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四十二、蒼天の下に眠る

 千珠は翌朝、昨日術式を行った場所へとやって来ていた。見晴らしの良い丘の上に突き立った叢雲の剣の傍らに、千珠は片膝をつく。  雷燕はそこに眠っている。  美しい空と海を、一望できるこの丘の上で。  千珠は、耳飾りのなくなった左耳に触れた。そこには石を留めていた金色の金具だけが、千珠の耳たぶに残っている。千珠の身体と心を蝕むほどのの夜顔の禍々しい力は全て、紅玉が引き受けてくれた。  ――……夜顔に返すものが、なくなってしまったな……。  千珠はそう思いながら、別れ際の夜顔の顔を思い出す。  ふと、佐為の気配に気づいた千珠は、くるりと背後を振り返った。 「佐為」 「もう歩きまわっていいのかい?」  佐為は柔らかな表情を浮かべて、千珠に歩み寄った。千珠は頷いて、風に弄ばれる長い髪を押さえる。 「ああ……。こんなもん、平気だ」 「強がっちゃって。雷燕に貫かれた傷が、そんなすぐに治るわけないよ」 「……」  千珠は少しむっとした顔をしたが、何も言い返さない。佐為は笑った。 「僕が気を高めて上げようか?」 「いい。遠慮しとく」  千珠は即座にそう応えた。佐為は目をぱちぱちとさせて、苦笑した。 「そんな即答されると、傷つくな」 「……すまん」  二人は軽く笑い合い、また海を見やる。穏やかに響く波の音が心地良い。嘘のように晴れ渡った空が、眩しかった。 「何、考えているの?」 「……いや、別に。この空、見えてるかなってな」 「そっか」  佐為も黙って、海と空を見つめた。境界の曖昧な青色が、美しかった。  千珠はふと、そんな佐為の横顔を見ながら尋ねた。 「都にはいつ戻る?」 「先立って業平様は戻られるんだけど、風春様がしばらく残るから、僕も一緒に残るよ」 「そうか」 「山吹さんは、しばらく動かせないしね」 「……そうだな」 「君は早く帰りたいだろう?宇月に会いたいんじゃないの?」  千珠は、ちらっと佐為を見た。佐為の真面目な顔を見て、千珠は少し頬を染めると、もう一度きらきらと輝く水面を見やった。 「……ああ、会いたい」  佐為はにっこりと笑って、千珠の肩を叩いた。 「君はわかりやすくていいや」 「五月蝿いな」  千珠は憮然としてそう言った。 「きっと怒ってるよ、宇月は怒ると怖いから」 「……そうだよな。はぁ、また殴られる」 「はは、宇月には弱いな、君も」  佐為に促され、二人は一緒に屯所の方へと足を向けた。    ❀  屯所へ戻ると、鷹を腕に止まらせた柊が濡れ縁に座っていた。  忍の連絡用に使われている鷹だ。名を、鷹丸という。身体を覆う焦茶色の羽毛はつやつやとして、いかにも元気な若鳥である。  その脚に括りつけられた書状を見て、柊は息をついた。 「何か?」 と、佐為。 「いや、光政様も無事だと連絡が来た」  柊は振り返って笑った。千珠も安堵してため息をつく。 「はぁ、良かった」 「全く、ひやひやしましたよ、千珠さま」  柊は鷹丸を肩に止まらせて餌を与えながらそう言った。鋭いくちばしで、鷹丸は勢い良く餌をつついている。 「本当に助かったよ。柊お前、結構やるんだな」 「そらね、忍頭ですから。……でも、山吹は助けてやれへんかった」  柊はじっと目を閉じて、悔し気な顔を見せる。初めて見る柊のそんな表情に、千珠は目を見張る。 「あいつの女としての人生を、俺がふいにしてしもうたんや。もう、謝っても謝りきれん」 「柊さんだって怪我してたんだ。仕方ないよ」  佐為が慰めるようにそう言って、柊の羽織の下の晒しに目をやる。  柊は太腿と脇腹に深い傷を負っていた。血が多く流れたため、今も顔色は良くない。 「そんなこと言ってないで、今はお前が元気になれ」  千珠は柊の前に立つと、強い口調でそう言った。 「早く山吹を連れて帰ってやろう。そのためにも、俺たちが早く回復しなきゃだめだろう」 「……そうですね」  柊はふっと笑うと手を伸ばして、着流した衣から覗く千珠の腹の傷を撫でた。そこにもしっかりと晒しが巻かれて痛々しい。 「千珠さまかてぼろぼろやん。あなたが一番に元気になってくれへんと、困りますよ」 「分かってるよ」 「一週間は、ここで過ごします。千珠さまも、ちゃんと休んでおいてくださいよ。一人で勝手に遠くへ行かんように。傷の手当はちゃんと受けて、それから……」 「ああもう、五月蝿いな」  千珠はいつものように膨れ面をすると、ぷいと柊の前からいなくなった。佐為がそれを見て、声を立てて笑う。 「いつもこうなの?柊さん、まるで父親のようだね」 「……やっぱりそう見えるんか……」  柊はがっくりと肩を落として、ため息をついた。

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