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三十七、やくそく
皆が寝静まった頃、千珠はそっと城を抜けだして夜道を疾走った。
宴のあと、佐為と槐は次の日の出立に備えて早めに床に就き、皆がそれぞれの自室へ帰っていった後、酔っていない千珠は見廻りに出るといって一人城を出てきたのだ。
こうして廃寺へ向かうのは、一体何年ぶりだろうか。森へ向かう道はまだ軽く泥濘んでいたが、千珠は泥水を跳ね上げることもなく身軽に疾走った。
廃寺は、かつてと変わらぬ様子でその場にあった。
もっと荒れ果てているかと思っていたが、もともと涼しく風通しのいい日陰の中だ、苔むすこともなく廃寺はその姿を保っている。
石の階段を登り、本堂への扉を開くと、少しばかり黴臭い空気の匂いが鼻をついた。
すでに一本の燭台に火が灯り、その前に舜海が座っている。今は姿なき本尊が安置されていたであろう場所に向かって、合掌している広い背中が見えた。
「もう来てたのか」
千珠の声が、広い堂の中に響く。ゆっくりと振り返った舜海が、微笑んだ。
「おう、ついさっきな」
「山吹は?」
「あいつは城で宇月たちと休むってさ」
「そっか」
千珠は舜海の後ろにあぐらをかいて座り込んだ。振り返って座り直した舜海と、真正面から向き合った。
お互いの視線が絡む。こうして二人きりで向かい合うなど、本当に久しぶりだ。
舜海の黒く雄々しい視線を真正面から受け止めることに千珠はやや照れてしまい、目を伏せた。
長い睫毛が、すっきりとした頬に影を落とす。
「お前、いくつになったんやっけ?」
「……二十七だ」
「見た目、変わらへんな。あんまり」
「そうか? お前だって大して変わってないぞ」
「まぁ常日頃動きまわって鍛えてるからな。若いもんに囲まれとるし」
舜海は笑った。そんな笑顔に、千珠もつられて微笑んだ。
燭台の火に照らされた千珠の顔は、以前よりもぐっと穏やかで満ち足りている。尚も艷やかな肌や銀色の髪は、少年の頃のままだ。くりくりと丸く大きかった目元や頬がすっきりとした以外は、千珠の容姿はほとんど変わっていないといってもいい。
美しい。その一言に尽きる。
舜海はそう思った。
片耳になった赤い石が、きらりと揺れる。千珠の琥珀色の瞳が、舜海を捉えた。
「俺、槐に嘘ついているかな?」
「え?」
「東本願寺で夜顔に殺されそうになったあいつに、本当のことなんか言えなかった。夜顔の罪について、俺は嘘をついてしまった」
「嘘……ねぇ。というより、敢えて知らせることでもないやろ」
「槐は本能的に夜顔を恐れている。その気持ちの正体がわからなくて苛立っているのも分かる。でも……」
「何でもかんでも真実を伝えればいいってもんでもないやろ? 槐と夜顔は、きっと今後もう会うこともない。それやったら、お互いに心静かに暮らせるように、こっちが気配ってやるんも必要なことちゃうか?」
舜海のはっきりとした言葉に、千珠は目を上げる。舜海はまっすぐに、その琥珀色の目を見つめていた。
「……そうか。うん……」
「お前、不器用にも程があるやろ」
「五月蝿いな。俺にとっては、二人共弟みたいなもんなんだ。気を遣って当たり前だろ」
「お前の辞書に気遣いという言葉が増えたんなら、それは大いなる成長やな」
「五月蝿い」
悪態を吐くものの、千珠は安心したように微笑んでいる。長い髪をかきあげて、千珠は燭台の火を見つめた。
「……ややこしいことをしたもんだ、若いころの俺は」
「まぁな。ま、でもあんなに立派に育ってるんや。いい機会を与えてやったと思うけどな」
「そうだといいな……。可愛いよな、夜顔は」
「そんなん聞いたら槐が拗ねるぞ」
「はは、言わないように気をつける」
千珠が笑うと、その場が急に華やぐようだ。舜海はその笑顔に心を持っていかれるような気持ちになり、ぎゅっと目を閉じて顔を背けた。
「……どうした? もう二日酔いか」
「ちゃうわ。そんなに飲んでへんし」
「年には勝てないか」
「そんな歳でもないっちゅうねん、阿呆」
千珠の憎まれ口が懐かしい。
そんな笑顔で、俺を見ないでくれ。
抱きしめたくなるから、やめてくれ……舜海は膝の上の拳を握り固め、必死で己を律していた。
すると千珠は、燭台の明かりを見つめながらこんなことを言った。
「……俺は妖ものだ。多分、お前ら中の誰よりも長生きするだろうな」
と、千珠がぽつりと呟いた。
「え?」
「宇月も、お前も、光政も柊も……おそらくこれから、俺は沢山の死を目の当たりにしなきゃならない」
「おい、勝手に殺すな」
「はは、すまん」
