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十二、青葉の寺

 夕暮れ時、舜海は城で開かれると宴へと出かけるべく、身支度を整えていた。舜海の背後に立ち、その着替えを手伝っているのは山吹だ。  黒い法衣を脱いで平服に着替え終わると、舜海はぎゅっと帯を締めて山吹を振り返る。 「お前は来ぃひんのか?佐為も槐も久しぶりやろ?槐は小さい頃都で遊んでやってた仲やん」 「……明日改めてご挨拶に伺います。宴は私は好きではありませんから」  相変わらず表情が少なく、淡々とした口調の山吹はそう言って、舜海の脱いだ衣を丁寧に畳んでいる。 「まぁ、それもそうやな」  山吹の大人しさをよく知っている舜海は、そう言って苦笑した。  山吹は、日常生活において支障はないものの、能登での戦いで負った傷が理由に、忍衆を抜けている。寒い時期などは傷が痛み、舜海の手当を毎日受けねば自由に動けぬほどの身体であった。内腑への傷は深く跡を残していたために、子どもを成すことはもう出来ない。今はこうして舜海と共に暮らしてはいるが、二人は夫婦ではない。  はじめのうち、山吹は自分のそばにいようとする舜海を激しく拒絶していた。  情けで側に居てもらう必要はない、自分を馬鹿にしているのか、と。  しかしそのたび舜海は、困ったように笑った。   ――お前に興味が湧いたんやから、しゃあないやろ。出家をするつもりなら、いずれ青葉の寺を継ぐ俺の側におって欲しい。もう、殺生はしない。これからは佛の元で、今まで殺めた命を供養して生きていくと決めたのだ……。  と、舜海は言った。  山吹は、その申し出を飲んだわけではなかった。  しかし、忍衆を抜けたところで行く宛もない。ずっとずっと血なまぐさい世界で生きてきた山吹が、普通の女として俗世で暮らしていくには、彼女は当たり前の生活を知らなさすぎる。 ――では、次の行き先が決まるまで。  山吹はそういう条件を舜海に突きつけた。舜海は笑った。   ――ああ、それでええ。そうしよう。    こうして、二人は共に青葉の寺を支えながら、共に暮らしてきた。  周りから見れば、二人は夫婦意外の何者でもなかったが、二人の約束はそういう形のものなのだ。 「明日お前が行くなら俺も付いて行くかな」  舜海は板張りの廊下を裸足で歩きながら、横を歩く山吹を見た。山吹はちょっと顔を上げて、「いいわ。うっとおしいから」と言った。 「うっとおしいとはなんや、うっとおしいとは。決めた、俺も付いて行くぞ」 「……」  青筋を立てながら、むきになってそう言い返す舜海を見て、山吹はちょっと笑った。そんな山吹の笑みを見て、舜海も人知れず微笑む。  舜海が草履を履こうと縁側に座り込んだとき、寺にすいと誰かが入ってくるのが見えた。  二人が顔を上げると、そこには千珠が立っていた。  夕日とはいえ、まだまだじりじりと肌を焼く橙色の光に照らされて、千珠は少し困ったような顔をしてそこに佇んでいる。 「千珠、何やってんねん。今からそっちに行こうと思ってたとこや」 「……あのさ」 「ん?どうした、変な顔して」  千珠は身を斜めに引いて、背後に立っている誰かを、前に出てくるよう促した。  すると、おずおずと、千珠の後ろから黒髪の少年が顔を出す。 「ん?誰やそれ」  舜海は立ち上がって、その二人に歩み寄った。  夜顔は、突如出てきた大柄な男に萎縮するように、さっとまた千珠の背に隠れてしまった。千珠の背後を覗きこむようにして、舜海がその少年を見る。 「ん、この気は……」  少年が、目を上げて上目遣いに舜海を見る。少し怯えたような表情と、どこかで嗅いだことのある妖気の匂いに、舜海は目を見開いて息を呑んだ。 