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十九、珠緒と夜顔

 ぞろぞろと坊主たちが出ていく中、舜海は夜顔に声をかけた。 「お前、強いな」 「ありがとうございます」 「お前の里じゃあ、もう相手がおれへんのちゃうか?」 「……はい。でも、藤之助に力を抑えていろと言われているので……」 「そっか。全力を出し切れへんのもつまらんやろうな。里で波風立てへんことも大事やけど」 「はい……」  夜顔は困ったような顔で、笑った。舜海は床に転がっていた竹刀を拾い上げると、夜顔を見た。 「どうや、俺と勝負せぇへんか」 「え?舜海さまと?」 「ああ。やろうや。本気の一本勝負や」 「はい!」  夜顔は顔をぱっと明るくすると、首に巻いていた手ぬぐいを懐に仕舞いこんで、竹刀を握り直した。  竹刀を構えている舜海の前に、夜顔はぴたりと鋒を合わせて舜海を見据えた。  実際に相対してみると、夜顔の剣の纏う空気は不思議と威圧感がある。血が騒いで、舜海はぞくぞくした。 「打ち込んでこい」 「はい」  返事をし終わらないうちに、夜顔が軽く床を蹴る音がした。と同時に、すでに夜顔の漆黒の瞳が目の前にあることに、舜海は驚き目を見張った。  踏み込みの軽さの割に、夜顔の剣は驚くほど重い。舜海は唇の片端を上げて笑うと、その剣を弾き返す。  ばっと後ろに退いた夜顔は、すぐにまた舜海に打ち込んでくる。間髪入れずに連続して激しく打ってくる夜顔の剣を受け止めることが、舜海は楽しくて仕方がなかった。久しぶりに、こんなにもやり合いがいのある相手と合間見えたからだ。 「っらぁ!」  舜海の鋭い突きを、夜顔はひらりと身を交わして避けた。そのまま竹刀を切り上げると、夜顔は身を横に翻してそれすらも避けた。すごい反応だ。 「避けてるだけじゃ、勝てへんぞ!」 「はい!」  夜顔はだんっ、と床を蹴って高く跳躍した。そしてその勢いのまま、舜海の肩口へと竹刀を振り下ろす。  夜顔の目が光って見えた。  舜海はそれを紙一重でかわすと、夜顔の胴に竹刀で一撃を喰らわせる。夜顔の顔が歪んで、身軽に床に降り立つと、膝をついた。 「胴、取られちゃったな……。参りました」  夜顔は膝をついたまま、竹刀を腰に戻して一礼した。舜海は軽く弾んだ息を整えながら、一礼する。  笑顔で顔を上げる夜顔を見て、舜海も笑った。   ーーこいつは面白い……。 「舜海さま、お強いですね!」 「当然やろ」  舜海は夜顔に、普段の稽古の言雄などを尋ねながら、道場から外に出た。そして、こちらに向かって歩いてきている山吹と宇月に気づく。 「お疲れさま。皆で昼食にいたしましょう。夜顔さんも」 「ありがとうございます。あの、こちらは……?」  夜顔は珠緒を抱いた宇月を大きな黒い瞳で見上げて、そう尋ねた。 「ああ、こいつは千珠の嫁さんと子どもや。宇月、こいつが夜顔やで」 「お初にお目にかかるでござんす。夜顔さま」 「千珠さまは、奥方様とお子様がおられるのですね」 と、夜顔は目を丸くする。 「はい。未だにやんちゃで我儘な方でござんすが、とても優しい夫でござんすよ」   宇月が笑顔でそう言うのを、夜顔は楽しげに笑う。 「千珠さまがやんちゃだなんて、さすが奥方様ですね。この子は……?」 「この子は珠緒、と申すでござんす。……あら」  珠緒は大きな目を見開いて、夜顔の方に手を伸ばしていた。宇月は驚いて、珠緒の顔を覗きこむ。 「初めて会うお方には、大概警戒して近寄らないのでござんすが……夜顔さまを気に入ったみたいでござんすな」 「あー、あーう」  小さな口を開いて、珠緒が声を出した。それにも宇月は驚いている様子だ。 「よしよし、こんにちは」  夜顔は満面の笑みを見せて、珠緒の小さな手を握って揺らしてやった。珠緒は目をきらきらさせて、笑顔を浮かべた。 「普段は声もあまり出さないのでござんすが……。夜顔さま、抱いてみてやってくださいませ」 「いいんですか?」  夜顔は宇月から珠緒を受け取ると、脇の下に手を差し込んで、高く掲げた。 「たかいたかーい」  きゃっきゃと声を上げて、珠緒が笑った。そんな微笑ましい姿を、大人三人は笑顔で見守っている。 「珠緒っていうんだね。千珠さまにそっくりだなぁ」 「夜顔にはえらいなつきようやな。俺のことはあんま好きちゃうみたいやけど」 と、舜海も驚く。 「舜海さまは大柄なので、怖がっているのでござんすよ」 「そうかぁ?」  夜顔は子どもの扱いが上手かった。抱っこされた珠緒は、夜顔の黒い瞳を覗き込みながら、ぺたぺたと頬に触れている。 「よるー。よるー」 「あ、もう名前を覚えてくれたの?」 「まぁ、珠緒」 「喋ってるやん」  宇月と舜海、そして山吹は目を丸くして更に驚いた。普段珠緒の声を聞くことはほとんどなく、はっきりとした言葉を発することもほとんどないからだ。 「あはは、可愛いね、珠緒。走れるんだろ?追いかけっこしよう」  夜顔は楽しげにそう言うと、珠緒を地面に立たせた。まだ覚束ない足取りの珠緒は、地面に下ろされると、夜顔を求めて手を伸ばした。 「あー、よるー!よるぅー!」 「こっちにおいで、珠緒」  夜顔が袴の裾を翻してひらりと距離を取ると、珠緒は楽しげに笑いながらとてとてとそちらに走っていった。転ぶこともなく、まっすぐに夜顔に向かっていく。 「あらあら……すごい」 と、母親である宇月も驚きっぱなしだった。 「夜顔のことを仲間やと思ってるんやろうな。珠緒はどちらかというと妖気が強いから、嗅覚も優れてるんやろう」  そんな話をしつつ、舜海は嬉しそうに二人がじゃれ合っているのを眺めていた。 「……また、やきもちを焼いてしまわれるでござんすなぁ……」 と、誰にともなく呟くと、山吹はちらりと宇月を見下ろした。槐に対して、珠緒はここまでの笑顔を見せてはいない。明らかに、槐よりも夜顔のことを好いている。 「……そうですね」 と、山吹は小さく返事をした。 「槐さまはここへはこないと思いますが……こういう風景を見せぬよう、少し気をつけなければいけないでござんすね」  宇月がそう言うと、山吹はまた静かに頷いた。

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