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三十、猿之助の動く理由
朝餉の後、柊と舜海は二人で見廻りに出ることになり、千珠は一人、業平の部屋へと向かった。
「業平殿、千珠です」
襖の前に膝をついて千珠が名乗ると、中から業平の返事が返ってくる。襖を開けると、佐為がすでにそこにいた。
佐為は千珠を見るとにっこりと微笑み、何やら嬉しそうな顔である。
「揃ったね。まぁゆったり座りなさい」
寛いだ様子で上座に座り、にっこり爽やかに微笑む業平が、手招きをした。千珠は業平と向い合っている佐為の隣にあぐらをかいた。
「ねぇ、千珠って呼んでもいいかい?」
佐為はすでにそう呼ぶと決めているかのようなきっぱりとした口調で、そう尋ねた。
「いいよ、何とでも」
「ありがとう。僕のことも、佐為って呼んでね」
「あぁ、うん……」
業平は二人を見比べて微笑し、少し開いた障子から見える庭を眺めた。
「いつか君たちを引き会わせようと思っていたんだ。もう気づいているだろうが、佐為にも妖の血が流れているからね」
「ええ、分かります」
と、千珠は佐為を見た。
並んでみると、佐為は千珠と負けず劣らず白い肌をしていた。眉毛の上、うなじの下あたりで切り揃った短い髪が、かすかな風にさらりと揺れる。
「佐為はね、藤之助が戦の最中に保護した子どもだったのだ。だから私の間者というよりも、ただ藤之助が心配でくっついていっただけのようなものなんだよ」
「藤之助さまが信頼している業平さまの頼みであれば、僕はききますよ。何でも」
佐為が事も無げにそう言うと、業平は微笑む。
「藤之助は、私とは幼馴染のようなものでね。幼い頃から共に修行をしてきた仲だった。藤之助の肉親は猿之助と姉の雛芥子 だけ。小さい頃から兄上兄上と、猿之助の後ろをついて回るような従順な弟だった。猿之助は昔から頑固で、こうと決めたことはなかなか曲げない頑固な……いや、芯の強い男でね」
「姉……先代の奥様でしたっけ」
と、千珠は記憶を辿るようにそう尋ねた。
「そうだ。先代は安倍晴明様からの直系の血統で、由緒正しき血筋だった。外戚だった佐々木家と縁を結び、さらにその血を濃くしていった。雛芥子は、その能力もさることながら、とても美しい女でね。私も憧れたものだ」
「へぇ」
と、千珠と佐為は同時に唸る。
「その頃は猿之助も力を発揮する場があったし、皆を率いてよく働いていたよ。でもね、先代の妾に先に子どもが出来てしまったことで、雛芥子の立場が段々と弱いものになってしまった。追い打ちをかけて、雛芥子がようやく生んだ子どもは身体が弱くてね、赤子のまま死んでしまったのだ。
奇しくも雛芥子を追い詰める格好になってしまった妾の子というのが、宇月だよ」
「……そっか。それで猿之助はあんなに宇月のことを目の敵に」
千珠は、陀羅尼事件の時の宇月と猿之助のやり取りを思い出していた。強張った宇月の顔が蘇る。
「そう。その頃からかな、彼女は#精神__こころ__#を病むようになってしまった。その頃から、猿之助はえらく強硬な思想を持つようになったんだ。妖を狩って、使役することこそ陰陽師の力だとね。
先代は伝統を重んじ、責めの姿勢よりも守りを強固にするという考えのもとに動いている人だったから、二人はよく衝突するようになった。
……猿之助は、大切な姉を追い込んだ先代のことを憎むようになっていたのだよ。そんな中、藤之助は、兄を宥めながらも、なんとか二人を協調させようと頑張っていた」
「……」
千珠の脳裏に、あの夜見た藤之助の穏やかな瞳が浮かんだ。大切な家族と、大切な仲間たち。その二つに挟まれて、どれだけ苦しい思いをしているのだろうか。
「しかし、先代は流行病にかかり、あっけなく亡くなった。その後すぐに、雛芥子も……。そしてその時次期棟梁として名が上がっていたのは、猿之助と、先代の直弟子である私だった。しかし、年寄衆は先代の思想を受け継ぐ私よりも、先代の義弟あたる猿之助を選んだのだ。そこから、陰陽寮は変わっていった」
そこで、業平はぬるくなった茶を啜る。
「私をはじめ、先代の思想を濃く引き継いだ者たちは、ことごとく都を追われた。宇月は出雲へ、私は相模へ……表向きは視察と修行という名目だが、あれは単に島流しだ。その時に、陀羅尼事件が起こり、私たちは都へ再び戻ってきた。その後のことは、千珠さまも知っての通り」
「帝を狙った門で、佐々木衆は都を追われた……」
「そう。いざという時、兄を救うために下準備を進めていたのが、藤之助だ。その甲斐あって、我々は猿之助にはまんまと逃げられたわけだ」
業平は一息置いて、目を伏せた。
「藤之助には、兄の気持ちが痛いほど分かるのだろう。姉を慕うがゆえに、先代を憎く思う気持ちが。しかし、藤之助は陰陽寮の仲間たちも心底大切にしていたし、手ずから育てた後進たちもたくさんいる……そう、風春や詠子、そして佐為」
佐為は瞳に淋しげな色を浮かべて、俯いた。千珠はそんな佐為の端正な横顔をちらりと見る。
