ている。 「藤之助様は、随分とあの妖を可愛がっておいでですね」 と、年若い男がそう言った。佐々木家の縁者であり、名を佐々木影龍(かげたつ)という。  貴船にて佐々木衆を取りまとめている男だ。鋭利な刃の如く細く釣り上がった目は、常に仲間たちを監視しているかのように隙がない。 「あいつは気の優しい男だからな。名前をつけ、世話をしてやっているのだ。……まぁそれで、夜顔がこちらに(くみ)するのならば、それでよい」 「情が移って、人殺しをさせたくないなどとおっしゃらないでしょうか」 と、影龍は低い声でそう言った。 「そうなったら、そうなった時だ。今はあいつを手懐けるのが先だ。逃げないように見張っておけ」 「分かりました」 「とりあえず、夜顔の喉の傷を何とかしろ」 「はい」  影龍は立ち上がると、藤之助と夜顔のもとに歩み寄って膝をついた。 「藤之助様、お久しゅうございます」 「影龍、世話をかける」 「いいえ……。これが、夜顔ですか。青葉の鬼に怪しげなことをされたとお聞きした。拝見しよう」  影龍は、上から夜顔を見下ろす。  大量の返り血が、白い肌を赤茶色に汚している。黒装束であるから、一見衣は大して汚れていないようにも見える。しかし袴の裾の部分は、特に血を吸って重たげである。  青葉の鬼に攻撃されたという喉笛の辺りに手を触れようと、影龍は手を伸ばしかけた。  ところが、夜顔の衣服に手を触れた瞬間、影龍は巨大な圧力によって後ろにはじき飛ばされていた。声を出す間もなく、壁に激突する。  土壁に激突する激しい音に驚いた者達が、何事かとそちらを振り返る。影龍は強かに背中を打ち付けて、痛みに喘ぎながら、憎々しげな目を上げて夜顔を睨みつけた。 「貴様……何をした……」  夜顔は、乾いた瞳で影龍を見ているようだ。横にいた藤之助でさえ、今夜顔が何をしたのか分からなかった。 「……()っ」  よろよろと立ち上がる影龍を、側にいた仲間が助け起こす。その男たちも、揃って夜顔を恐ろしげな視線を向けている。  藤之助は、そんな皆の視線に心が痛んだ。夜顔を見つめる、憎しみのこもった目線。生まれてから今までずっと、夜顔はこういう視線に晒されて生きてきたのだろう。  藤之助は立ち上がって、夜顔の前に立った。 「まだ人に慣れれおらぬゆえ、許してやってくれ。すまん」  影龍はぎっと歯を食いしばると、藤之助をも睨めつけた。 「私は傷を見ようとしただけだというのに、こんな目に遭うとは。危険な餓鬼ですね。しっかり躾けていただかなければ困りますよ」 「……分かっている」  藤之助は振り返って夜顔の前に膝をつくと、笑顔を作って見せた。 「着替えて、傷を見てやろう。いいね」 「……」  夜顔は何も言わないが、藤之助をはじき飛ばすことはしない。 「佐為(さい)、この子の傷の手当てを頼む」  藤之助は、予てからの腹臣である青年に、小さくそう告げると、夜顔を促して皆のいる広間を離れた。  佐為と呼ばれた華奢な青年は、頷いてその後に続く。  残された者たちは、押し黙ってことの顛末を見守っていた。皆が不安げに、恐れを含んだ顔色をしながら。  猿之助はそんな部下たちの表情さえも楽しむように、ひとり唇を歪めている。  ✿  着替えをして、藤之助に血を洗い浄めてもらった夜顔を見て、佐為は首を小首を傾げた。 「こんな可愛らしい童子が、そのような力をねぇ……」  佐為は藤之助によって保護された、孤児の一人である。霊力の高さを認められ、陰陽寮で修行をしている。  齢十九になる佐為は細い身体付きをしていて、どちらかというと女のような顔立ちをしている。幼い頃、満足に栄養を取ることが出来ない境遇にあったため、身体が大きく育たなかったのだ。  病勝ちに見えるような、青白い肌と細い手足は頼りない。しかし佐為は器用で頭がよく、佐々木派の裏方として色々と仕事をしてきた。  「……きっと影龍の目付きが怖かったのだろう」 「あいつ、すぐに思っていることが顔に出ますからね」  佐為は影龍があまり好きではないのか、渋い顔をしてゆるゆると首を振った。 「夜顔、こいつはお前を手助けしてくれる男だから。安心していいよ」  藤之助は、佐為を紹介してそう言った。佐為も笑顔を見せる。 「佐為、と申します」 「さい……」 「そうだよ。じゃあ、ちょっと失礼して」  佐為はゆっくりと上半身の着物を脱がせる。そして、喉元に深く刺さった赤い石を認めた。 「これ……」 「なんだそれは?」  ほんの小さな細い石だった。金色の金具が、夜顔の肌から覗いているのを、佐為はそっと指で触れる。 「耳飾りですね。これは妖の力を吸い取る特別な石のようです」 「じゃあ、夜顔の力を吸い取っているのか?」 「そのようですが……ここに刺さっている間は、そんなに影響は無いようですが、抜いてしまうとどうなるか分かりませぬ」 「どうなる?」 「かなりの力を抜き取られてしまうこではないかと。あの青葉の鬼は、これで自分の妖力を抑えて御しやすくしていたのでしょう」 「抑えていた?」 「彼は確か半妖と聞きます。おそらく幼い頃、うまく力が使えなかったんじゃないですかね。力が暴走しないように、予防線を張っていたのでしょう」 「あの鬼にも、そんな時期があったのか」 「おそらくは。まぁ……これはしばらくこのままにしておきましょう。見たところ、痛そうではないですし」 「夜顔は表情がうまく作れない。痛くないのかは分からぬが……」 「いたく、ない」 「え?」  夜顔が自分から言葉を発したことに、藤之助は驚いた。ぱっとそちらを見ると、夜顔はその赤い石の埋まった喉に触れている。 「これで、いい」 「……そうか、お前がそう言うのなら、そのままにしておこうか」  藤之助はそう言うと、ぽんと夜顔の頭に手を乗せた。夜顔の表情は動かないが、その黒い瞳の中で、微かに光が揺れたのを佐為は見逃さなかった。 「藤之助様の言うことは聞くんですね」 「まぁ、最初に世話してやったのが俺だったからだろ」 「なるほど……。僕もあなたに拾われた身、この子の気持ちは分かる気がします」 「そうか?」 「あなたはお優しい。だからこそ、猿之助様に利用されぬよう、僕が気をつけておくのです」 「兄上は、ああいう男だ。仕方が無いさ。でも血を分けたたった一人の家族だからな。放ってはおけないよ」 「あなたはいつもそう仰る。猿之助様は、ただあの人の目的のためだけに、我々を……」 「佐為、お前の心配は分かっている。しかし今しばらく、様子を見よう」 「……分かりました」  佐為は物静かに整った顔を曇らせながらも、頷く。眉の上で切り揃えられた前髪と、うなじのあたりで短く揃った薄茶色の髪が、さらりと揺れる。  藤之助は夜顔の頭を撫でながら、じっと、重い表情を浮かべていた。

ともだちにシェアしよう!