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十六、疑いを抱くもの
離れで過ごしていた山吹と槐は、佐為の今にも倒れそうにまで疲弊した状態を見て仰天していた。
「佐為さま!?どうしたんですか?」
と、槐はぱたぱたと佐為に駆け寄る。
「……いや、一仕事したんだ。槐、蒲団、敷いてくれないかな」
「あ、はい!」
槐は離れの中へ駆け込むと、いそいそと蒲団を敷いた。千珠はそこへ上がりこみ、佐為を横たえる。
佐為はため息をついて、ぐったりと身体を伸ばした。
「ああ、疲れた」
「佐為さま、お見事でございます」
と、佐為の脱ぎ捨てた草履を正して跪く少年を、千珠は見下ろした。
「……見ない顔だな」
若者は千珠を見上げ、もう一度丁寧に頭を下げて名乗った。
「須磨浮丸 と申します。風春さまより、立浪、緒川とともに、佐為さまの護衛にと遣わされました」
「ああ、そうそう、紹介するの忘れてた」
と、佐為がのっそりと上半身だけを起こす。
「僕がこうなってしまうもので、風春さまが気を遣ったんだな。二、三日すれば回復するのに」
「それはご苦労だな。遠かったろ」
千珠に声をかけられて、浮丸は、つと千珠を見上げた。
その目の中に、千珠ははっきりと敵意にも似た黒いゆらぎを見た。千珠は眉を寄せ、じっとその目を覗きこんでその正体を確かめようとしたが、浮丸はすぐに目を細めて笑顔を作ってしまう。
「……」
「わたくしも淳之介も若輩者ですゆえ、色々な国を見て見聞を広めよというお達しもございましたので」
「そう……か」
千珠が油断のない目付きでじっと浮丸を見つめているので、宇月は怪訝な表情を浮かべて首を傾げた。佐為もちらりと視線を巡らせたものの、肘枕をしてまた布団に横になる。
「浮丸、立浪たちは?」
「忍の方々と、各所の護符の配置に行かれましたが、そろそろお戻りになるかと」
「君は待機してたんだな。君も彼らに合流して、街中を案内してもらいに行っておいで、僕はこっちで少しのんびりさせてもらうからさ」
「はぁ、承知仕りました」
浮丸はすっと立ち上がった。小柄で華奢な身体つきだ。髪の毛は全て結い上げ、冷えた氷のような細い目や薄い眉をすっきりと出している。どことなく顔色が悪く見えるほどに色白で、病弱そうに見えた。
そんな浮丸が姿を消すと、佐為は軽くため息をついて千珠を見た。山吹が槐を連れて菓子を取りに行ったのを見ると、佐為は話し始めた。
「ごめんね、あの目付き、気になったろ」
「あ、ああ。……俺、何かしたかな」
「いいや、君じゃないんだ。陰陽師動乱のあの夜、彼は弟を夜顔に殺られている」
「えっ……」
千珠と宇月の顔が固まる。佐為は肘枕をしたまま縁側から庭を見やり、続けた。
「彼はずっと、疑問を抱えているんだよ。夜顔は千珠が倒したという話になっているが、何の跡形も残っていないというのはおかしいと。猿之助、影龍、守清をはじめ、佐々木衆の遺骸や身柄は全て回収したが、藤之助さまの身柄がないというのはどういうことかってね」
「……そうだったのか」
「当時、彼は十五。弟はたったの十だった。二人共陰陽師衆の血筋のもので、身元はしっかりとした貴族だ。幼いあの二人は、あの夜里へ帰すはずだった。しかし、我々が動くよりも早く猿之助の結界が都中を覆ったろ?だから時期を逃してね、土御門邸の中にいたというわけだ」
「……」
宇月は心配そうに、千珠の強張った横顔を見つめている。千珠はじっと畳のささくれを見つめて、腕組みをしていた。
「守清の術で結界が破られた時の爆破で、実丸 ……ああ浮丸の弟だが、彼は怯えて外に飛び出してしまった。そこへ、夜顔が現れた……」
千珠の耳の中で、あの日の喧騒や阿鼻叫喚が蘇る。敵味方、大人子供関係なく、駆り立てられるように殺戮を犯した夜顔の獣のような動きと、闇よりも暗い虚ろな目を思い出す。
「浮丸は、あの騒ぎが終わるまで、腹を食いちぎられた弟の遺骸を抱きしめて離さなかったそうだ。屋敷の縁の下で、放心した状態でね」
「……」
痛ましい風景だったろう。千珠は顔を歪めて、うつむいた。
「しばらく浮丸は里に帰していたんだが、後処理が落ち着いてから、業平様が家族への謝罪に訪れた際、浮丸も共に土御門邸へ戻ると言ってね。僕もそこに同行していたんだが、あの時の浮丸の顔は忘れられない」
佐為は目を閉じて、小さくため息をつく。
「……無邪気な子どもった浮丸は、もうどこにもいなかった。疑心暗鬼と、悲しみ、弟の手を離してしまった自分への罪悪感……そういった感情が浮丸を大人びた顔にしていたな。僕ら上役たちが真実を隠しているのではと疑う、暗い目をしていた。目には光がないのに、ぎらぎらと何か別のものが光っているような目だ。……ぞっとしたよ」
「……なんということ」
と、宇月が苦しげに呟く。
「夜顔に殺られた他の三名の家族にも謝罪に行ったが、幸い、任務中の事故ならば仕方がないという理解をもらえた。……浮丸だけが、今でもこの一件を疑い続けている。ある意味聡い子だよ」
