263 / 340

二、来訪

 湯浴みを済ませてこざっぱりとした千珠は、平服に着替えて忍寮に戻ろうと歩いていると、ふわり、と懐かしい匂いが鼻をくすぐった。  都の匂いだ。  香や、古い木材の持つひんやりとした空気の匂い……都からの客人だろうか。  千珠は立ち止まって、上を見上げた。庭に咲いた五部咲きの桜が、千珠の頭上に枝を伸ばしている。その美しさに、千珠は少しの間立ち止まっていた。 「千珠さま」  不意に聞き覚えのある声がした。そちらを見て、千珠は目を見開いた。 「え……(えんじゅ)?」  千珠の腹違いの弟、槐がそこに立っていた。いつものような天真爛漫な笑顔ではなく、どことなく緊張した面持ちで拳を握りしめ、じっと千珠を見つめていた。  つい一年前に都で会った時よりも、少しばかり背が伸びているように感じた。顔つきも、子どもから少年へと変貌を遂げているように感じられる。 「お前……何でここに?」 「……お話があって。僕も同行させてもらいました」 「話?同行って、誰と……」 「あなたが、僕の兄だという話は、本当ですか?」  千珠の質問を遮って、槐は大きな声でそう尋ねた。今まで溜めていた思いを、ぶちまけるような言い方だった。  驚いた千珠は、言葉を呑んで槐の困惑した表情を見つめ返す。どうしてそのことを知ったのか、その経緯は気にはなったが、今はそれよりも槐の思いに答えることが先だと感じた。 「……ああ、そうだ」  風が吹いて、桜の花びらがちらほらと二人の間を流れていく。槐はその言葉を体全体で吸い込むように深呼吸すると、ぎゅっと目を閉じた。  じり、と槐が千珠に歩み寄る。  千珠はじっと槐の反応を窺っていた。槐は目線を下げたまま千珠のそばまで歩いてくると、ぎゅっと千珠の腹に抱きついた。 「本当に……そうなんだ」  槐の頭に右手を置いて、左手でその小さな肩を抱く。 「黙ってて、ごめん」 「いいえ……僕、それが本当だったら、どんなにすごいかって思ってました。だって……だって千珠さまはこの国の英雄だ。そんなあなたが、血を分けた兄弟だと」  槐は顔を上げて千珠を見上げた。そこにあるのは、きらきらとした笑顔だ。千珠はその表情を見て、安堵した。 「兄上」 「……」  槐の呼びかけに、千珠は少し赤面して微笑んだ。照れくさいが、嬉しい。そんなふうに誰かから呼びかけられることなど、初めてだったからだ。 「兄上なんですね」 「……でも、どうしてそれを?父上は、お前がもう少し大きくなるまで黙っているおつもりだったはずだが」 「それは……」  槐が説明しようとした所で、もう一人男が現れた。千珠が顔を上げると、見たことのある黒装束の男が困り顔に曖昧な笑顔を乗せて、そこに立っていた。 「ごめん……千珠。僕、君と千瑛さまがあまりに似ているから、千瑛さまにこれまでの話を聞いてしまったんだ。それをつい、うっかり槐に聞かれて……」 「さ、佐為?」  あまりに意外な人物が現れたことに、千珠は素っ頓狂な声を上げた。佐為は嬉しそうでもあり、罰が悪そうでもあり、なんとも形容しがたい表情を浮かべながら、頭をかいた。 「槐がどうしても君に会って確かめたいというし、僕もすこしばかり君に用事があったから、来てしまったよ」 「来てしまいました」  槐も千珠に抱きついたまま、そう言って笑った。 「佐為おまえ……うっかりって……」 「ごめんね、いや僕もびっくりしちゃって、大声出しちゃったから……」 「……」  千珠は呆れて何も言えず、ただ二人を見比べていた。それでも、槐のこの笑顔を見ていると、それでよかったと思えてくる。  伝えるのが遅くなればなるほど、きっと千瑛も言い難くなってしまうだろうし、千珠から伝える機会もいつになるか分からなかっただろう。  千珠はふっと笑う。 「まぁ、いいか。こういうこともあるだろ」  佐為の顔が、明るくなる。千珠は改めて槐の前に膝をついて、視線を同じくしながら頭を撫でる。 「槐、よく来たな」 「はい、兄上!」  槐も頬を染めて、満面の笑みで返事をする。  兄弟。そう名乗ることで、更に絆が深まった気がした。千珠は槐の手を握ると、城庭の中を手をつないで歩き出す。

ともだちにシェアしよう!