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三十五、宴の席

 明日は佐為、槐、石蕗が都へと発つ日である。水国は、その日に合わせて自分たちも里へ帰ると決めていた。長く里に医師がいないというのは、きっと皆が心細かろうという思っていたし、夜顔が藤之助を恋しがっているからだ。 「見送りも一度で済んでよかろうて」と、水国は夜顔に笑って言った。  その晩は、簡素であるが宴が催されることになっていた。朝飛が負傷しており、子どもたちが沈んでいるという状況であるが、佐為や槐は大切な客人であるため、彼らを見送るための宴席はしっかりと設けられたというわけだ。  雑仕女たちが着々と支度を整えている様子を、千珠は庭木の上に座り込んで眺めていた。遊び疲れた珠緒と夜顔は揃って眠ってしまい、宇月はそんな二人のそばについている。きっと忍寮でも、白蘭と白露が眠っていることだろう。 「うわっ!なんちゅうとこにおんねん!猫か!」  足元から舜海の声がした。見下ろすと、舜海が懐手をして千珠を見上げ、呆れ顔をしている。 「お前か」 「今日は忙しかったな」 「ああ、そうだな」  千珠はひらりと音もなく木から降りると、舜海の隣に立って木にもたれ、腕を組んだ。 「槐は夜顔のことを認めたらしい。さっきそう話しとった」 「へぇ、そうなんだ」 「お前らみたいな家族を作りたいって思ったんやって。祝言にも迷わず向き合えそうだと言っていた」 「そっか。何よりだ」  千珠は微笑む。 「今夜の宴には来るんやろ?」 「そうだな。槐がまたへそを曲げても困るから」 「はは、それがええ」  どこかすっきりしない表情の千珠を舜海がじっと見ていると、千珠はちらりと舜海を見上げてそっぽを向いた。 「なんだよ」 「次は何を悩んでんねん」 「え?」 「すっきりせぇへん顔して」 「……別に」  舜海は千珠の肩に触れて、ぐいと自分の方へと向かせる。千珠は舜海に触れられたことに驚いたのかびくっと身体を揺らし、大きな目で舜海を見上げる。  ここ数年努めて千珠に触れないようにしてきた舜海にとって、そういった千珠の反応には戸惑いを覚えてしまう。しかしそれは、千珠にとっても同じだろう。 「……あ、悪い……」  思わず舜海は謝罪の言葉を口にして、千珠から手を離した。 「いや……。ここじゃ話しにくい」 「そっか」 「あの廃寺……まだあるかな」  千珠は、やや遠い目をしながら、舜海を見ずに呟く。 「え?」  二人の視線が絡み、舜海はどきりとした。  千珠を護衛するために利用していたあの廃寺での出来事を、否応なく鮮明に思い出してしまう。  意味有りげな視線を舜海にやりながら、千珠はどことなく淋しげな色をも浮かべて瞬きをした。 「……まだ、あるんちゃう?」 「では丑三つ時に……そこへ来てくれないか」 「お、おお。ええよ」  舜海の返事を聞くと、千珠はすいと身を翻して行ってしまった。  こんなにも丁寧に千珠が頼みごとをしてくることも珍しい上に、あの場所は二人にとっては様々な色合いを持つ場所でもある。戸惑いつつも、千珠の願いには逆らえない。  甘い呪縛の鎖が、久方ぶりにはっきりと見えた気がした。  ❀ ❀ ❀  その晩、まだ日が暮れきる前から宴席は始まった。ひぐらしの声が涼やかに響く中、皆が車座になって板の間に座り込み、めいめい和やかに酒を酌み交わしたり、並べられた食事に箸をつけては思い出話に花を咲かせる。宴と呼ぶような派手派手しさはないものの、穏やかな語らいの時間が流れていく。  槐は、隣に座る兄の穏やかな笑みを見ているだけで満足だった。当たり前のようにそばにいて、同じ時を共有していることがすでに贅沢なことのように感じられるのだ。  佐為は千珠ににじり寄り、いつになく楽しげに昔の話を語らっている。こんなにも寛いだ表情の佐為を見るのは初めてで、佐為がいつか千珠のことを同胞だと話していたことを思い出す。槐の知らない話もたくさんある中、それを語ってくれる者は少なかったため、槐は新鮮な思いでその話に耳を傾けていた。  まだ少年だった頃の千珠の話など、滅多に聞けるものではない。その場に座している光政、舜海、柊そして佐為達は、皆が同じ時代を駆け、戦ってきたのだ。  夜顔や水国は、別の部屋で珠緒と遊びながら、宇月、山吹、石蕗たちと過ごしているとのことであった。柊の子どもたちもそこにいると聞いていた。槐は、夜顔のことは強いて考えないようにしていた。  歩み寄ったものの、やはり夜顔を見ていると不思議と腹の中がざわついて、どうしても不穏な気持ちになるのだ。