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三十五、浮丸の命

 浮丸は仕置部屋で手首を枷に繋がれたまま、ぐったりとうなだれていた。  何も考えられなかった。今ここで自分が何をしているのかも 分からなかった。  分かっているのは、あの祓い人水無瀬楓真に唆されて引き起こした自分の悪事が、佐為に全て露呈したということである。  佐為による忘却術が施されたのであろうということは分かっていた。この青葉の国へ来てからの記憶だけが、ぽっかりと抜け落ちているからだ。  ここに繋がれているという事実だけで、自分の行く末はすでに分かっていた。  粛清。  自分を待つのは死、のみだろう。  佐為は陰陽師衆棟梁、藤原業平の隠し刀だ。容赦のない仕打ちで、業平以上に陰ながら恐れられているということはよく知っている。  都に帰るまでに、きっと自分は殺される。  きっと……。  かたん、と物音がして仕置部屋の小さな扉が開き、誰が現れるのかと思って緊張していると、そこに現れたのは千珠であった。 「あ……あ」  浮丸は一度千珠と顔を合わせているが、今の彼はそれを覚えていない。  初めて目の当たりにする美しき白い鬼が、自分を見下ろしてそこに立っていることが、信じられなかった。他でもない、この人を狙った今回の企み……でもこうして怪我一つなくここにいるということは、その企みは失敗に終わったということである。浮丸は心底、安堵した。  千珠はじっと黙ったまま、美しい琥珀色の瞳で浮丸を観察しているようだった。ただただその美しい姿から目が離せず、浮丸はじっと千珠を見上げていた。 「……須磨、浮丸だな」 「はい……」  あまり低くない、春風のような穏やかな声がする。浮丸は慌てて平伏すと、じっと千珠の裸足のつま先を見ていた。 「弟を失ったそうだな」 「はい……あの、わたくしはこの度、本当に申し訳ないことを……」 「いい、いい。謝らなくていい」 「え……?しかし」 「そうしなければ収まらない……突き動かされる思いというものからは、逃れられないものだ」 「え……」  懐手をして浮丸を見下ろしている千珠を、改めて見上げる。驚くことに、そこには笑みを浮かべた顔があった。 「弟を幼くして失ったんだ。誰かを恨まねば生きてゆけぬという気持ち、分からなくもない。そこであんな奴らに出くわしてしまったのがお前の不幸だったな」 「……は、はい」 「まぁ、こうして俺はぴんぴんしてるし、今回のことは戒めとして俺の中でも大きな収穫があった。だからお前もここで死ぬことはない」 「え……?」 「都へ帰り、それ相応の罰を受けるがいい。そして、次は道を誤ることなく、その力を振るうんだ」 「は……あなたは、どうしてそんなことを……」 「人が死ぬのを、もう見たくないんだ。知っての通り、俺はたくさんの人間を殺めた。幸い今は、俺はそんなことをせずともよい暮らしを得たが、佐為は今も、その修羅の世界にいる」 「……はい」 「あいつは俺の大切な友人の一人だ。あいつの手も、出来ればあまり汚れて欲しくはない。だから、お前の命は俺が預かることにした」 「ど、どういう意味ですか……?」 「佐為と話をした。お前は俺を狙ったんだ。でも狙われた当の俺は、別にそれを怒っているわけではない。かといって許すわけにもいかないが」 「……はぁ」  千珠は膝を折って浮丸と目線の高さを合わせる。間近に寄った千珠の神々しいまでに美しい顔に、浮丸は思わず赤面した。 「お前の行いは、今後俺に逐一知らされる。お前が良からぬことをした時、俺はその時こそお前の命をもらう。それまでは生きて罰を受け、陰陽師衆のためにやれることをやれ」 「千珠さま、そんな……わたくしに情けをかけるなど……」 「お前に情けをかけているのではない。佐為のことを思って言ってるんだ。だからお前は、別に俺に恩義を感じる必要もない」 「……なんと」  浮丸の目から、ぽろりと涙がこぼれた。  失いかけた生がこの身に戻り、安堵したということもあるが、それ以上にこの千珠の心遣いが分かった。そして佐為を大切に思っている千珠の想いも、伝わってくるものがあった。  佐為は恐ろしいだけの人間ではないのだ。きっと。こんな風に心を砕いてくれる誰かが、ここにいるのだから。 「ま、拷問のひとつやふたつは、甘んじて受けることだな。俺もそれなりに痛い思いしたんだから」 「すみませぬ……本当に、申し訳ありませぬ」  再び平伏した浮丸を見て、千珠は笑った。それは気持ちのいい、何にも頓着していないからりとした笑い声だった。 「なぁに、あれくらい屁でもない。俺はこの国で最強の男なんだ。お前らの企てなど、蚊を追い払うようなもんだ」 「……さすがでございます。千珠さま」 「とっとと都へ帰れ。そして二度と祓い人共が青葉や都に近づかぬよう、よい政策でも考えろ」 「は、はい!」 「じゃあな、達者で暮らせ」  そう言うと、千珠は立ち上がって行ってしまった。  浮丸はぽかんとしてへたり込んだまま、今まで千珠が立っていたあたりをじっと見つめていた。  今まで淀んでいた仕置部屋の空気が、瞬時に浄化されてきらきらと輝いているように見え、さらに自分の心を占めていた黒くどろりとした絶望や恐怖が、一切消えていることに気づく。  残っているのは、感謝と罪悪感、そして後悔のみ……。これらを抱えて都へ帰り、この先の生を生きるのだ。  妖鬼でありながら、あの美しさ。神々しさ。  そしてその優しさ。  千珠があれだけ国で大切にされる理由が、浮丸にははっきりと分かった。  彼はこの国の御旗なのだ。その御旗を守りゆくのも、陰陽師衆のなすべきことのひとつだ。  浮丸は誰もいなくなった仕置部屋の中で、もう一度深々と頭を下げた。  ふわりとした千珠の笑顔が、もう一度花開いたように感じた。

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