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二十六、金平糖をくれたひと
離れに来て、槐と朝餉を取っていた千珠は、ごそごそと起きだしてきた寝ぼけ眼の佐為を見て笑った。
「佐為、何だその顔」
「……ああ、千珠。もう来てたんだ」
「もうとっくに陽は高いですよ、佐為様」
と、槐は茶をすすりながらそう言った。すでにきちんと着物を着込んでいる。
「君は早起きだな。石蕗は?」
「忍寮へ見学に」
「ほう、彼女も熱心だな」
「少しは回復したのか?」
と、千珠は白い胸元を晒して座り込んだ佐為の気を伺いながら、そう尋ねる。佐為は肩を押さえながら頷いた。
「まぁね。もう動ける」
「そうか。良かった」
「心配してくれたのかい?」
と、佐為はにやりと笑って、千珠ににじり寄った。浴衣がはだけ、三十路前とは思えないつややかな肌を晒す佐為に、槐は咳払いをした。
「佐為さま、なんという御姿ですか」
「固いこと言うなよ。男同士じゃないか」
と、佐為は長く白い脚を投げ出して座り込んでいる。槐は目のやり場に困っているのか、うつむいて湯のみを見つめた。
「それに、千珠の肌はもっと綺麗だよ。見せてもらえば?」
「な、何でですか」
「妻をもらうんだ。僕の肌ごときで赤くなってちゃ、赤子が生まれないよ」
「さ、佐為様!なんということを!」
「槐をからかうな、佐為」
真っ赤になって怒り出す槐を押し留めて、千珠は佐為を睨んだ。佐為は可笑しげにくくっと笑うと、浴衣の裾を直して正座する。
「槐は真面目だから、からかうと面白いんだよ」
「もう!やめてくださいよ!」
「やれやれ」
千珠はため息をついて、朝から騒々しい二人を見比べる。二人はこうやって、都でもしょっちゅう笑い合っているのだろう。
もっと一緒にいたかった。そう言っていた槐の顔を思い出し、千珠は少し寂しさを覚える。
「僕は青葉の寺に遊びに行ってくるよ。山吹さんにも会いたいしね」
朝餉を取り、きりりと黒装束に身を包んだ佐為は、そう言って離れを出ていった。
「佐為さま、護衛の僕を置いて行っては意味がありませんよ」
慌てて後を追おうとする槐を、千珠の手が止める。
「槐」
「兄上?」
「昨日は……悪かったな」
「……。いいえ。僕こそ、子どもじみた真似を致しました。あの子ども、兄上にとっては大切な客人なのでしょう。僕はつまらないやきもちを」
「そうだが……俺にとってお前は大切な弟なんだ。それだけは、ちゃんと知っていて欲しい」
「やだなぁ、知ってますよ。舜海様にもお聞きしましたし」
「舜海が?」
「初めて僕の存在を知った時、兄上がどんな顔をしていたか……。舜海様にお聞きしたんです。僕は嬉しかった」
「……そっか」
「だからもう、大丈夫ですよ。兄上はお仕事があるでしょう?佐為様のご面倒は僕が見ますので」
「……なら、頼む」
「はい。明日は都へ戻る日です。兄上、今夜の宴にはおいでですか?」
「ああ、もちろんだ」
「楽しみにしております」
槐はにこやかに一礼すると、たたっと走って佐為の後を追っていった。
ああは言っていたものの、槐が夜顔を前にしてどんな行動を取るか、少し心配ではあった。しかし今日は千珠は沿岸警備のために港へ出なければならない。
「雪代」
「はい」
音もなく、忍装束に身を包んだ若い男が現れた。忍寮に入って日の浅い若者である。昨日は槐の力を測るために、あえて剣の稽古に呼び込んでいたのだ。
雪代は口布を下ろすと、千珠の前に顔を晒す。名前の通り、雪代は色の白い少年だった。冷たく整った顔立ちをして、表情のない目をしている。
三年前、盗賊に襲われて滅んだ小さな村から、朝飛が保護して連れてきた子どもだ。青葉で数年平和な暮らしをしてきたが、彼の心はなかなか色を取り戻さないでいた。自分を虐めるかのように修行に励む雪代はめきめきと頭角を現し、すぐに柊の目に止まったのである。
「お呼びでしょうか、千珠さま」
「青葉の寺へ行って、槐と夜顔のことを見ていろ。何かあったら、すぐに俺に知らせるんだ」
「承知」
「舜海と佐為がいるから、何事も起こらないとは思うが……念のため、目を離すな」
「分かりました」
ふっと、かき消すように姿を消す。
千珠は立ち上がって、うっすらと雲のかかった空を見上げた。
「……今日は雨になるかな」
湿っぽい空気と、重たく暑い温度。千珠は雨の匂いをかすかに嗅ぎ取り、表情を少しばかり曇らせる。
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舜海が小坊主達に稽古をつけている様子を、夜顔は上座にちょこんと座って見ていた。顔色の優れない夜顔を見て、昨日試合ったばかりの坊主たちはそれぞれに声をかけていた。
「慣れない枕で、寝付けなかったのでしょう」
「里の方々が恋しくなられたのでは?」
「舜海さまのしつこい酒に付き合わされていたとかな」
