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はじまりのふたり

 月が満ちる晩、千珠は人の姿となってしまう。  もう幾年(いくとせ)も繰り返されてきたその身の変化には、ほとほと苦労させられた。  白珞(はくらく)族の里にいた頃から、誰にも明かさず、たったひとりで不安な夜を過ごしてきた。漆黒の夜空にぽっかりと浮かぶ白い月を、恨めしく見上げながら。  だが、大戦を経て青葉の国にいつくようになってからこっち、満月の夜をひとりで過ごすことはなくなった。  腰までを覆う髪が黒く染まることを、忌まわしく思っていた。指先から鉤爪が消え、いかにもひ弱げな、ただただ細いだけの指になってしまうことを、心もとなく思っていた。  全身にみなぎる妖気が失せてしまえば、身を守るものすべてを喪ってしまったかのように感じて恐ろしくなった。心細くて、不安で、早く夜が明けることを祈るばかりだったというのに。  舜海の骨ばった長い指に絡まる己の黒髪を見つめながら、千珠は心地よいまどろみのなかにいる。  裸の肩にかぶさる黒い法衣からは、微かな香のかおりとともに、この世でもっとも千珠を落ち着かせる匂いがした。  千珠はひそやかに鼻をひくつかせて、舜海の匂いを吸いこんだ。そして小さく身じろぎをし、逞しい腕枕にそっと頬を寄せる。 「ん? 起きてたんか」 「うん……」  舜海の低い声が、包み込まれた背中から直に伝わってくる。  千珠はもぞもぞと身体の向きを変え、舜海の顔を間近で見上げた。  ぼさぼさと乱れがちな黒髪の下には、思いのほか凛々しく整った顔がある。眼力の強いはっきりとした双眸と、鼻梁の通った顔立ちには野生味を感じさせるが、舜海はいたって鷹揚な男だ。  だが、舜海には負けず嫌いで喧嘩っ早い面もあり、千珠とはしばしば本気の打ち合いをすることもある。  鬼の姿でいるとき、千珠の口調は高慢ちきで居丈高になりがちだ。つまらないことで言い合いになると、舜海は容易く煽られてしまうのである。  とはいえ、千珠は鬼。  舜海は法師であるとはいえ、人だ。  千珠が本気を出せば、舜海の命を奪うことなどたやすい。それでも、そうしてふたりが小競り合いを繰り広げられるのも、先の大戦で培われた信頼関係があってこそである。  千珠は唯一、舜海の前でだけ人の姿を晒すことができる。  からっぽになった肉体に伝わる舜海の霊力は心地が良かった。そばにいるだけで、大きなものに守られているように感じることができるからだ。  満月の晩、妖力を失う千珠を護衛するという名目で、舜海とふたりきりで過ごすようになった。ここは、町から離れたひと気のない廃寺だ。  舜海は、いいようのない心許なさのすべてを、きれいに拭い去ってくれた。舜海のそばにいると、満月を恐ろしいと思わなくなった。  それどころか、満月を美しいと思えるようになり——……さらには、その日を待ち侘びるようにさえなっていた。  目の前にある唇が微かに笑みのかたちになり、そのままそっと、千珠の額に優しく触れた。 「疲れたやろ。お前、この姿やと体力までなくなるもんな」 「わかってるなら手加減しろ。お前はねちねちとしつこいんだ」 「……ったく、起きたそばから口の悪い。お前が泣いて喜ぶから、こっちもついつい頑張ってまうねんで?」 「よ、喜んでない」  千珠はぶっきらぼうにそう言って俯いた。  舜海の愛撫に理性を奪われ、思い出したくもないような恥ずかしい台詞を口にした覚えがあるからこそ、まともに舜海の顔を見ることができない。  人の姿でいるとき、舜海は千珠にひどく優しい。  力の失われたか弱い身体を優しく愛撫し、柔らかな口付けで千珠を甘く溶かしていく。  