千珠は笑いながら、両手を後ろについて長い脚を投げ出した。そしてふと、暗い天井を見上げる。舜海は少しばかり物寂しげな千珠の顔を見つめ、こんなことを言った。
「お前には珠緒がおる。白蘭や白露もおる。忍衆の若いもんも増えて行っとるし、光喜殿のこともお前が守っていかなあかん。悲しんでる暇もないんちゃうか?」
「……そうだな」
「どうしたんや。突然そんなことを言い出すなんて」
「……いや、槐が祝言をあげるというので、ちょっと感傷的になったかな。……あいつにもそのうち子どもができて、またひとつ世代が増えていくんだ」
「そうやな……。そうやって、命は続いていく」
千珠は目を伏せたまま微笑み、微かに入ってくる涼風に銀髪を揺らす。舜海はつとめて明るい声で、話題を変えた。
「しかし、お前も、弟の晴れ姿が見たかったやろうに」
「そうだけど、神祇省の宴に鬼が出ては大騒ぎだろ」
「それはそれで、おもろそうやけどな」
舜海の言葉に、千珠は笑う。
徐々に寛いだ雰囲気になっていくに連れて、舜海は気を引き締めて自分を戒めた。この間、一度千珠に触れてしまって以降、どうしても千珠との距離を意識してしまう。
何かに逡巡している様子の舜海を見て、千珠は少し目を細めた。
「……まだ俺に触れたいと思うか」
「……阿呆。もうそんなことはせぇへん」
「理性的になったじゃないか」
「やかましい」
「でも俺は、今でもお前を美味そうだと思う」
「そうかよ」
「何なら今、お前の肉ごと喰ってやろうかと思うほどだ」
「……俺はいっそ、そっちのほうがありがたい」
ため息混じりにそんなことを言う舜海を目の当たりにして、千珠の顔が、はたと真面目な表情に変わる。
舜海はつらそうな顔を少し伏せると、唇をぎゅっと結んだ。
「ほんまに、お前の一部になれたらどんなに楽か」
「……お前、何を」
「千珠」
つと顔を上げてまっすぐに千珠を見つめる舜海の目は、ひどく真剣で猛々しく見えた。千珠はどきりとして、身を起こす。
「……なぁんてな、お前に喰われる予定は今のとこない」
「へ?」
にやりと笑った舜海に、千珠が呆けた声を出す。
舜海はからからと笑って、立ち上がった。
「ま、俺が死ぬときは腹いっぱい喰ってもうたらええけどな」
「……馬鹿、お前の死肉など、こっちから願い下げだ」
千珠は拍子ぬけたような、腹を立てているような顔をしてつんとそっぽを向いた。
舜海は笑いながら千珠に背を向けて、細い格子の隙間から見える薄曇りの空を見上げた。深い暗闇の中、空の色だけが少し薄く霞んで見えた。
ふと、背中にあたたかなものが触れる。
それが千珠の手だと、すぐに解った。舜海が振り返らずにいると、千珠が舜海の背に身を寄せて、額を肩口に埋めているのが伝わってくる。
千珠の花のような匂いが、舜海の鼻をふわりとくすぐった。
「……何してんねん」
「俺は今でも、お前を恋しく思うよ」
「えっ?」
「満月が巡ってくるたび、お前のことを恋しいと思う。……言い訳などすべてかなぐり捨てて、お前に抱かれたいと身体が騒ぐ」
「……千珠?」
そっと後ろを振り返ると、舜海の背中に顔を埋める千珠のつむじが見える。どんな表情をしているのか……舜海はその顔が見たくてたまらなくなり、そっと身体の向きを変えて千珠と向かい合った。
「……何を言い出すねん。お前……」
「夜顔がここへ来てからずっと、昔のことばかり思い出していた。戦のこと、都であったこと、能登であったこと、お前との、時間……」
「……」
「お前が好きだよ、舜。愛している」
「っ……」
あいのことばを口にしているというのに、千珠の表情はひどく悲しげだった。
もう戻れない時間を切なく思っているのか、または自分の選んだ道を悔いているのか……その表情の意味は、舜海には到底推し量れるものではない。
しかし、千珠のことばは純粋に、舜海の胸を打った。
舜海にとってもまた、千珠は何にも代えがたい宝。愛おしい存在だからだ。
「千珠……」
「人の世へ来て、大切な物が増えすぎた。そして俺は、そのどれか一つだけを選び取ることができなかった大馬鹿者だ」
「え……? どういう意味や」
「宇月のことも、珠緒のことも、命に変えてもいいと思えるくらいに大切だ。でも俺はこの期に及んでまで、お前の心を求めてる」
「……」
「心だけじゃない。お前の、すべてを」
うるり、と千珠の目が揺れる。澄んだ琥珀色の鮮やかさが、舜海にはひどく懐かしかった。
こうしていつも、この距離で、千珠のことを抱きしめていた。千珠のためと言いながら、自分の欲を満たしていた。
千珠のことが愛おしいのに、誰にも渡したくなかったのに、千珠のためと自分をごまかして身を引いた。
ふらふらとまた千珠の元へ戻ってしまわないように、山吹を利用した……。
「……俺は、弱くて、最低な男や」
