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三十、嵐の前

 千珠は、目を閉じて立っていた。陰陽師衆屯所の屋根の上に。  湿った重い空気が、海の上を渡ってくるのを感じる。嵐が近いようだ。  これよりすぐに、術式を執り行う場所へと向かうのだ。屯所の周囲には、緊迫した空気が漂っている。    ふわりと甘い香の香りがしたかと思っていると、紅玉が千珠の音もなく隣に立っていた。 「紅玉か」 「……ふん、こんなとこでなにしてるんだい?」 「精神統一だ」 「そうかい。まぁせいぜい、雷燕に取り込まれないように気をつけるんだね」 「分かってるよ」 「ん?その剣……」  千珠の腰には、風春に持たされた叢雲の剣が差してある。海神の時と同様、千珠の力となるようにと願いを込められた、神剣が。  千珠はその柄に触れ、すっと目を上げて海を見た。 「これは俺の妖気を吸って目覚め、この刃で雷燕を喰らう。これで斬りつければ、あいつは確実に弱る」 「妖しい剣だねぇ。あんたも喰われないよう気をつけなよ」  千珠は、紅玉を見た。紅玉はその真っ直ぐな視線に気づくと、ぱっと顔を赤くする。 「な、何だよ」 「いや……俺を気遣ってくれるのか?」 「ち、違うよ!!あんたの妖気はあたしがいただくんだ、減ったら嫌じゃないか!」 「はは、そうだな」  千珠は華やかに微笑んだ。紅玉は真っ赤になって、煙を吐くとぷいとそっぽを向いた。 「大丈夫だ」  千珠は再び海を見渡した。  ごろごろと、遠雷の音が嵐の訪れを感じさせる。それはまるで開戦を告げる鼓の音のようにも聞こえた。  もうすぐここは戦場だ。  不思議と落ち着いた心、そして戦いに逸る心。千珠はその二つの思いを胸に抱いてここにいる。  雷燕は、遠慮なく全力で向っていける相手だ。ただ本能の赴くままに、雷燕に挑んでゆけばいい。それでもきっと、奴には敵わない。  それでもいい、皆が雷燕を眠らせるまで、全力であいつを止めることができればいいのだから。 「千珠さま」  すっと、どこからともなく柊が現れた。背後に朝飛と山吹を従えている。 「おう、柊。山吹と朝飛も」 「俺達は千珠さまを援護しようと思います」 「いや、でもお前らは……」 「確かに俺らには霊力などはない。朝飛にいたっては、そこにおる紅玉の姿すら見えてへん」  柊はそう言うと、背中から忍刀を抜いた。  その柄にはぐるぐると護符が巻かれ、刀身にも梵字が描かれて、なんともいかめしい様相に変化していた。 「佐為殿が、俺らにはこれをと。まぁ……千珠さまのことや、きっと俺らの援護なんて逆に迷惑やって言わはるんでしょうけど」  柊は苦笑すると、すとんと剣を鞘に戻す。きん、と金属の触れ合う音が小気味良く響いた。 「分かってんなら、何で」  千珠は皆に向き直ってそう言った。 「念には念を。陰陽師衆の人らを護る結界かて、どの程度もつもんか怪しいやろ。いざとなったら、俺らが何とかしたるから」 「……私達だって、伊達に戦を生き抜いてきていませんから」 と、ぼそりと山吹がそう言った。 「まぁ俺は、妖見えへんから、どこまで役に立つか分からりませんけど。山吹が俺の目になってくれる言うし、何とかしますよ」 と、朝飛も軽い口調でそう言った。  千珠はそんないつものように飄々とした忍の三人組を見て、笑った。 「そうだな、念には念を、だ。頼む」 「はい」  忍の三人は顔を見合わせ軽く微笑むと、口布を上げてふっと姿を消した。 「お前は本当に、人間が好きなんだね。人間からも、えらく好かれているようだ」  紅玉は呆れたような声でそう言った。しかしその顔は、どこか楽しそうでもある。 「別に、そんないいもんじゃない」  千珠はつんとした表情でそう言うと、大きく伸びをして深呼吸をした。 「さぁ、行こうか」  息を吐いて目を開いた千珠の顔は、決意に満ち、凛としていた。曇天の空を映しながらも、その目は明るい琥珀色である。  千珠は屋根を蹴って、決戦の地へと向かって走りだした。

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