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二十五、坊主の説教

 血にまみれた男の顔が、夜顔の眼の前に迫っていた。  夜顔は、悲鳴を上げながら必死で逃げていた。逃げても逃げても、その男は夜顔から離れようとしない。  怖い……!!怖いよ!!  藤之助……先生……助けて……!!  血にまみれた男が、ぬるりと二人の人間に分裂した。二人が四人、四人が一六人……みるみる増えていく傷だらけの黒い狩衣姿の人間たちが、血を流しながら夜顔に迫ってくる。  足首を捕まれ、夜顔はどっと倒れ伏した。  覆いかぶさってくる腐った人間たち。飛び散る生臭い血。夜顔は恐怖に顔を歪めた。  千珠さま……!!助けて……!!! 「うわぁああ!!」  悲鳴を上げて飛び起きる。思わず辺りを見回すと、そこはここ数日寝泊まりしているいつもの部屋の中だった。  閉めきった部屋の中は暑く、夜顔はだらだらと汗をかいていた。布団を足でよけて起き上がると、夜顔はこみ上げてくる吐き気を堪えるように口を押さえる。  ――気持ち悪い……。  血の匂いが、生々しく蘇ってくるようだった。足に触れたあの手の感触も、飛び散ってきた血の感触も全て、かつて体験したものが蘇っただけのように思われた。  ――人を殺めた……。  千珠はああ言ったものの、己が人を殺した事実は変わらないのだ。夜顔は痛む頭を押さえ、目を閉じた。 「藤之助……」  藤之助に会いたい。恋しい。藤之助の笑顔を見て、安心したかった。藤之助に、「大丈夫」と言って欲しかった。  がらりと障子が開き、法衣に身を包んだ舜海が立っていた。悲鳴を聞きつけて、夜顔の様子を覗きに来たようた。  外はすでに明るく、蝉の声が聞こえている。夜顔ははっとして、きちんと座って舜海に深々と頭を下げた。 「おはようございます……」 「そんな堅苦しい挨拶はええ。大丈夫か?」 「……はい。怖い夢を見ただけです……」  舜海は障子を開け放って涼しい風を通しながら、額を押さえて座り込んでいる夜顔を見下ろした。  昨晩、とりあえず城に戻ると言い残し、夜顔を託して千珠は帰っていった。その時千珠を見送っていた時の夜顔は、思ったよりも落ち着いた表情していたため、舜海は安堵していた。  しかし、夜顔は真実を知った。夜顔の中に封じられていた記憶が蘇ってくることは必至であり、それを受け止めるには夜顔はまだ幼すぎるようにも感じられる。  医術で霊力を扱うようになった夜顔が、いずれこの記憶を取り戻すのは時間の問題だった。先んじて千珠から事実を知ることは、夜顔の心を守るためには必要なことだったのだ。 「飯、食えるか?」 「……いいえ、あまり食べれそうにありません」 「まぁ、軽いものは食え。こっち来い」 「……はい」  強引な舜海の口調に、夜顔は寝間着のままよろよろと立ち上がった。居間には山吹がいて、食事の支度を整えていたが、夜顔は炊き上がった白飯の匂いを書いだだけで、また吐き気を催した。 「……すみません。ちょっと、無理みたいだ」 「そうですか。それでは、お茶と何か甘いものを」 「甘いもの……?」 「脳が一生懸命働きすぎたので、気持ちが悪いのでしょう。栄養をあげないと」  山吹が茶と共に懐紙の上に乗せて手渡したのは、綺麗な色をした金平糖だった。夜顔ははっとした。  金平糖をつまみ上げて陽の光に透かし、自分に食べるように促した色の白い青年の顔が、一瞬脳裏を横切ったのだ。  ――甘いでしょう?  そう言って自分を安心させるように微笑んだ、涼しげな目元の男。  ――あまい……。  初めて、食べ物の味を教わった。あの時。  夜顔が険しい顔をして金平糖を見ているのを、山吹は訝しげにのぞき込んでいた。舜海も油断のない目で夜顔を見守っている。 「……どうしたの?」 「あっ……いいえ。……いただきます」  夜顔は山吹の声にはっとすると、指で金平糖を摘んだ。放り込んだ舌の上で溶ける糖の味が、夜顔の心を少しずつほぐす。 「……甘い」 「そうですか」  山吹が微笑むのを、物珍しげに舜海は見ていた。随分と山吹は夜顔を気に入ったようだ。  夜顔はぱくぱくと金平糖を口に入れて、最後にごくりと茶を飲んだ。いくらか人心地ついた様子で、夜顔はため息をつく。 「……藤之助は、僕が怖い夢を見ないようにって、ぼうきゃくじゅつをかけたって言ってた。……こんな夢、小さい頃に見ていたら……きっと頭が変になってた」 「今は、どうや?」 「……この夢を見た理由がわかってるから……。大丈夫です。でも……あまり見たくはない」 「せやな……。千珠の話、お前はどう思った」 「……色んな事の意味がわかりました。自分が誰なのかって、ずっと分からなくて怖かった。……そのへんは、落ち着いたんです」 「そうか」 「でも……千珠さまはああ言って下さったけど……僕は悪いことをしたんだ」 「まぁ、悪いことではあるな」 「……」  きっぱりした舜海の言葉に、夜顔は少し悲しくなった。それでも、それは紛れも無い事実なのだ。 「でもな、それを言うたら俺も千珠も……戦に出た誰もが罪人や。ここにおる山吹だってな」 「……」  夜顔は顔を上げて、二人を見た。二人とも、どこか淋しげな顔をしているように見えて、夜顔ははっとする。戦を知らない夜顔にとって、その経験が大人たちにどんな想いを背負わせているかは想像しにくい。しかし、皆どこかで折り合いをつけて生きているのだ。 「命は尊いもんや。たとえ敵のもんでもな。……だから俺が、皆の分までここで菩提を弔っとるってわけや。神仏に仕えるってのは、そういうことや」 「かみさま……?」 「ああ。皆それぞれにできることをして、今の世を生きてるんや。お前には医術がある。俺なんかよりよっぽど、人を沢山救える」 「……はい」 「受け入れるまでは、そらしんどいやろうと思う。でもな、心で負けるな。千珠や藤之助に生かされた命、大切にしなあかん」 「生かされた?」 「友達、大切な人、おるんやろ?お前の里には」 「はい」 「生きてなきゃ、そんな人らには会えへんかったんやで」 「……そっか」  藤之助、水国、咲太、喜多の笑顔。結城治三郎、都子の笑顔が蘇る。  早く会いたい、里に帰りたい。夜顔は水国の帰還をこれほどに願った瞬間はなかった。  淋しげな顔になった夜顔の肩を、山吹が撫でた。 「もうすぐお連れの方も戻られましょう」  山吹の言葉に、夜顔は笑顔を見せた。 「それにしても舜海、あんた、ちょっと説教臭いわよ」 と、山吹が舜海に向き直ってそう言った。舜海はぼりぼりと頭をかいて、「……坊主なんやから、しゃあないやん」と不服そうにそう言う。 「偉そうなこと言える立場でもないでしょうに」 「そらそうやけど。坊主は説教すんのが仕事やねん」 「まったく」  夜顔は口をへの字に曲げている舜海を見て、笑った。 「いいえ……舜海様の言うとおりです。僕……多分大丈夫」 「ほら見ろ」 「……」  得意げな顔になる舜海に、今度は山吹がふくれっ面になった。夜顔は、顔では笑っていたが、心の片隅はじっとりと、重かった。

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