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二十一、かくしごと

 すっかり夜顔を気に入った様子の珠緒は、遊び疲れて夜顔の膝の上で眠っていた。  珠緒が珍しく帰りたがらず、連れ帰ろうとするとぐずるので、宇月は様子を見てみようと寺にとどまっているのだ。  舜海は午後の修行に出かけて行ったため、そこにはいない。山吹と宇月は珠緒と夜顔をそっと見守っていた。夜顔も疲れているらしく、縁側の柱に背をもたせ掛け、目を閉じてうとうととしているのだ。 「まったく、可愛らしいこと」  宇月はそう呟いた。山吹も微笑んで頷く。 「あの日のことが、嘘のようでござんすな……」 「ええ」 「千珠さまは、一体どうお伝えになるのか」  宇月は、夕日を見つめて千珠のことを思った。  がくっと、夜顔の頭が前傾し、夜顔は目を開いた。眠たげに目をこすり、あたりを見廻している。背後にいる宇月と山吹には、まだ気づいていないような素振りだ。  夜顔は夕日を見上げ、自分の膝で眠っている珠緒の頭を撫でた。 「……藤之助、会いたいなぁ」  ぽつりと、育ての親の名を呟く夜顔は、心細い小さな子どものように見えた。自分の里から遠く離れた場所で、親が恋しくなっているのだろう。 「……先生、まだ帰ってこないのかなぁ……」 「あらあら、少し心細くなったでござんすね」  宇月が夜顔の傍らに座ると、独り言を聞かれたことを恥じたのか、夜顔の顔が赤くなる。 「い、いいえ……」 「初めての長旅でしょう?仕方がないことでござんすよ。珠緒といっぱい遊んでくれたから、疲れたのでしょうし」 「いいえ、とっても楽しかったです」 「珠緒にも鬼の血が入っているでござんすからね、あなたを親しく感じたのでしょう」  夜顔ははっとした。  以前、藤之助に言われたことを思い出す。   ーーお前にも、妖の血が流れているからね……。  あの時は、かなり驚いたし恐ろしくも思った。自分のことが分からなくなったのも事実だった。  でも青葉へ来て、半妖の千珠が人里の中で幸せに生き、妻子を得て、しっかりと根を下ろしている様子を見た。  千珠の幸せそうな表情を見るにつけ、夜顔は安堵した。  自分も、きっとちゃんと生きていけるのだ、と。 「あなたも……宇月様も僕のことを知っているのですか?」 「いいえ、私は直接幼いころのあなたを見たわけではないでござんす。ただ、千珠さまがあの頃、常にあなたを思って、あなたを助けるために行動していたのはよく覚えているでござんすよ」 「そう、なんだ……」 「千珠さまが今のあなたを見て、どれだけ嬉しかったことか……想像に難くないでござんす」 「へへ……」  夜顔は照れたように笑った。なんと愛らしい笑顔をするのだろうと、宇月は微笑む。 「珠緒があなたにこれだけ懐くのも、分かる気がするでござんすな」 「珠緒は……どんな大人になるのかな」 「……そうですね。千珠様や夜顔様のように、優しく強い男になってくれるといいでござんすね」 「僕のように?」 「ええ。あなたはとても優しい心をお持ちでござんすからね」 「……そうかなぁ」  宇月の力強い口調に、夜顔は少し不思議そうな顔をしながら頷いた。  背後で山吹も、小さく頷いている。 「宇月」  ふわりと吹いた風とともに、千珠の白い衣が翻った。音もなく庭へ降り立った千珠を、夜顔は驚いて見つめた。 「千珠さま……」 「あら、お迎えでござんすか?」 と、宇月が笑顔でそう言った。 「別に……ちょっと寄っただけだ」  千珠は少し照れたような顔でそう言った。本当は帰りが遅いのを気にして、迎えに来たのである。 「あらあら。