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三十四、夜顔を育んだ里は
再び忍寮に戻ってきた夜顔は、水国のもとに近づいて座った。水国は朝飛と呼ばれていた忍の枕元に座っている。
「先生……」
「うむ」
血の気のない顔を横に倒し、うつ伏せに眠っている朝飛を見つめていると、朝飛の背中のあたりに、ぼんやりとした黒い影のようなものが漂っているのが見えた。夜顔はそれに手を伸ばし、煙を払うように掌で払うがそれは消えようとはしない。
「見えるのか?何か」
「黒い影がある」
「ほう。病魔というやつかな」
「良くないものだ、消えるかな……」
夜顔は手に気持ちを集中させ、じっとその影を見据えた。ぼうっと熱くなってきた手首から先の変化を感じ、夜顔は手刀の形を作ってその影を斬りつけてみた。
すると、あっけなくその影は消えた。
夜顔が目を瞬かせていると、隣で水国が頷く。
「消えたんだな」
「うん……」
水国が再び朝飛の身体を調べ始める。驚いたことに、みるみる刀傷の膿が消え、赤く熱を持って腫れ上がっていた背中が落ち着き始めた。感嘆の声を上げながら、水国は夜顔を見た。
「……素晴らしい。里におった時よりも上手になったな。霊気の操作がうまくなったようだ」
「本当?」
「ああ。もっと修行すれば、沢山の人を救える」
「……そっか」
夜顔は少しばかり嬉しそうに微笑んだ。そこへ、ぱたぱたと珠緒が駆けてくる。湯浴みさせてもらったのか、さっぱりとして着替えもしているようだ。
「よるー」
「珠緒」
夜顔に抱きついて笑顔を浮かべる珠緒は、本当に人形のように愛らしい。夜顔は笑顔になって、珠緒に高い高いをしてやった。きゃっきゃっと声を立てて笑う珠緒を見て、水国も微笑む。
珠緒を追いかけて千珠が部屋へ入って来ると、水国は目を見開いてさっと頭を下げた。
「これは……千珠さま」
「そう固くならないでください。朝飛が世話をかけたのですから」
千珠は落ち着いた声でそう言うと、朝飛を挟んで反対側の枕元に腰を下ろした。千珠は朝飛の首元に触れ、微笑んだ。
「少し熱が下がったような」
「この夜顔が、病魔を斬ったのです。しばらくすれば落ち着いてくるはずです」
「そんなことができるんだな。すごいじゃないか」
にっこりと笑った千珠の美しい笑顔に、水国も夜顔も照れてしまう。夜顔は膝の上に珠緒を乗せたまま、うつむいて言った。
「これで、すこしでも僕の罪が軽くなるなら……」
「できるさ、お前なら」
「……はい」
「よるーあそぼー」
珠緒は夜顔の膝から降り、その着物の裾を引っ張って遊びの催促だ。千珠にもそう言えと言わんばかりの目つきを寄越し、くるくるとした大きな目を瞬かせる。
「あー、ははうえー」
「……だから珠緒、俺は父上と呼ばれたい」
「はっはっは、なんとまぁ、可愛らしいことだ」
と、水国は珠緒と千珠のやり取りを見て大笑いをしている。千珠は苦笑して、
「ちょっと表で遊んでやってくれ。お前のことが大好きなんだよ」と頼む。
「もちろんです。行こうか、珠緒」
笑顔で珠緒の手を引き、外へ出ていった夜顔を見送って、千珠は改めて水国に頭を下げた。
「夜顔を育てていただいて、ありがとうございます」
「いえいえ、そういうことは藤之助に。私はもう高齢ゆえ、後世に医術を伝えるための弟子を欲しただけのこと」
「夜顔は生きる目的を見つけることができた。あなたのおかげです」
「その道を示したのは、あなたじゃないですか。千珠さま。藤之助は今でも、あなたに心から感謝していますよ」
「……藤之助か。また、逢いたいものです」
千珠が懐かしげにそう呟くと、水国は朝飛の汗を拭いながら言った。
「我らの里へ、いつかぜひいらしてくださいませ。何もない田舎ですが、水は美しく作物は豊かだ。きっと、心身が休まりますよ」
「そうですか。いつか、そんな日が来るといいな……」
夜顔を育てた里。見てみたかった。
どんな風景が、どんな空気が夜顔を包み込んでいるのかを。
きっと、都とも能登ともまた違った風景が彼を迎えてくれたことだろう。
ことばの拙い幼い夜顔を排せず、受け入れて役割を与え、育んでくれた暖かい里なのだろう。
千珠は笑みを浮かべて、そんな風景に思いを馳せた。
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