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十七、実らぬ想い

 早朝。  佐為は、青葉城の天守閣の上に立っていた。  ここから、結界術・不知火の締め直しにかかるのだ。  眼下に広がる瀬戸内の海と、豊かな山々に挟まれた美しい国。佐為は青々と茂る森の木々の鮮やかな緑や、明るく営まれている人々の生活を見下ろして、微笑んだ。  この国はいつ来ても、人も者も豊かに満ちている。  真夏の強い風が、微笑んだ佐為の短い髪を乱していった。 「やるのか?」  背後に、千珠の気配がした。屋根伝いに跳び上がってきたらしい。振り返ると、佐為は微笑む。  銀髪をなびかせる千珠をまぶしげに見つめる。今日は忍装束ではなく、白い衣に淡い灰色の袴を身に付けている。 「いつ見ても美しい国だね。つい見とれていたところだよ。……どうしたの、その顎」  佐為は、赤くなっている千珠の顎を見て、吹き出しながらそう尋ねる。千珠はぶすっとして、そっぽを向いた。 「……宇月にやられた」 「またかい?まったく、君たちも激しいな」  腹を抱えて笑っていた佐為が、涙を拭いながら再び景色を眺め始める。  千珠は佐為の隣に立ち、共にその景色を眺めた。 「何年たっても、ここからの景色は変わらないだろう?」 「うん、それがとても落ち着くよ。やはり、都は色々と騒がしいからね。人間も、妖も、相変わらず」  二人は並んで、景色を眺める。 「さてさて、七年ぶりだ。この結界術も、よくもってくれたもんだ」 「毎回感心するよ、お前の力には」 「そう?君にそう言ってもらえると、僕もやる気が湧いてくる」  佐為は首だけで千珠を振り返ってにっこりと笑った後、不敵な表情を浮かべ、ぐるりと外界をを見回して詠唱を始めた。  佐為の声と共に、五箇所に貼られた護符から光が生まれ、まっすぐに天へと駆け登っていく。  それは上空で巨大な五芒星を描くと、かっと眩く光り輝いた。佐為の身体からつむじ風が巻き起こり、千珠は思わず身を低くした。そして、ひとり術式を執り行う、佐為の黒装束の背中を見上げていた。 「陰陽五行、結界術・不知火(しらぬい)! 急急如律令!」  佐為の身体から、光と風が迸る。上空に浮かんだ五芒星が光を増して巨大化し、天蓋のように地上へ光の帯を下ろす。 「結!」  光の帯が硬度を持ったかのように壁となり、青葉の国を取り囲んで結晶化する。まるで美しい水晶に取り囲まれたかのように、国がすっぽりと覆われた。  佐為は笑みを浮かべながら印を解くと、光の壁は見えなくなった。  上空に浮かんでいた五芒星も消え、何ごともなかったような青空が再び二人の頭上に広がる。  千珠はその術の巨大さに目を見張るばかりであった。七年前も感嘆したが、以前よりもずっと佐為は力を増しているようにすら見える。 「……すごいな」  千珠は心底そう言いいながら立ち上がった。佐為はくるりと千珠を振り返り、誇らしげに笑う。 「だろ?……あ、でも……やっぱり……」  佐為はがっくりと膝をついた。千珠が慌てて身体を支えると、佐為は顔を青白くして肩で息をしはじめる。 「あぁ〜、さすがに今回は大丈夫かと思ったけど……やっぱきついや、この術は」 「毎回毎回すまんな。何もお前一人でやらなくても、誰かに手を貸してもらえばいいのに」 「いや、これは僕がやりたいんだ。君や宇月を守る大事な結界術だからね。……それに、君たちにも護るものが増えたんだ。綻びを作りたくない」 「佐為……、お前」  千珠は佐為をおぶると、ひょいひょいと身軽に屋根から屋根を伝って地上まで降りた。 「ありがとう、な」  千珠は背中に佐為を背負ったまま、ぽつりとそう呟いた。 「なぁに。これも何かの縁さ。