皆夜顔を囲んで好きなことを言っている。夜顔もそれで少し気が晴れてきたのか、笑顔を見せながら坊主たちの軽口に付き合っていた。
そんな様子を戸口から見ていた舜海は、安心したように微笑む。夜顔は人に好かれる空気を持っている。
かつてのように、彼を恐れてひどい言葉を浴びせるような輩はいないだろう。
「お前ら!何勝手なことを言ってんねん!」
竹刀を担いで現れた舜海に驚き、坊主たちは蜘蛛の子を散らすように道場中に散っていった。舜海は夜顔の頭をぽんと撫でると、「動きたくなったら、お前も出てこい」と言った。
「はい」
活気のある打ち合いを眺めながら、夜顔はぼんやりと膝を抱えていた。
「……先生、まだかな」
思わず口から漏れたつぶやきに、自分でびっくりする。もう十七だというのに、僕はなんて甘えん坊なんだろうと、夜顔は首を振って気分を引き締めようとした。その時、道場の戸口に立つ黒装束の男が夜顔の目を引いた。
一ノ瀬佐為が立っていた。
佐為は活気あふれる道場を眺めて、薄く笑みを浮べている。その表情に、夜顔は見覚えがあった。思わず膝をついて立ち上がりかけると、黒装束の男も夜顔に気づいたようだった。
「……あの子か」
佐為は壁づたいに夜顔の元へ行くと、立ち上がりかけて自分を見上げている夜顔の前に立った。
佐為が夜顔を見たのは、貴船の隠れ家に潜んでいた時が最後だ。壊れたからくり人形のようだった夜顔の面影はそこになく、血の通った表情のある少年が目の前にいる。佐為は微笑んだ。
「やぁ」
「……あなたを、見たことがあります」
佐為は夜顔の前に片膝をつくと、その黒曜石のようなきらめきのある瞳をじっと見つめた。
「……上手に喋れるようになったね」
夜顔の中に、金平糖の色が浮かび上がる。そして、自分を手当してくれていた、あの色の白い少年のことを思い出した。
「……さい、さま……?」
「へぇ、僕の名を覚えているのか」
「金平糖を、食べさせてくれた……」
「あはは、よく覚えてるね。……夜顔。立派になったな」
目の前で糸目になって笑っている黒装束の男からは、見て分かるほどの強い霊気を感じた。夜顔はごくりと息を呑み、相も変わらず白い肌を持つ男を見上げていた。
「佐為様……」
「藤之助様は、元気かな?」
「は、はい!」
「そう。それは何よりだ」
佐為は心底嬉しそうな顔をして、笑った。その笑顔から、この青年も藤之助のことを心から慕っていたのだということが分かり、夜顔は嬉しかった。
しかし、佐為の身にまとっている黒装束は今朝方夢で見たものと同じに見え、夜顔の表情が曇る。
「佐為様!まったく、目を離すとすぐに……」
道場に、濃い緑色の狩衣に身を包んだ若い男が顔を出した。夜顔はまたはっとした。千珠の弟、槐だ。
昨日凄まれたばかりなので、夜顔はびくびくと佐為の背に隠れるように引っ込む。槐は夜顔の姿を認めると、気を引き締めるように唇を結び、ゆっくりと上座へと歩いてきた。
「槐。追いついたのか」
「当たり前です。かくれんぼをしているわけじゃないんですよ」
隠れようもなくそばへ寄ってきた槐を、夜顔はこわごわと見上げた。槐はなんとも言えない顔をしていたが、すっと正座をして夜顔の前に座ると、軽く手を着いて頭を下げた。
「……昨日今日と、ご無礼を致しました。兄上の客人と知りながら、失礼な態度を」
「えっ……いいえ……」
夜顔は慌てて槐に倣って正座をすると、礼を返した。しかし何を言っていいのか分からず、ただ頭を下げるのみだ。
「私は、明日都へ発ちますゆえ、ごゆっくりなされてください」
「あ、ありがとうございます」
槐は顔を上げて、不器用に礼をしている夜顔を見た。昨日は泣いていたし、今のこのおどおどとした態度。もう元服もとうに過ぎているだろうに、この幼さは一体何なのだ。
しかし、しっかりとした体つきと、佐為や千珠とも劣らぬ白い肌、つややかな黒髪、漆黒の潤んだ瞳……若い女子が放って置かないような端正な容姿をしている。
なるほど、半妖ゆえか……。
槐がまじまじと夜顔を観察しているさまを隣で見ていた佐為は、じっと二人の動向を伺っていた。千珠から、かつての二人の出会いについては聞いていた。気をつけておかねばと、佐為も思っていたのである。
舜海も、稽古をつけながら二人の行動を見ていた。槐がきちんと詫びている様子を見て少し安堵したが、油断はならない。今、夜顔は少し心を揺らいでいるのだ。何をきっかけに、崩れてしまうか分からない。
「槐、ここは暑い。外で待たせてもらおうか」
「え?そうですか?」
「僕等がいては、皆の気が散る。行くぞ」
「はい」
気を遣ったのか、佐為は立ち上がってさっさと外へ出ていった。夜顔が目に見えて安堵しているのが分かり、舜海は苦笑する。
「あいつ、ちょっとは空気が読めるようになったらしい」と、呟いた。
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