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十一、身に覚えのある恐怖
水国と夜顔は、青葉の国境を超えた。
ぱり、と何かを弾くような感覚が夜顔を襲ったが、それはごくごく微かなもの。それ以上に、初めて訪れる青葉国がすぐ目の前だということに、逸る気持ちを押さえられないでいた。
「ここが青葉……千珠さまがいるところ……」
山を超え、開けた場所に出る。足元に広がる町並みと、山の上にそびえる三津國城を見て、夜顔を顔を輝かせた。大きな城など、生まれて始めて見た。眼前に広がる美しい風景に、胸が踊る。
「夜顔、このまま城まで行こう」
「うん!」
「うん!ではない」
「あ、はい!」
夜顔は笑って、水国の馬の手綱を引きながら、早足に進んだ。もうすぐ、千珠に会える……頭をめぐるのは、そんな思考ばかりだった。
しかし、峠を超えて町へ入ろうとした所で、二人の前に立ちはだかる栗毛の馬が現れた。
驚いた水国の馬が、嘶く。
馬上から二人を見下ろす焦茶色の瞳は、じっと二人を観察するような冷ややかな色をしていた。
上等な布地と高貴な紋の入った衣を見て、水国ははっとした。
――これは、神祇省の役人だ。一体何故、こんな所に……。
夜顔と藤之助のことを知り及ぶ者なのだろうか……と、水国は緊張した。
夜顔も少し険しい顔で、その青年を見上げている。夜顔の漆黒の瞳が、その青年の焦茶色の瞳と真っ向からぶつかった。
ふと、記憶の琴線をかき鳴らすような感覚があった。夜顔は左手で、頭を軽く押さえる。
――何だろう……この人、どこかで、会った……?
槐も、どことなく違和感を覚えていた。
この黒髪の少年、なんだかとてつもなく嫌な感じがする。……それにこの気は何だ?妖気の微かに入りじ混じった強力な霊気。こんなものを身に潜ませるような輩は、絶対に只者ではない。
「お前たち、どこへ行くつもりだ」
槐は、威圧的に聞こえるように低い声でそう尋ねた。夜顔は、その声にびくっと身体を強張らせる。
「此処より先は青葉の国の領域だ。何用でここへ来た」
「……我らは、南の方よりここへ参りました。医術を学ぶ者であります」
と、水国が答えると、槐はじっと水国を見下ろす。
「医術?それならば都へ参られるのが良かろう。なにゆえ、ここへ立ち寄ったのかと聞いている」
「ぼ、僕……」
「夜、話すな」
夜顔が口を開きかけたのを、水国は遮った。槐は眉を寄せ、きつい表情でじっと夜顔を見据えている。
「あなたは、神祇省の方ですな。なぜここに?」
と、水国は逆に問うた。槐は夜顔を見据えながら、ちらりと水国にも視線をやると、「お前たちには関係なかろう」と短く答えた。
夜顔は怯えた表情を浮かべつつも、槐の強い眼差しを何とか見返していた。槐は馬から降りて、更に近くで夜顔の目を覗きこむ。少し高い位置にある槐の冷たい目線からは、憎しみにも似た鋭い敵愾心が感じられ、見が竦んだ。
「な、なんですか?」
「……お前、歳は?」
「……十七です」
「名は?」
「結城……夜顔……と申します」
「ふうん……」
槐はさっと刀を抜いて、ぴたりと夜顔の鼻先に向けた。
夜顔の顔色が変わり、さっとその表情も険しくなる。素早く手綱から手を離して、ひらりと後ろに飛び退る夜顔の軽い身のこなしに、槐は目を見開いた。
――こいつ……かなりできるな。こんな怯えた顔をしていたくせに、刃を見た途端、眼の色が変わった。
「お前、何者だ」
槐は鋒を向けたまま、夜顔の黒い瞳を見据えたままそう尋ねた。夜顔は油断なく槐を窺っていたが、腰の刀には手をかけなかった。水国と約束していたからだ。安々と刃は抜くなと。
「……何故黙っている。お前、人ではないな?」
「……お役人、この子は……!」
水国が慌てて馬を降り、二人の間に割って入ろうとした。
「動くな!」
槐の鋭い声が響き、水国はぴたりと足を止める。目線だけで水国を牽制すると、槐は再び夜顔をじっと睨みつける。
「……言えぬのか。貴様」
夜顔はぐっと唇を噛んだ。冷や汗が流れる。
その時、ふわりと涼やかな風が、二人の間に舞い降りた。
とん、という軽い足音。
睨み合う二人の間に、千珠が割って入ったのだった。
千珠は黑い忍装束姿で、頭巾を巻いて顔と髪を隠していた。槐に向きあってその場に立った千珠は、自分に向いている鋒を手で握りこむと、すいとそれを降ろした。
「簡単に刃を抜くな、槐」
「……あ、兄……千珠さま。しかし……」
「どうした、槐。怯えているのか?気が乱れているぞ」
「えっ……」
――怯えた?私が?
槐はすっと刀を収めてみてようやく、自分がえらく汗をかいていることに気付いた。
千珠の形のいい目が、憐れむように自分を見つめている事に気づき、槐は罰が悪くなって俯いた。こんな姿を、兄上に見られてしまうなんて……と、恥じ入ってしまう。
千珠は、くるりと後ろを振り返って、夜顔と水国を見比べた。
「旅の方、すまなかったな。しかし、少し様子を改めさせてもらいたい」
ふと、千珠の目が、黒髪の少年に留まる。
じっと不安げに自分を見ているその漆黒の瞳には、確かに見覚えがあった。そして、その姿形にも。
「お前、名を……何というと?」
千珠は改めて、その少年に問うた。少年は、びくっと肩を揺らして、小さな声で答えた。
「ゆ、結城夜顔、と申します……」
「結城、夜顔……。そうか」
千珠は大きく息を吐いた。そして、頭に巻いていた頭巾を、ゆっくりと外して顔を晒す。
「あ、あなたは」
水国が、その華やかな容姿を見て、目を見開いた。夜顔も、はっとしたように表情を変え、千珠を穴が空くほどに見つめた。
「あなたが、せ、千珠、さま……なの?」
「そうだ。よく来たな、夜顔」
しっかりと結び合う、二人の視線。夜顔の目からは、ぽろりと大粒の涙が溢れた。
そんな様子を、千珠の背後から見ていた槐は、険しい顔でじっと二人を見比べている。
――なんだ、何だこの気持は……。
槐は、もやもやと正体の分からない不安を胸に感じながら、ごくりと唾を飲み込んだ。
千珠の手が、その黒髪の少年の頭の上に置かれるのを見て、苛立ちを募らせながら。
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