僕にとって君は、大切な同胞だもの。これくらい、させてくれ」  ざ、と地面に降り立つと、佐為はそう言ってにっこりと笑う。  千珠もつられて、微笑んだ。   ❀ 「佐為さま、お見事でございます」  千珠に担がれて離れに戻ってきた佐為を、槐と石蕗が片膝をついて出迎えた。  佐為は弱々しく笑ってみせると、縁側にどさりと腰を下ろす。 「あの巨大な技を、お一人で為されるとは……」 と、石蕗が硬い口調で褒め称える。 「間近で拝見するのは初めてでしたので、本当に……お見事です」  槐も、目を輝かせながら佐為にそう言った。 「……まぁでも……その代償として……二、三日動けないんだけどね」 「その間は私達がお守りいたしますから、大丈夫ですよ」 と、槐がにっこりと笑う。千珠はそんな三人のやり取りを見て、微笑む。  そこへ宇月が、盆に茶菓子と茶を載せてやって来た。 「佐為、お疲れ様でござんす」 「ああ、宇月。お、甘味だね、ありがとう」  佐為は疲れた時、甘いものを大量に欲するのだ。宇月に差し出された茶菓子を、嬉しそうに食べている。 「佐為の力は、ますます強くなるようでござんすな」 「まぁね。でも僕は都では極力目立たないようにしているんだよ。あんまり目立つと波風立つからね」 「そうでござんすな」 「父上が長官を退かれてから、神祇省のお固い上層部が、佐為さまの力を目の敵にしているのです」 と、槐は宇月に説明した。 「強すぎる力は、朝廷にとって脅威になるとお考えで」 「まったく、人間ってのはややこしいことを考える生き物だな。いつもいつもそんなことばかり言っているじゃないか」  槐の話に、千珠は腕組みをしてそう言った。  かねてから千珠の存在も、朝廷からは折にふれて苦言が呈されてきたのだ。  一介の大名にすぎない大江光政が、千珠という武力を一人で召し抱えていることは脅威であると。いつ、都に対して反乱の意思を持たないとも分からないとも言われてきた。  千瑛であれば、光政にそんな気が無いことは百も承知だし、それ以上に千珠は自らの息子だ。疑いようがない。しかし長官が変わってからというもの、帝の制止もきかず、神祇省は青葉に対して警戒心を抱いているらしいのだ。  光政は、いつもそんな苦言を笑って流していた。「こちらが開けた態度でいれば、きっと向こうもそのうち分かるだろう」と呑気なことを言っているのだ。  槐は苦笑して、今日も涼やかな兄の姿を見やる。  千瑛と千珠が親子であり、槐と千珠が兄弟であるということは、都では決して明かすことのできない秘密だ。兄を信用しない神祇省の今の上官たちを、槐は好きにはなれなかったが、今後兄を守る立場になるためにも、自分が頑張らなければいけないと常日頃から自分を戒めて努力を重ねているのである。 「兄上、今日も剣術の稽古ですか?」 「ああ、そうだよ」 「私も参加してもよろしいでしょうか」 「勿論だ。剣の腕前はどんなものかな?」 「まぁ、見ていて下さいませ」  千珠とともに歩いて行く槐の背中を、佐為は微笑んで見ていた。しかし、石蕗は少し浮かない顔だ。 「石蕗、どうした?」 と、佐為が尋ねると、石蕗ははっとしたように佐為を見た。 「……いえ。本当に、ご兄弟なのだなぁと思うと……」 「いくらお前でも、この秘密は重すぎるか?」 「まさか。槐は幼少よりの付き合いです。彼を裏切るなどありえませぬ」 「ならばいいんだ」  佐為は餡の着いた指をぺろりと舐めて、茶を啜った。 「でも、槐の様子が、昨日とは少し違うように思われて……お兄様と何かあったのかと、心配になってしまいました」 「ああ……彼が現れたからだな」  佐為と宇月はちらりと目を見交わした。  夜顔の存在は、槐にとって本能に刻み込まれた恐怖そのものだ。