いい時機でしたこと」  宇月はそれを分かった上で微笑んだ。そして、珠緒の背に触れて抱き起こす。 「珠緒、帰るでござんすよ」 「あうー、うー」  眠たげに目をこすり、宇月に抱きかかえられた珠緒は、夜顔から離されたことに気づくと、じたばたと暴れ始めた。 「あらあら」  宇月が手を離すと、珠緒はまた座っている夜顔に抱きついた。それを見て、千珠が驚いている。 「夜顔、えらく好かれているな」 「あ、はい……。珠緒、もう帰んないと駄目だよ。また明日遊ぼう」 「よるうー。あそぼー」  千珠がびっくりしているのを見て、宇月と山吹は笑った。 「昼間からこの調子で、夜顔さまにはずいぶんお世話になってしまったのでござんす」 「すごいな。珠緒がこんなに喋るなんて」  千珠も縁側に座り込むと、ぽんぽんと珠緒の背中を叩いた。その刺激に振り返った珠緒は、千珠の姿を認めて千珠に向き直る。 「珠緒、帰ろう。夜顔は明日も遊んでくれるってさ」 「は……」 「ん?なんだ?」 「はは……うえ」 「えっ?」  珠緒は千珠に抱きつきながら、そう言った。千珠は目を丸くして、珠緒を抱きかかえる。 「はぁ、うえ」 「珠緒……俺は、父上と呼ばれたい」 「まぁ……千珠さまったら」  宇月は少し涙ぐんで、千珠と珠緒を見つめていた。千珠もそんなことを言いながら、幸せそうな表情を浮かべて珠緒を抱きしめた。 「珠緒」 「はぁ、うえ」 「宇月のことはなんて言うんだ?」 と、千珠が珠緒を宇月に向き直らせて、そちらへ歩かせる。珠緒は笑顔を浮かべて宇月に手を伸ばし、倒れ込みながら抱きついた。 「はーうえ」 「あらまぁ」 「ははっ、どっちも母上か」 と、千珠は楽しげに笑った。  夜顔もつられて笑いながら、幸せそうな千珠の笑顔を眩しく見つめていた。その目から、不意に大粒の涙が流れ落ちる。 「夜顔さん……」  いち早くそれに気付いた山吹が、おずおずと声をかけた。それに気付いた千珠と宇月も、はたとして夜顔を見た。 「あ……ごめんなさい……何故だか……涙が出てきて」  ぽろぽろと涙を流す夜顔を見て、千珠は思わずその背を抱いた。千珠の肩に顔を埋めて、夜顔はしゃくりあげ始めた。 「う……うっく……」 「夜顔……。ごめんな」 と、千珠がぽつりと謝った。 「なんで……ですか……。千珠さまは、何も悪いことしてない……のに」 「いや……俺は、お前に謝らなければいけないことが、たくさんあるんだよ」  千珠は片手で抱いていた夜顔の背に、もう片方の手も回して抱きしめた。千珠の暖かい体温と、ふわりとしたいい香りに夜顔の気が更に緩む。 「うっ……うう……僕、分からないんです……自分が誰なのか……」 「ちゃんと話す。お前のことを、俺はよおく知っているんだ」 「……っく……はい……ううっぅ」  夜顔の背に回した手が、びくんと震え、一瞬緩んだ。  暮れ始めた夕闇に溶けこむように、庭に槐が立っていたのだ。  険しい顔で、じっと千珠と夜顔の姿を見つめる槐の表情が、子どもの頃の槐とだぶって見えた。 「兄上……」 「槐……。どうしたんだ、こんなとこで」  千珠は夜顔から腕を離す。泣き濡れた顔で、夜顔は槐を振り返った。 「お帰りが遅いので、お迎えに参りました……。あと、そちらの客人に、昨日の非礼を詫びようと」 「そうか。すまないが、俺は今夜はこちらに泊まる。少し込み入った話があるのでな」 「話、ですか。どんな話です?」  槐はざ、ざ、と夜顔に近寄って、じっと涙に濡れた夜顔の顔を睨みつけた。  びく、と夜顔が怯えて身体を揺らした。 「お前には関わりのない話だ」 と、千珠が言うと、槐は千珠をきっと見据えた。 「兄上は、何故この者の肩を持つのです!一体何者ですか!?」  