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十八、孤独への誘い

   翌朝、千珠達は夜顔が封じられていた洞穴の真上にあたる高台に来ていた。  まるで太陽など永遠に差さないかのようなどんよりとした空模様の下、千珠たちはあたりに気を巡らせながら荒涼とした風景を見下ろす。  かつてはそこにも漁村があったらしく、軒を連ねる粗末な家、打ち捨てられた投網や漁具などが見られる。しかし、主を失ったそれらは、今は埃を被り、潮を浴び、今にも朽ち果てそうな様相を示していた。  紅玉の吐いた煙が強い風に巻かれ、弔いのように空に立ち上った。 「……何も感じない」  佐為はそう呟くと、悔しげに眉を寄せ、千珠は何気なく耳飾りに触れた。 「……この妖気に、気付いてないのかな。夜顔はあいつの分身みたいなものだろうに」  紅玉はぷかぷかと煙管をふかしながら、こんなことを言った。 「お前ら、本当に鈍いんだね。雷燕なら、こっちに向かって飛んできているじゃないか」 「え……?」  三人は愕然として紅玉を見た。紅玉は妖しく笑うと、海の上を指さす。 「お前たちはね、もうすでに雷燕の縄張り中にいる。あいつの妖気が強過ぎて、逆に何も感じないのさ」 「そんな……」  佐為は信じられないという表情を浮かべ、紅玉の指差す方向を見やる。千珠と風春もそれに倣った。  荒れ狂う波の上を、黒い影が風のように飛んでいるのが見えた。  じっと目を凝らしてその影を追っていると、それはみるみるうちにこちらに近づき、崖の手前ですっと消えた。 「……消えた?!」  と、風春の少し怯えた声。  千珠たちがはっとして辺りを見回すと、旋風とともに、突然黒い影が眼前に現れた。突然の突風に、皆が立っていられずによろける。 「!」  ばさ……と風を生みながら羽ばたく音がする。見上げると、そこには黒い影を纏った大きな鳥がいた。 「……雷燕」  呟く紅玉の声。  千珠は吹き荒ぶ強風に負けじと、目をかばいながらそれを見上げる。   身の丈ほどの大きな黒い翼が見えた。そしてその中心に居るのは、人間と変わらない姿をした男だった。 「……紅玉か。なんだ、こいつらは」  重く身体に響く低い声で、その男は口を利いた。 「あ……」  千珠の中の夜顔の気が、どくん、と音を立てて反応する。雷燕に身体ごと吸い寄せられるかのように、千珠はその姿から目が離せなかった。  まるで、大人になった夜顔が、そこに居るようだった。血の気のない白い肌、漆黒の瞳を包み込む切れ長の目。艶やかな長い髪と、同じ色の大きな翼。  夜顔の顔を、そのまま大人にしたような顔形である。  雷燕も、じっと千珠を見下ろしていた。何かを探るように、ゆっくりと瞬きをしながら千珠を見つめている。 「……お前」  雷燕はとん、と裸足の足で千珠の前に降り立つと、翼を背中に畳んだ。  千珠は動けなかった。  目の前にいる雷燕の強大な妖気に、足がすくむ。 「……俺の子、というわけではなさそうだな。この匂い、鬼か」  雷燕の身の丈は普通の人間よりも一回り大きく、素早く顎を掴まれた千珠は、いとも容易く身体ごと持ち上げられてしまう。  千珠は咄嗟に雷燕の手首を掴んで暴れてみたものの、その手はびくともしなかった。 「……お前が……俺をここまで呼んだのか?」  千珠はごくりと唾を飲み込んで、雷燕にそう尋ねた。 「お前の子の妖気は、確かに俺の中にある。ここ数週間、ずっとその気が騒いで……気づいたらここへ来ていた」 「……ふん。呼んでなどはおらん。しかし俺の憎しみが、お前の中の憎しみと呼応して、ここへ導いたのだろう」 「俺の中の憎しみ……だと?」  雷燕は目を細め、にいと笑った。  夜顔とよく似た面差しなのに、その表情はどこまでも冷たく、残酷だった。千珠はぞっとした。 「お前、人の世で生きているようだな。しかし、忘れられぬ憎しみもあるのだろう? そうでなければ、こんなにも強く俺に惹きつけられることはない……」 「え……」  千珠の脳裏に、里を滅ぼした僧兵の姿が浮かび上がる。 戦で斬り殺した人間たちの姿、恨みのこもった視線の数々も。 「ああ……流れこんでくるよ、お前の気持ちが。半妖と知りながら、人の血が流れていると知りながら、お前に人を殺させたお前の主の姿……」 「……違う」 「お前の力にすがりながら、お前を妖だと蔑む男の顔……お前の力を利用している人間たちの顔……」 「違う! 違う!」 「……報われないな、お前はそのままずっと、そんな人間たちの中で生きていくつもりか?」 「違う! でたらめを言うな!」 「では、何故そのように動揺する。なぜ涙を流す」  はっとした。  千珠の目からは、幾筋も涙が流れている。それを見て、雷燕はにぃと笑った。 「……心の底では、お前はずっと迷っていたのだろう? ずっと。自分は違う、ここにいる人間たちとは違う。どうあっても共に生きることはできぬと」 「……」 「もうよい。俺と共に来い。そうすれば、お前は苦しむことはないのだから」 「……そんな……嫌だ」 「拒むことはない。そのために、お前はここまで来たのだろう……」  雷燕はふわりと、翼を大きく広げた。甘く優しく語りかけられながら、大きな翼で身体ごと包み込まれる。翼  によって創りだされた闇の中で、千珠は目を見開いた。 「……いたいけな鬼の子よ。俺とともに来い」 「千珠、駄目だ!!」  雷燕の放つ禍々しい瘴気によって、一時的に動きを抑え込まれていた佐為が、ようやくそれを振りきった。  声を上げると共に印を結ぶと、鋭く雷燕を睨みつける。 「陰陽閻矢百万遍!! 急急如律令!!」  佐為の身体から青白い炎が立ち上る。その背後に数千の破魔矢が浮かび上がり、まっすぐに雷燕目掛けて飛びかかる。

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