口うつしで注がれる豊かな霊力に安堵をもらい、慈しまれるように肌を撫でられるたび、震えるほどの甘い快楽が千珠を包む。  非力な人の姿でいるときだけは、つまらない矜持や意地をすべて忘れることができた。か弱きものとして、素直に舜海に甘えることができるのだ。  だから昨晩も、ここへくるなり千珠を強く抱きしめる舜海の背に、素直に腕を回すことができた。自ら、くちづけをねだることもできた。  千珠の求め以上の快楽を与えてくれる舜海の唇に、舌に、指先に翻弄された。  じゅうぶんに熟れた小さな窄まりに突き立てられる熱い屹立に、幾度も幾度もよがり狂わされ、腹の奥で弾ける舜海の欲に酔いしれた。  ふと我に返ったとき、己の痴態に羞恥を煽られずにはいられない。  そのせいで、つんけんした口調になってしまった。  すると舜海は小さくため息をつき、やや気まずげにこう言った。 「なぁ、千珠。満月やからって、無理に俺に抱かれる必要ないんやで?」 「……えっ?」  意味がわからなくて、千珠はひたと舜海を見上げた。 「何を言ってるんだ?」 「なんちゅうかその……護衛の対価として、やりたくもないのに俺と交わってんちゃうかなて」 「た、対価? 意味がわからない」 「せやから、護衛してもらう代わりに身体を差し出してんねやったら、そういうのいらんでっていう意味や。お前の身体目当てで護衛してるわけちゃうし」  座りの良かった腕枕が抜かれ、むくりと舜海が身体を起こす。ぴったりくっついていた身体が離れてしまうと、ひんやりとした夜の空気で肌が震えた。  同時に、心も不安で震えている。  まるで、舜海が自分のことをもう抱きたくないと言っているように聞こえたのだ。 「そ、そんなこと、思ってない……!」  がばっと起き上がると、肩にかかっていた黒衣がはらりと落ちた。  舜海ははっとしたように千珠を見たが、裸体のほうに視線が流れるや、またすぐ気まずげに目を逸らしてしまう。  そういう態度にも不安を煽られ、千珠は震える手で舜海が羽織った単衣を掴む。 「なんで急にそんなこと言うんだ! そんな……俺が、いやいやお前としてるとでも思ってるのか!? あっ……」  ふと閃くものがあり、心がしゅんと萎えていく。  単衣を掴む手から力が抜けた。 「そうか、飽きたんだな。俺に……」 「は!? なんでそうなんねん!」 「だって、柊からお前は無類の女好きで、坊主のくせにしょっちゅう町で遊んでたって聞いたことがあるし……」 「なっ!! あの野郎……」 「そうだよな……平坦な俺の身体なんて、おもしろみがあるわけでもないものな……」 「ちゃうちゃう! そんなんちゃうって!!」  徐々に小さな声になっていく千珠の肩を、舜海が両手でしっかと掴んだ。白く頼りない裸の肩が、大きな手のひらにすっぽり包み込まれている。 「女がどうとか関係ないねんて! ただ、その……罪悪感っちゅうんかな」 「罪悪感?」 「人間の姿のお前は非力やし、あまりに可憐で……」 「か、可憐?」 「普段くそ生意気やし、なにかにつけて偉そうに煽り散らかしてくるお前が、妙にしおらしてるやん?」 「煽り散らかす……」 「もし、護衛してもらう代わりに身体を差し出してるような気でいてんねやったら、それはちょっとあかんやろと思ったわけや」  千珠の肩に黒衣を羽織らせながら、舜海はきまりが悪そうにそう言った。 「それに、さっきも言うたけど、人間の姿のときはお前の体力落ちるやん? なんかこう……息も絶え絶えになりながら、俺のええようにされてるお前見てると……なんやこう、めちゃくちゃあかんことしてるような気がして……いやまぁ、そこが逆にめっちゃ可愛いし、いやらしくて燃えんねんけど……」  だんだん生ぬるい目つきになっていく千珠に気づいたらしい舜海が、慌てたようにこう言った。 