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三十六、朝飛のことば

 珠緒が眠ってしまったので、夜顔は朝飛の容態を見ようと忍寮へとやって来ていた。  水国は若い女性たちに酒を注いでもらい、いつになく楽しげに酔っ払っていた。夜顔はそんな師匠の楽しげな姿を見て、邪魔をせぬよう何も告げずに忍寮へやって来たのだった。  朝飛は身体を横に向けて眠っている。桶の水を替え、夜顔は再び手ぬぐいで朝飛の額の汗を拭ってみると。その時触れた額からは、昼間のような高熱は引き、呼吸も穏やかである。 「……あんたが、治してくれたんやって?」  目を閉じたまま、朝飛が口を動かす。夜顔は仰天して、思わずその場に尻餅をついてしまった。すっと切れ長の目を開いた朝飛が、夜顔を見上げて微笑んだ。 「あんたが夜顔か」 「あ……はい……良かった、熱が引いて」 「ありがとうな。忍が背中を斬られるなど、お恥ずかしいところを見せてしまった」 「いいえ……子どもたちを守りながら戦ったのでしょう?皆無事ですよ」 「良かった……本当に」  朝飛はため息をつきながら目を閉じた。 「せっかく、あんなにも穏やかに笑うようになった千珠様のお顔を、曇らせてしまったらどうしようと思ってたんや」 「え?」  朝飛は目を開け、夜顔の黒い瞳をまっすぐに見上げる。 「俺な、昔あの人のことを追っかけて、能登へ行ったことがあんねん。その時俺は、あの人の戦いをしっかりこの目で見た。あれは、あの人が人の世で迷い苦しみながらも、罪を背負ってでも前を向こうと決めた戦いやったんちゃうかなて、思ってる」 「罪を背負って……」 「あの人はいつも苦しんでたと思うねん。俺らの前ではそんな顔見せへんようにしてはったと思うけど、能登で見たあの人の涙……忘れられへん」 「……」 「夜顔はんも、何やよう知らんけど、色々と辛いことがあったらしいな」 「はぁ……」 「あんたも、幸せになれるといいな」 「え……?」  朝飛は微笑んだ。 「あんたも千珠さまも、同じ宿命背負ってはるんやろ。でも……きっと、幸せになれる」 「……そうかな」 「人生は長い」  朝飛は笑顔を見せて、また痛そうに顔をしかめた。夜顔は慌てて朝飛の傷を気遣う。 「……あんたはまだ若い。道に迷ったら、またここへ来たらいい」 「はい……ありがとうございます」  朝飛の傷をさすりながら、夜顔は涙をこらえていた。  何で皆、この国の人達は自分のような者に寛容なのだろう。きっとこの人もあの山吹という女性も、自分の罪を知っているはずなのに、何であんなにも皆が優しいのだろう。  ――藤之助だって……水国先生だって……知っているはずなのに。俺が、咎人で、半妖だって……。  何で何で、皆僕に優しくするんだろう。  夜顔は、そう思わずにはいられなかった。朝飛はそんな夜顔の表情を見上げて、言った。 「……どいつもこいつもお人好しだ、妖の俺を、こんなになってまで守るなんて……」 「え?」 「怪我して寝てた山吹や俺の前で、千珠さまはちょうどあんたとおんなじような顔してはった」 「……」 「その時千珠さまにも言うたけどな。それは皆が、あんたのことを好きやからやで。過去より、今が大事やと思わへんか?」 「……今、ですか……?」 「ああ。あんたは愛されてるんや、皆にな」 「……そうなのかな……そうだといいなぁ……」  夜顔はついに泣きだした。  早く早く、藤之助に会いたかった。咲太にも、都子にも。  あの里で得た平穏な時間と、敵意のない人々の優しい笑顔が、見たかった。  しくしくと泣きながら、涙を拳で拭っている夜顔を、朝飛はじっと見上げていた。  能登での千珠の姿を、思い出しながら。

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