「それでも、彼は血を選んだのだ。猿之助のやり方に、百賛同しているわけではないことは、佐為から聞いて分かっている。でも、きっと藤之助は兄がいつか元に戻ってくれると信じて、ついていっているのだ」
「純粋な男なのですね」
千珠は、呟く。
「そう、とてもね。しかし、私は猿之助を粛清せねばならない。そして当然、藤之助も。今のあいつは、猿之助の片腕として動いている危険人物の一人だからだ。そうしなければ、朝廷にも下々の陰陽師たちにも示しがつかない」
業平は苦しげに眉を寄せる。棟梁としての、苦渋の決断なのだろう。
「やすやすと猿之助が私にやられてくれるとも限らないがね。その時のために佐為がいる」
業平は佐為を見た。
「佐為の能力は、私以上のもの。隠し刀として動いてもらうために、表向きは力を抑えて行動させている」
「まぁ、生まれながらの力の質が違いますから」
佐為はさらりとそう言った。
「藤之助さまの御心は昔と変わっていません。今でも板挟みのまま、そしてさらに夜顔を抱えて、今とても苦しいお立場です。夜顔に殺しをさせたくないし、愛する都を壊したくない。でも、猿之助の言うことには従わねばならない……その兄を、止めたいとも思っている」
「……雁字搦めだな」
「でも……夜顔の力を取り去る方法ができたのですよ」
「えっ?」
千珠が声を上げる。佐為はにっこりと糸目になった。
「千珠が突き立てたあの耳飾りだよ。あの時、石が夜顔の力を吸収したことで、君はあの場から逃れることができた。あの耳飾りを取り去れば、夜顔の妖力は大部分を石に持って行かれてしまう。普段千珠の妖力を抑えていただけのことはあるね、すごい力の石だ」
千珠は無意識に右の耳に残る耳飾りに触れていた。母親からの置土産、千珠のために誂えられた特別な宝。
「夜顔を押さえながら、あれを抜きされば、彼はあの禍々しい力を失うだろう」
「じゃあ……猿之助は夜顔が必要なくなるな」
千瑛の言葉が聞こえてくるようだった。
昨日から考えあぐねていたことへの確かな糸口を得て胸が高鳴り、千珠は逸る気持ちを抑えるように拳を握りしめる。
「しかし、千珠さまのしようとしていることを、私は良しと言うことはできません。前から言うように、どうなっても夜顔は脅威だ。現にたくさんの人を殺しているのだから」
業平は、冷静な声でそう言い切った。千珠は、業平を見上げる。
その表情は、どこか辛そうだった。
かつての仲間への想いと、都を守るという重責にこの男も板挟みになって苦しんでいるのかもしれない。
「しかし、力量の配分から、夜顔のことは千珠さまに任さざるを得ない。その辺りも、知っておいてもらいたい」
「……」
千珠を見つめる業平の目つきには、明らかに言葉とは違う意味合いが含まれているように見える。
その目を見つめ返していると、千珠は業平の言わんとすることをはたと感じ取った。
――藤之助と夜顔を、救ってやってくれ……と。
千珠は、目を閉じて微笑むと、しっかりと頷いた。
「分かりました」
「よし……」
業平も、安堵したように笑みを浮かべた。
❀
業平の部屋から出てきた時には、千珠の心は軽くなっていた。為すべきことが明確となり、迷いが消えた。それに佐為という強力な味方が現れたことも、その心を軽くする一つの要因でもある。
自分の隣を歩く佐為の、少し高い位置にある横顔をちらりと見上げた。
考えの読めぬ、深いきらめきを持った黒い瞳を。
「そんなに見つめないでよ」
表情を変えず、佐為はそんなことを言った。千珠がぎょっとして立ち止まると、一歩先で歩みを止めた佐為が振り返って微笑した。
「照れるじゃないか」
「見つめてない」
千珠はぷいとそっぽを向く。
「千珠、僕は君のこと、話に聞くたび会いたいと思っていたんだよ」
「え?」
「青葉の半妖が、戦を終焉に導いた。陀羅尼を倒し、海神を封じた……君の存在は、君が思っている以上にこの界隈では有名だ」
「……それはそれで、居心地が悪いな」
「そうかもね。でもね、君の活躍は僕にとって、何故だかとても嬉しいことだった。会ったこともない君のこと、まるで兄弟のように感じていた」
「兄弟?」
「うん。夜顔ほどではなかったけど、僕も小さい頃は色々と苦労したからね。君にも少しは分かるかな」
「……まぁな」
「だからね、どこか似た運命を生きる君が、その力を人のために使って名を轟かせるってことが、嬉しかったんだよ」
佐為はいつになく柔らかな笑顔を千珠に向けた。その言葉が素直に、嬉しかった。
兄弟。
自分は孤独だと、周りに壁を拵えて閉じこもっていた幼い頃の自分には、きっと想像もつかなかっただろう。
こんなに、仲間が増えるなんて。
戦いと死の中でしか生きられないと言われる白珞族の血を持っていても、こんなにもたくさんの暖かいものを得ることができるなんて。
千珠は、佐為に笑みを見せる。
「……ありがとう」
「ううん、いいんだ。さて、作戦でも練ろうか」
佐為はにっこりと笑い、千珠に背を向けて歩を進める。
「ああ」
二人は肩を並べて、人耳の届きにくい庭の方へと歩き出した。
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