「つまり! 無理に抱かれる必要ないんやでって、言いたいだけや!」 「そんな。無理なんて……してない」 「いや、さっきも結局、気ぃ失わせてもうてるしさ」 「それは……」  舜海に抱かれるのが好きだ。  彼自身はああ言っていても、鬼の姿でいるときよりもずっと愛撫は優しい。  千珠と繋がりながら腰を振っているときだって、「つらくないか? 気持ちええ?」と何度も耳元で囁いて、気遣ってくれる。  千珠が達するたびに頭を撫で、「可愛い、もっと欲しいか?」と色香溢れる微笑みをくれ、欲しがればいくらだって、内からも外からも、千珠の全てを可愛がってくれるのだ。  甘く幸せな時間だ。無理をしているわけがない。  ただ、それをどう言葉で伝えればいいのかわからない。焦れた千珠は、自ら舜海の首に腕を絡めて抱きついた。 「っ……千珠」 「む、無理なんてしてない! 俺は、その……」 「……ん?」 「ずっと満月が怖かった。けど今は……満月が、待ち遠しい」 「え? なんで…………あ」  千珠の言わんとしたことに気づいたのだろう。どこか緊張気味だった舜海の身体から、力が抜けていく。 「そ……そうなん?」 「そうだよ! だからお前は、余計なこと考えなくていいんだ!」 「ふーん……ははっ、そうか。そうなんや。はぁ……よかった」  なにをそんなに身構えていたのか、舜海は心底ほっとした様子で胸を撫で下ろしている。  そして、やおら千珠の腰をぐっと引き寄せ、抱きしめる。  触れた場所から熱が伝わり合う感覚だけで、千珠もまた、たまらなく安心していた。 「そんなに好きか、俺に抱かれるのが」 「そ……そこまでは言ってない」 「ふっ、そうか。お前のあの可愛い反応は、演技とちゃうかったんやな」 「演技? そんな余裕、あるわけないだろ」  照れ隠しにぷいとそっぽを向くが、舜海の手のひらで頬を包まれ、鼻先を突き合わせる格好にされてしまった。  いつにも増して優しい瞳で見つめられ、いよいよ恥ずかしくなってしまい、頬が火照っていくのが自分でもわかる。 「ん……」  そのまま柔らかく唇を啄まれ、千珠はうっとりと目を閉じた。  軽く吸われ、角度を変えながら戯れのように唇を重ね合わせているうちに、鎮まっていたはずの欲がふたたび目を覚ます。 「ぁ、はぁ……っ」  する……と肩から衣が滑り落とされ、二の腕を淡く撫でられる。千珠はふるりと肌を震わせながら、とろけた黒い瞳で舜海を見上げた。  すると、燭台の淡い光に照らされた舜海の頬が、かぁっとさらに赤く染まった。  かと思えば、唐突に天井を仰いでため息をついている。 「はぁ~~~あーーー……あかん、可愛い」 「え?」 「あのなぁ、そういう可愛い顔で物欲しそうに俺を見るな。お前がそんな顔するから、こっちも手加減できひんくなんねん」 「はっ? 知るか、そんなこと言われても困る……」 「ははっ、せやんな」  舜海は肩を揺すって軽やかに笑う。そして、千珠の耳元に唇を寄せ、甘い口調で囁いた。 「夜明けまでもう少しある。もう一回だけ、してもいいか?」  少し照れくさそうな笑顔とともにそんなことを言われては、逆らえるわけがない。  気恥ずかしさと嬉しさがあいまって、柔らかな微笑みを湛える舜海の目をまっすぐ見られない。  なので千珠はそっと、逞しい胸板に頬を寄せて、こくりと小さく頷いた。 「……したい」 「ふっ」  蚊の鳴くような声でそう呟いた千珠の声に、舜海の楽しげな吐息が重なる。  樹々の隙間から差す朝陽を吸った黒い瞳が琥珀色の輝きを取り戻してもなお、ふたりは熱に浮かされたように身を重ね続けるのだった。  おしまい

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