「え?」
「結局……全部中途半端で、宙ぶらりんで……お前のこと、俺だって、こんなにも求めていたのに」
「舜?」
後悔ばかりが、舜海の心を苛む。
山吹への申し訳なさにも、胸が痛む。人のためと言いながら、それは全て逃げ道だ。もう届くことのない気持ちを遠ざけるための、自分勝手な言い訳だ。
「俺も、お前が今でも愛おしい。でも、もう戻れへん。お前には家族がある。それに、俺にも守るべき女がいる」
「……そうだよな」
「お互いに、もっと素直になれていたら良かったんやろうな。今更になって、そんなことに気づくなんて」
「うん……」
二人はそっと身を寄せて、遠い昔を懐かしむように抱きしめ合った。
千珠の手が、ゆっくりと舜海の袖の下から背に回る。互いの体温を感じ、鼓動を聴き、目を閉じる。
蘇るのは、ここで何度となく逢瀬を繰り返した若き日の思い出ばかり。
つ、と千珠の目から涙が溢れ、舜海はぎゅっと千珠の身体を抱く腕に力を込めた。
「……生まれ変わったら、只人になりたい。男でも、女でもいい……ただの人間として、お前と同じ人間となって、お前と共に歩めたら……」
「……うん」
「そのときはお前が、俺を見つけてくれるだろう? 舜……」
「見つけられるやろうか……お前を」
「お前なら、見つけ出せるはずだ。俺が気づかなくとも、お前はきっと、俺に気づく」
「……そんなん、分からへんやん」
「分かるさ、きっと。だってお前は、俺のもの。その肉体も、霊力も、魂も……全て俺のものだ」
どくん、と舜海の心臓が跳ねた。
ぎゅっと舜海の衣を握り締める千珠の手の動きが、あたたかく伝わってくる。
「……お前は俺のものだ。ずっと……ずっと、俺はお前と、一緒にいるんだ」
舜海は我慢ができずに、ついに千珠の唇を自らのそれで塞いだ。数年ぶりに自分の腕の中に収まっている千珠の身体を慈しむように、大切に、思いを込めて抱きしめながら、深い深い口づけを交わし合う。
「……千珠」
「来世でも、俺のそばにいてくれるだろ? ……舜」
「……あぁ、いる」
「こうやって、ちゃんと……掴まえててくれ」
「ああ……」
懐かしい、感じ慣れていたはずの唇。赤く艷やかで、媚薬を含んだような千珠の唇だ。
重なりあう二人の呼吸が吐息となって、広い堂の中に響いた。
千珠の指が舜海の頬に触れ、舜海は更に強く千珠の腰を引き寄せて、か細い千珠の身体を抱きしめる。
愛おしい、心の底から愛おしい。
今でも……。
「……千珠」
耳元で囁く声に、千珠は身を震わせる。首筋に降る舜海の唇を受け止めながら、千珠は細い格子の向こうに見える夜空を見上げた。
少し熱い身体、力強い霊気、舜海の匂いが記憶とともに千珠の心を揺さぶった。舜海の骨ばった大きな手が、もう一度千珠の頬に触れた時、ぴたりと動きが止まる。
「……何で、泣いてるんや」
「……え?」
濡れた頬を指で拭ってもらいながら、千珠は間近にある舜海の黒い瞳を見あげた。
瞬きするたびに、ぽろぽろと涙が溢れてくる。濡れる長い睫毛に縁取られた千珠の目が、水鏡のように舜海の瞳を映している。
「分からない……分からないよ」
両手で千珠の頬を包み込み、溢れだす涙を唇で受け止める。千珠は舜海の襟をぎゅっと掴んで、唇を噛んだ。
「……泣いてても、きれいやな。お前は」
「……分かってる」
「ははっ、そうか」
「今だけは、俺のことだけ、考えていてくれ。俺だけを見て、俺だけを感じて……」
「……ええんか?」
「抱いてくれ、舜。……これで最後だ。お前の全てを、俺に刻み込んで欲しい」
涙を流し、切なげに訴える千珠の美しさはまさに魔性。舜海は我を忘れ、千珠の唇を割って舌を差し込むと、思う様千珠の口内を味わいつくした。
千珠は熱い熱い吐息を漏らしながら、舜海の逞しい身体に縋って甘えた。少年の頃のように、舜海を求めて。
袴の帯が解かれることも、千珠は嫌がらなかった。白い単一枚になり、裸体を露わにされ、舜海の手が直に肌を撫でることに千珠は歓喜し、髪を振り乱してその心地よさに酔いしれた。
愛している。
ずっとお前を、護っていてやる……。
声にならなくとも、千珠には舜海の声が聞こえていた。
来世でも、必ずお前を見つけ出す。
必ず……。
痛みを伴って伝わる声に、千珠は目を閉じて頷いた。また一筋、涙が頬を滑り落ちる。
「舜……愛してる……」
汗ばんだ舜海の肩口に顔を寄せて、千珠は呟いた。荒い吐息の下、舜海にその声は聞こえただろうか。
繋がり合った身体と身体で、互いの気持ちを確める。
涙で湿った塩辛い唇が、そっと、互いを慈しみ合うように重なった。
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