「お前……夜顔、か?」 「……はい。あなたは?」  小さな声でそう言う夜顔の問には答えず、舜海は少し身を引いて千珠を見た。千珠もじっと舜海を見ていた。そして二人は、微かに頷き合う。 「ようここまで来たな」 「そうだろう。詳しい話はまだなんだ。ここで話をしたい」 「まぁ、城には行きにくいわな」 「間の悪いことに……今槐が城に滞在しているだろう?」 「あぁ、せやな。あいつの様子は?」 「覚えてはいないらしい。だが、本能的に何か感じているらしくてな、いきなり夜顔に刃を向けた」 「……成る程」  槐は、夜顔に殺されかけた経験がある。  東本願寺での殺戮の夜、槐は濃い霧に迷って偶然その場に居合わせた。土煙の向こうから、夜顔に狙いを定められた槐は、その牙が及ぶすんでのところで千珠に助けられたのだった。  その記憶が身体に残っているのか、槐はすぐに夜顔を警戒した。そして、彼は夜顔を敵とみなし、迷わず剣を向けたのだ。  夜顔はじっと二人を見上げていた。そんな視線に気づいた千珠は、微笑んで夜顔の背に手を添えた。 「疲れたろう?中へ入ろう」 「おいお前、一人で来たんか?」  夜顔は舜海のぶっきらぼうな問いかけにびくっと肩を揺らした。千珠は肘で舜海の脇腹を思い切り突いた。 「ほごぉ……っ!!てめ……っ」 「大声を出すな。もっと普通に喋れ。……この子の医術の師匠という男が同行していたが、書状だけ託して先へ急いだんだ。都へ護符を貰いに行くと」 「都……そらますます連れていけへんわな」  舜海はまじまじと夜顔を見た。  あの表情のない、能面のような顔をしていた子ども。それが今は、すらりと背が伸び、艶やかな黒髪と黒曜石のようなきらめく瞳をした、見目のいい少年に育っている。  残忍に人を切り裂いていたあの頃の禍々しさはどこにもなく、見たことのない大人に怯えて瞳を揺らしているその姿は、小動物のようだ。  背丈や顔立ちの割に、その表情は幼く見えた。先程から二人の小声の会話にも何も口を挟んでこない。 「名前、言えるようになったんか?」  舜海は努めて優しく話しかけようと、少し穏やかにそう訊いた。夜顔は、ようやく千珠の後ろから出てくると、ぺこりと一礼して舜海を見た。 「結城夜顔、と申します」 「へえ。そうか」  はっきりとした声でそう答えた夜顔を見て、舜海は笑った。そして、わしわしと短く切った柔らかいくせ毛を撫でる。 「よう来たな。ここでゆっくりしていけ」 「……はい。ありがとうございます」  夜顔は戸惑ったような顔でそう答えた。千珠も微笑む。 「山吹、ちょっと世話になるぞ」  千珠にそう言われ、山吹は頷いた。  彼女が忍装束を脱いでから、数年が経つ。明るい色の衣を身に纏うようになった山吹は、ぐっと女らしくなったように見えた。舜海がそばにいるという安心感や、幸福感か。千珠の目から見ると、無表情だった山吹もずいぶん顔が動くようになったと感じていた。 「どうぞ。すぐに食事を」 「ああ。すまんな」 「まぁ、俺は城へ行ってくる。夜顔は今夜はここに泊まるな?」 と、舜海。 「そうさせてもらえると有りがたい。俺もここにいようと思う」 「まぁ、好きにしたらええ。まぁ、夜顔。また後でな」 「はい……」 「山吹、頼んだで」 「はい」  山吹は縁側に膝をつくと、千珠と夜顔を迎え入れた。夜顔は、山吹を見てぺこりとまた頭を下げる。 「お邪魔します……」 「どうぞ」  珍しくうっすら笑みを浮かべて客人をもてなしている山吹に、千珠は物珍しげに声をかける。 「ちょっと愛想がよくなったんじゃないか?」 「お客様ですから」 と、山吹は素っ気なくそう言った。

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