「……そっか。そんな子どもがいたのか」
千珠は顔を上げて佐為を見ると、逆に尋ねた。
「そんな浮丸を、お前はどうしようと思ってるんだ?」
「別に。これといって何もしない。何も教えないし」
あっさりとそんなことを言った佐為を、千珠と宇月は拍子抜けした顔で見つめた。佐為はごろりと仰向けになり、天井を見あげた。
「夜顔の一件について知っているのは、僕と業平様、千瑛殿、光政殿……あとはまぁ千珠、舜海、忍のお二人、そして宇月」
「そうだけど……」
「わざわざ浮丸にこのことを伝えようなんていう大人はいないだろ」
「じゃあ、ずっと疑い続けながら陰陽師衆にいるってことか」
「そうなるけどね。彼は今十七、まだまだ年も若く先も長い。こちらとしても陰陽師衆からつまみ出しておかしな風評を立てられるよりも、近くにいて見張れる方がいい。それに彼は優秀だ、いい術者になれる」
「そうか……」
「まぁ、千珠がそんな顔しなくていいんじゃない?別に君が殺したわけじゃないんだよ?」
「いや、まぁ、そうなんだけど……」
「どのみち、あれは猿之助の下についていた時に夜顔が犯した罪。君には関係ないさ。それに仮に夜顔が粛清されていたとしても、それで浮丸の気持ちが収まっていたかどうかも分からないしね」
「……でも、敵が死んでいるのと生きているのとでは、だいぶ心持ちが違うんじゃないか?」
「死んだと思っているのなら、生きていても一緒だろ。夜顔も藤之助さまも、もう一生都に近づくことはないんだから」
「お前ほどすっぱり割り切って考えられたら、楽でいいかもな」
と、千珠は疲れたように息を吐きながらそう言うと、佐為はふっと自嘲気味に笑った。
「千珠は優しすぎるんだ」
佐為の含みのある笑みに、千珠はやや険しい表情を浮かべる。宇月は二人を見比べて、困ったような顔をした。
「浮丸のことは、陰陽師衆でのいざこざが原因なんだ。僕らで片を付けるさ。いざとなったら忘却術をかけて除籍するまで」
「……それが適当な措置か」
「本当は今すぐにそうしたっていいんだ。だが彼もそれなりに力を持っている。記憶を取り戻されたらそれこそ厄介だ。だから陰陽師衆の中で見張るのさ」
千珠を上目遣いに見上げて、佐為は諭すようにこう言った。
「それよりも君がまず考えなければいけないのは、君を狙った呪詛のことだろう。心当たりはないのか?君がやられるなんてよっぽどだし、ここにも宇月の張った結界があったろ」
「私が張っていたのは、防魔結界術ですので、人の為したことまでは跳ね返せないのでござんすよ」
と、宇月。
「今日、佐為が張った不知火であれば、それも防げるのでござんすよね?」
「跳ね返せるのは外からの攻撃だけだ。その術者が霊気を押さえてこの国に入り、この国の中から千珠を狙った場合、何も意味を成さない」
「……そっか」
と、千珠は難しい顔をする。
「まぁ、君は今夜は人間の姿だろう?鬼封じの呪いはきかないさ。しばらく見廻りは忍のお方たちに任せて、君は城の中で過ごすのがいい。舜海と宇月、そして僕らが術者を探して殺してやるよ」
「殺す、か」
千珠はぴくりと美しい眉を揺らして佐為を見下ろした。
「……久しくそんな言葉を聞かなかった」
「いいことだよ。でも都では、今でも暗殺や粛清は多く行われている。別に何をしたというわけでもない人間が、政治的な目的で殺されるんだ」
佐為は目を閉じて、尚も薄笑みを唇に乗せたまま続けた。
「そこに妖が利用され、その妖を使役することのできる祓い人が重宝される。そんな祓い人と式を始末するのが僕らの仕事ってわけだ」
「……お前は今も、人を殺め続けているんだな……」
千珠の重い声とは相反して、佐為はにっこりと邪気もなく笑った。宇月が目を伏せる。
「そうさ。それが僕の仕事だから。こればかりは今も昔も変わらないな。おかげでもう、何も感じないよ」
「……それがお前の仕事、か」
「そう、率先して僕がやる仕事。恨みなんて慣れっこだ。だから浮丸のことも、いざとなったら僕が殺す」
「佐為、そこまで言わなくても……」
たまりかねたように顔を上げた宇月を、佐為はまた微笑みながら見あげた。その笑みには、何の陰りもなかった。
「宇月は知ってるだろ。僕は変わらないよ、今も昔も。これでいいんだ、汚れていたいんだよ、僕は」
「……佐為」
「そんな顔しないで、千珠。君が苦しむことじゃないだろ?……しかしいっぱい喋って疲れたな。僕はもう……寝るね……」
そう言いながら、佐為はすでにすうすうと寝息を立て始めていた。
宇月はそっとそんな佐為の上に掛け布団を載せてやりながら、なんとも言えない悲しげな表情を浮かべている。
それを見ていた千珠も、心が冷えて寂しくなるような思いを抱えたまま、そっと佐為から目をそらした。
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