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二十九、記憶

   おいで……。  差し伸べられた人間の手と、優しい呼び声に目を覚ます。  ただの燕であったはずなのに、いつまで経っても死は訪れなかった。仲間たちが一羽二羽と翼を畳むのを見届けながら、何故自分にはその時が訪れないのだろうと不思議に思っていた。  寂しさにも飽いた頃、俺は一人の少年に変化(へんげ)することを覚えた。ずっとずっと憧れていた、人間の姿に。  ――おや?お前は妖だね。そんなところで、一人で暮らしていくのかい?  森の中でひとり暮らす俺の元へ、村の男がやって来た。人の良さそうな、好々爺(こうこうや)だ。  ――遊びにおいで、お前の歌を、聞かせておくれ。  艶やかな黒い翼で、自由に青空を飛び回る。軽やかに歌を歌いながら。  歌う俺を見上げる、楽しげな人間たちの姿。  笑っていた、みんなが。  楽しくて、幸せだった。  いつまでもこの村で、暖かな人間たちと一緒にいたかった。  そのために、害をなす妖を追い払って平和を保った。  人と妖が争わぬように。親しくこの世に在ることが出来るようにと。  しかし、平和は恒久のものではない。  悪意はどこにでも、産まれゆくものだ。  突然襲う、胸の鋭い痛み。  血が流れ、肉が裂ける。  胸を貫く、一本の矢。  見下ろせば、そこには矢をつがえた祓い人たちの酷薄な笑み。  笑っている?  笑っているのに……何故、こんなにも、禍々しい。  何故、俺を襲う……!!   「……はぁっ!!」  雷燕は目を開いた。  また、夢を見ていたようだ。  夢など、ここ数十年見たことはなかったというのに、あの子鬼に斬りつけられてから、いやに昔のことを思い出す。  美しい想い出も、憎々しい思い出も。  どちらも思い出したくなどはないものなのに、記憶の底から引き摺り出される。  雷燕は頭を押さえた。  頭が痛い。  何故、涙があふれるのだ。  何故、こんな気持ちを思い出す。  ――俺は、この地を統べる妖だ。俺を止めることができるものなど、この世にはおらん。  あの白い鬼、殺してやる。  さすれば、この胸の痛みはきっと止む。  あいつがこの地にいるせいで、俺の心ははこんなにも揺さぶられる。  雷燕は暗闇の中、目を細める。  腹の傷はほぼ癒えた。これならば、飛べる。  ず、ずず……と重い体を引きずる音が、洞穴の中に響く。  洞穴の縁に立つと、足元には白く砕ける高い波。眼前には曇天の重い灰色の空。  夢で見た、あのように美しい空など、どこにもないのだ。もう、この世界には。  ――殺そう、あの子鬼を。そしてその白く美しい体を屠ってやろう。  雷燕はにいと笑うと、大きな黒い翼を広げた。  空を仰いでひとつ大きく羽根を伸ばすと、すうと空へ飛び出していった。

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