278 / 340

十七、浮丸の澱み

 須磨浮丸は、初めて目の当たりにした千珠という白い鬼の姿に、思わず見惚れていた。  昨晩は暗かった上に、浮丸は外に見張りとして立っていたため、千珠の姿を見ることはできなかった。しかし、今日何事もなかったかのような涼しげな顔で陽の下にいる千珠を目の当たりにした瞬間、ぞくぞくと血が騒いだ。  それが、伝説的な強さを持つという青葉の鬼への畏怖の念か、それとも憎しみの念か……浮丸には区別がつかなかった。  それ以上に、千珠のあの輝かんばかりの美しさから、視線が外せなかった。あんなにも美しい容姿をしている男がこの世にいるとは。  いや、千珠は妖だ。人間ではない。  浮丸は自分に言い聞かせる。  あいつは、同族だからといって、夜顔を世に放ったのだ。あの危険な獣を、佐々木藤之助とともに。  本来ならば、夜顔もそれを利用した佐々木藤之助も、陰陽師衆の中で裁かれるべきだったにも関わらず、何の咎めもなしに逃したのだ。  たくさんの人間を、殺めたのに。  仲間を、弟を、無残にも食い殺した邪悪な妖なのに……。  あんなにも美しく、涼しげな顔をして人の世にいる千珠のことが、憎らしくて仕方がなかった。浮丸は、厩の前で立ち止まり、ぎゅっと奥歯を噛み締めてうつむいた。  ふと、自分にこの情報をもたらした、能登の祓い人たちの顔が浮かぶ。  自分の顔も、彼らにどんどん近づいていっている気がしてならなかった。青白い肌、攻撃的で淀んだ瞳、憎しみを道具のように使う卑しい奴らだというのに。  そう思いつつも、自分もひょっとしたすでにそうなっているのかもしれないと、浮丸ははたと我に返る。  最近は、この繰り返しだ。  憎しみと猜疑心で濁った心と、陰陽師衆としての誇りを保ちたいと願う心の間で、浮丸は常に揺れていた。 「おい、お前誰や」  ぬ、と大きな影が足下に伸びる。浮丸は、仰天してばっとそこから飛び退ると、その影の主を見上げた。  大柄な黒い法衣姿の男が、仏頂面で浮丸を見下ろしていた。法衣を纏っているにもかかわらず大小を差し、堂々たる居住まいからは鍛錬された隙のない霊気が漂う。ぼさぼさの黒髪の下から、凛々しく整った鋭い目がじっと浮丸を見下ろしている。 「あ……、私は。佐為さまの護衛としてこちらに遣わされました、須磨浮丸と申します」  慌てて名を名乗ると、男はすっと目を細めて腕組みをする。 「陰陽師か。物騒な面してるから、てっきりいかがわしい奴かと思ったが」 「いいえ……、あの、私はれっきとした陰陽師土御門衆の一人です。立浪さまに確認をしていただければ……」 「立浪なら知っとる。あいつはどこにいんねん」 「朝方の結界術の護符の設置から、もう戻られると……」 「ふうん」  尚もじろじろと浮丸を胡散臭げに観察する男の目は、少しばかり眩しいほどにまっすぐだった。歪み、曇った心を持て余している浮丸では、真向から受け止められないような強い目線だ。 「おいおい、舜海、うちの若いのをいじめないでくれよ」  立浪が、緒川淳之介とともに馬を引いて戻ってきた。その後ろには、共に国を案内していたのだろう、竜胆がついている。 「おお、立浪。昨日は騒がせて悪かったな」  舜海と呼ばれた男は、立浪を見て破顔した。立浪も明るい笑顔を浮かべて舜海に近づくと、がっしりと握手を交わしている。 「なぁに。千珠さまのお役に立てるなら何でもするで。なぁ、淳之介」 「は、はい」  淳之介は慌ててそう返事をすると、ぴんと背筋を伸ばした。緊張しているのだろう、瞬きが多く、かすかに手が震えている。 「おお、昨日の子やな。世話んなったな」 「いいえ、そんな……」 「時に、こっちの若いのも立浪のお連れさんか?」 と、舜海は改めて浮丸を見おろす。立浪は笑って頷くと、 「そうやで、この二人は同い年でな。まだ十七や。色々教えたってくれ」 「そっか、そらすまんかったな」  舜海はようやく浮丸に気を許したのか、からりと気持ちよく笑った。 「不穏な気を感じてな。勘違いやったな」  そんな舜海の言葉に、浮丸はぎくりとした。それを顔には出さないように、必死で笑顔を作って首を振る。 「いいえ……。ちょっと昨晩眠れなかったもので……」 「そっか。長旅やったのに寝不足か。今夜はゆっくり休んでくれよ」 「ありがとうございます」  ぺこりと頭を下げた浮丸から、舜海は次に淳之介の方を向いた。 「淳之介、いうたか?おもろい力持ってんねんな」 「は、はい……」  消え入りそうな小さな声で、淳之介は返事をした。 「色々その力について話を聞きたい。俺、今晩は朝まで見張りやねん、付き合え」 「あ、はい……分かりました」 「なんやなんや舜海、淳之介だけ連れ出すんか?手ぇ出すなよ」 と、立浪がくいくいと舜海の脇腹を肘で突き回す。舜海は迷惑そうな顔をして、「なんでやねん」と立浪を軽く睨んだ。 「お前は歳やから疲れてるやろ。その浮丸って子も、寝れてへんねやし一緒にいたれ」 「歳とか言うな、大してお前と変わらへんわ」 と、立浪はふんと鼻を鳴らした。 「淳之介もなかなかに可愛い顔してるからな、もうすぐ坊主になるお前が欲求不満やったら危険やなと思っただけや」  にやにやしながらそんな事を言う立浪を見上げて、淳之介は青くなった。舜海はやれやれとため息をつく。 「んなわけあるか。女には飢えてへん。それに、俺は男に興味ないって何回言ったら分かんねん」 「だって千珠さまとお前、絶対何かあるに決まってるわ。見てたら分かんねんで」 と、尚も立浪はにやついた顔で舜海をつつくので、舜海はついにこめかみに青筋を浮かべた。 「だから何もないって言ってるやろ!しつこいぞ!」 「もうええやん、教えてぇな」 「ああ五月蝿い。まあいいや、淳之介、夜は忍寮の方へ来い。ええか」 「あ、は、はい……」  淳之介はたどたどしく返事をして頷き、そして何も言わず成り行きを見守っている浮丸の方をちらりと見た。浮丸はそのやり取りにはまるで関心がなさそうな表情を浮かべていたが、淳之介が振り返ったことに気づくと、はっとしたように瞬きをする。 「……浮丸、寝てへんの?」 「ああ、ちょっとな」 「そっか」 「まぁ、今夜はしっかり舜海様のお役に立ってこいや」 「うん……」 「しゃんとせぇよ、情けない顔すんな」 「ごめん……」  立浪をやり過ごしながら、舜海はそんな二人のやり取りを目の端で見ていた。  淳之介に対する浮丸の態度は、同じ年というにはあまりにも上下関係がくっきりと目に見えて、尊大だった。  舜海はしつこい立浪を振り払いつつ、注意深く二人の姿を窺っていた。

ともだちにシェアしよう!