しかし千珠の大切な客人ということもあり、これ以上槐としてもことを荒立てたくはない。 「次はいつ会えるかなぁ。千珠、たまには都にも来てくれよ」 と、佐為はいつものごとく絡み酒で、千珠の首に腕を回してはそんなことを淋しげに言っている。千珠は辟易するでもなくそんな佐為に付き合って、酒を注いでやったりしている。 「まぁ、珠緒をまだ父上に見せていないからな。その内行きたいとは思っているが……」 「そうなの?じゃあ涼しくなったらすぐにでもおいでよ。業平様も風春様も喜ぶよ」 「そうだな。皆にも長いこと会っていないし」 「何の事件もないときに都へ出向くなど、初めてですねぇ」 と、柊が静かに酒を口にしながらそう言った。光政も頷いている。 「お前を都へ送るときは、決まって何かしら面倒があったときだったものな」 「よしてくださいよ、それじゃ神祇省始め陰陽師衆の立場が無いです」 と、槐は苦笑した。 「まぁでも実際、陀羅尼事件、陰陽師衆内乱、十六夜結界……と大きな事件の時は必ず千珠を呼んでいるな……」  佐為は指を折りながらまたちびりと酒を舐める。 「千瑛殿が千珠に会いたいがために、勅令を利用することもしばしばだったけどね」 「父上が?」 と、槐が驚く。槐から見ても、前神祇省長官である父・源千瑛は常に冷静で的確な判断を行う常識人である。わが子会いたさに帝や国を通して千珠を都へわざわざ呼ぶといった、派手な公私混同をしでかすような大人には見えない。  しかし、遠くに暮らすわが子を思えば、あの真面目な父親も親馬鹿になってしまうということなのかと、槐は苦笑した。 「あのちびこかった餓鬼が、今はこうして神祇省の神官で、半月後には祝言か。信じられへんなぁ」  舜海がしみじみといった口調で、槐の盃に酒を満たした。危うくこぼれかけた酒を、槐は慌てて口で受ける。 「舜海さまにもお世話ばかり掛けてしまいましたね」  槐はつい先日の兄弟げんかの後のことを思い出しながら、そう言った。舜海は首を振って、 「ええねん。これからはそういうことも出来ひんくなると思うと、寂しいもんやな」 と、珍しく湿っぽいことを言う。 「なんや、舜海。酔ってんのか?」  柊がからかうと、舜海は少しばかり赤い顔でちらりと柊を軽く睨む。 「これくらいで酔わへんわ。千珠と一緒にすんな」 「そういえば、兄上は飲まれないのですね」  槐が千珠を見上げると、千珠は苦笑いを浮かべて首を振る。 「俺は飲めないんだよ」 「そうなのですか?……そういえば、酔うとご様子が変わると聞いたことが……」 「ああ、もう千珠はすごいよ。誰彼かわまず唇を奪おうとしたり、人を投げ飛ばしてみたり、それが終わるとすぐ寝ちゃって……」 「おい、お前には言われたくないな」  ぺらぺらと千珠の醜態を槐に喋り始めた佐為に向かって、千珠は唇を尖らせた。槐は目をまん丸にして千珠を見上げる。 「そうそう、俺は投げ飛ばされた口ですよ」 と、柊。 「風春様にも襲いかかってたっけ」 と、佐為。 「寝かせてやろうとしたら、気持ち悪いだなんだ言い出して泣くしな」 と、舜海も腕組みをする。 「何だ、お前はおとなになってもそんなだったのか?情けない奴だ、ははは」 と、光政も驚いているようだ。 「ああもう、五月蝿いなぁ!誰だって弱点の一つや二つあるだろうが!!」  千珠はたまりかねたように声を上げると、ふくれっ面をして各人を睨んだ。槐が笑い出すと、皆も釣られて笑い出す。 「いやまぁ、そんなの可愛いもんだ。僕も一度くらい唇を奪われても良かったんだけどね」  佐為が目を細めてにやりと笑い、顔を近づけると、千珠はぐいとその顔を掌で押し戻した。 「もう寄るな。酒臭いぞ」 「つれないなぁ。いいじゃん、一回くらい」 「何でだよ!槐の前で……」 「佐為様、おやめくださいませ」  槐は酒のせいか照れているせいか、目尻を赤く染めて佐為をたしなめた。佐為は上機嫌に笑って、千珠から離れる。  皆が笑っている。  からかわれて不機嫌な表情を浮かべつつも、千珠はとても楽しそうだった。  千珠の過去の苦労は聞いている。  人間であり、生まれた時から家族に囲まれていた槐にとって、千珠の気持ちは想像の範囲を出ないが、それでも今のこの楽しげな笑顔に囲まれた兄を見ていると、幸せだった。  それでもやはり、もっと一緒に居たかったと思うのは我儘だろうかと、槐は誰にともなく問いかけた。

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