槐の鋭い声に、珠緒が怯えて泣きだした。宇月は珠緒を抱え上げ、その場から少し離れる。  千珠は戸惑った顔で、槐の歪んだ表情を見つめていた。 「別に肩を持っているわけじゃないよ。こいつには、急ぎ伝えておかなければいけないことがあるだけだ」 「何故……私とは一緒にいてくださらないのですか……?」 「え?」  槐の顔が、悔しげに歪む。そして今度は、夜顔をぎっと睨みつけた。 「あの……僕、いいんです。だから……」 「お前は黙っていろ」 と、槐に一喝され、夜顔はまた怯えた顔をした。 「兄上は、一体何を隠しておいでなのですか……!?」 「隠す、だと?」 「何か変です。この者を見ていると、私は……私は!」  槐は苦しげに右手で頭を押さえた。千珠は立ち上がって、何かを思い出そうとしてい様子の槐の肩に触れようとした。 「やめてください!」 「槐、落ち着け!」  千珠に肩を強く掴まれた槐は、はっとしてその琥珀色の目を見つめた。千珠の目に見据えられ、槐の瞳が揺れる。 「どうしたんだ。槐。何故そんなにも心を揺らす」 「……分かりません。分かるわけないじゃないですか……!!」  槐は苦しげにそう言い捨てると、荒々しい動きで千珠の手を振りほどく。 「……城へ戻ります。失礼いたしました」 「槐……!」  さっと踵を返し、早足に行ってしまった槐の背を、千珠は困惑した表情で見つめていた。  夜顔も不安げな顔のまま二人を見比べていたが、不意に立ち上がって千珠の元へ駆け寄る。 「行ってあげてください、あの人……千珠さまの弟なんでしょう?家族は大切にしないといけないって、藤之助が言ってたよ」 「夜顔……しかし」 「僕のことは、いいんです!あの人を、助けてあげて下さい!」 「ちょっと待て、動揺してるお前が行った所で、槐の気持ちは収まらへんのちゃうか?」 と、のんびりとした声が二人の間に割って入る。修行から戻った舜海が、法衣の胸元を崩しながら歩み寄ってくるところであった。  千珠の不安げな顔を見て舜海は笑うと、その頭をぐしゃぐしゃと撫でた。 「な、何するんだ……!」 「阿呆、そんな顔で槐と何を話すんや。言わんでいいこと言ってしまいそうな気配がぷんぷんするわ」 「……しかし」 「俺が行く。俺に八つ当りさせて、ちょっとくらい暴れさしたるのもいいかもしれへんな。お前はちょっと頭を冷やせ。落ち着いてから夜顔と話をしろ」 「……でも……」 「でももくそもあるか。ええな」 「……分かった。頼む」 「任しとけ」  舜海は気持ちよく笑って、そのまま槐の後を追っていった。  千珠は舜海の笑顔を見て、波立っていた気持ちが少しずつ凪いでいくのを感じていた。  結局、いつもこうして舜海に助けられる……。  千珠は深呼吸してから、家屋の方を振り向いた。 「すまないな……見苦しい所を見せた」 「いいえ……。僕も……変なこと言ってごめんなさい……」 「いや。お前は優しいね。……今夜はゆっくり話をしよう。舜海に任せておけば、大丈夫だから」 「……はい」  夜顔は頷いて、少し困惑したような表情を浮かべた。  そんな夜顔の足元に、珠緒がまとわりついてくる。 「珠緒……大丈夫だよ」  珠緒の頭を撫で、抱きあげながら夜顔はそう言って笑顔を見せた。珠緒はじっと大きな目で、心配そうに夜顔を見ていた。 「大丈夫……」  夜顔は珠緒の額に自分の額を寄せて、そう呟いた。  千珠ははっとした。   それは、十年前に千珠が夜顔にした行動と同じだったからだ。  あの頃の自分と、今の夜顔の顔が重なる。  千珠は目を閉じて、深く息をついた。  

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