あの日、足腰が萎えるほどの鋭い殺意にさらされた槐の記憶は、そうやすやすと忘れ消えるものではない。その殺意の主である夜顔が、槐が心から慕う兄と仲良くしている様を目の当たりにして、穏やかでいられるわけがないだろう。 「彼?何者です?」 と、石蕗。 「なに、君たちが気にするほどの者ではない」  素っ気ない佐為の態度に、石蕗はでしゃばりすぎたと感じたのか、すっと頭を下げて身を低くした。 「まぁ石蕗様も、今は佐為の護身のことだけを考えてあげてくださいませね」  宇月が場を取りなすように、にっこりと笑みを浮かべてそう言った。名を呼ばれた石蕗は、顔を上げて宇月を見やり、すこしばかり微笑んで頷いた。 「私、山吹さまの傷を見る約束がありますので、そろそろ失礼するでござんす」  宇月は立ち上がり、佐為にも笑いかけた。 「今日は一日、ゆっくり過ごしてくださいな」 「ああ、そうさせてもらうよ」  佐為はごろりと畳の上に横になって肘枕をすると、目を細めてひらりと手を振った。  宇月がいなくなると、佐為はしばらく居心地悪そうにもぞもぞと身体を動かしてから、縁側の下に控えていた石蕗に手招きをした。 「石蕗、ちょっと膝枕をしてくれないか」 「……はぁ。一体どう為されたのです、佐為さま」 「布団を敷いて寝てしまう程でもないけど、横にはなりたいんだが、座りが悪い」 「……はぁ、分かりました」  石蕗は足袋の埃を払い、離れの畳の上に上がって正座をした。その膝の上に、佐為の小さな頭を載せてやる。  縁側の側に座っていると、涼やかな風が室内を吹き抜ける。  石蕗はそっと、佐為が目を閉じている様子を見下ろした。さらりとした茶色味の強い短い髪の毛が、真っ白な肌の上でそよそよと揺れて、同じ色の睫毛が思いの外長いことに驚かされる。 「珍しいですね、佐為さまがこんなことをおっしゃるなんて」 「それほど疲れたんだよ。……ああ、いい気持ちだ」 「そうですか」  石蕗はそっと、額に流れ落ちる佐為の髪の毛を指でかき上げてやった。そのかすかな感触に、佐為は閉じていた目を開く。 「君……いくつだっけ?」 「私ですか?十八にございます」 「君、槐のことが、好きなんだね」  佐為に本心を見抜かれて、石蕗は目を丸くした。更には、いつも飄々とした佐為が、好いた惚れただのということについて言及するということも意外だったため、二重に驚く。 「……いいえ、そんなことは!」 「僕の目はごまかせないよ。見ていれば分かるさ」 「……はぁ。でも、槐は私などよりもずっと高位な方との縁談が決まっているのですから。……もう、私にはどうすることもできませぬ」 「そう。……辛いことだ」 「いいんです。私はこれからも、神祇官の仲間として槐と共に戦っていけるのですから。それで、充分です」 「……ふうん」  佐為はゆっくりと身を起こすと、切れ長な目でじっと石蕗を間近に見つめた。石蕗はたじろいで、少し身を引く。佐為は少し首を傾げて、じっと石蕗の目を覗きこみ、ひたとも視線を外さなかった。 「な、何ですか?」 「いや、君は強くてなかなか美しいのに、勿体無いなと思っただけだよ」  訝しげな石蕗の目付きに気づくと、佐為はそう言ってにっこりと笑い、再びごろりと横になった。石蕗は呆気にとられて、再び自分の膝の上で気持ちよさそうに目を閉じている佐為を見下ろす。 「ありがとうございます……」  石蕗は微笑んで、そう呟いた。佐為は唇だけで微かに微笑んだ。  佐為の髪はさらさらとして、触れているととても心地が良く、石蕗はしばしそうして佐為の髪を梳いていた。  石蕗は顔を上げて、空を見上げる。  実らない恋を、心の奥に沈めたまま。

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