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三十八、帰る場所
翌朝は、気持よく晴れた夏空だった。
澄み渡った朝の風につられて空を見上げると、薄い雲がふわふわとはるか上空を漂っているのが目に映る。蝉の声が響く中、太陽が燦然とあたりを明るく照らしている。
夜顔は気持ちの良い空を見上げて、少しばかり気持ちが軽くなったような気がした。眼を閉じて、思い切りその空気を吸い込む。
昨晩一緒に眠っていた珠緒が、もぞもぞと起きだした。そして、とてとてと夜顔のもとへ歩いてくる。
「よるー」
「珠緒、おはよう」
「おあよー」
「わぁ、上手に挨拶できるじゃないか!宇月さまに教えてあげないと」
拙い言葉で夜顔の口真似をする珠緒が可愛らしく、珠緒を抱き上げて頬ずりする。きゃっきゃと声を立てて笑う珠緒の笑顔は、千珠のものとよく似ていた。
「珠緒、しばらくお別れだよ」
「……」
何を言われているのかわからないらしく、珠緒は大きな目できょとんと夜顔を見上げていた。珠緒の頭を撫で、夜顔は縁側に座った。
「僕は、僕のおうちに帰るんだ」
「おうち?」
「そう。珠緒のおうちはここだろう?」
「おうちー。よるも」
「ううん、ここは僕のおうちじゃないんだよ」
「よるも、ここー」
「……困ったな」
不安げな顔で夜顔にすがりつく珠緒を持て余し、夜顔は困った顔をしている。そこへ、ふわりと千珠が現れた。一体どこからやってきたのかと、夜顔は仰天して辺りを見回した。
「千珠さま。おはようございます」
「おはよう。よく眠れたか?」
にっこりと笑う千珠の笑顔は、真夏の太陽に負けないくらいに眩しい。夜顔は少しばかり照れてしまい、頬を染めてちょっと笑った。
「はい、おかげさまで」
「よかった。長旅になるものな」
「あの、珠緒が……」
困った顔の夜顔と、泣きそうな珠緒の顔を見比べて、千珠は苦笑した。珠緒を抱き上げ、千珠はじっと同じ形の珠緒の目を覗きこむ。
「珠緒、夜顔とはしばらく会えないよ」
「いやー、よるとあそぶのー!」
「しばらく遊べないんだ。夜顔にも、早く帰って会いたい父上がいるんだからな」
「いやぁー!」
夜顔ははっとして、千珠を見あげた。
父上……藤之助のことだ。
「ま、あんま難しいことは分かんないか」
と、千珠は泣き喚く珠緒を抱っこしたまま、苦笑いする。
「いやー!たま、よるとあそぶのー」
「おお、自分のこと、たまって言ったな。偉いぞ、珠緒」
「いやぁあああん!」
大泣きしている珠緒を抱きながら、千珠は喜んでいる。夜顔はそんな風景が楽しくて、思わず笑った。
夜顔の笑っている声と顔を見て、ふと珠緒が泣き止んだ。夜顔は立ち上がって、千珠に抱かれている珠緒に歩み寄ると、そっと額をくっつけた。
珠緒はしばらくきょとんとしていたが、夜顔につられて目を閉じる。
そんな二人の無言の会話を、千珠はじっと見守っていた。
かつて、自分と夜顔がこうしていたように、きっと二人の間にも声無き会話があるのだろうと分かっていたからだ。
「……大きくなったら、また会おう」
「……お前」
夜顔があまりにも自分と同じ事を言うため、千珠は驚いていた。何か記憶が残っているとでも言うのだろうか。
すっかりおとなしく聞き分けよくなった珠緒は、こっくりと頷いて千珠の髪を握り締める。夜顔が笑顔になると、珠緒も笑った。
「夜顔、お前はすごいな」
「そうですか?」
「お前と遊んだこの数日で、珠緒は随分言葉を喋るようになったよ」
「きっと、僕が幼いからですよ」
「本当に、大きくなったらまた会ってやってくれ。俺も会いたいしな」
「はい……もちろんです!」
千珠の言葉に、夜顔はほこほこと胸の中があたたまるのを感じていた。珠緒の頭を撫で、夜顔はぺこりと千珠に一礼した。
「……本当に、ありがとうございました」
「何が?」
「……千珠さまに救われた命なんだ。僕、しっかり前を向いていきていこうと思います」
はっきりとした口調でそう言い、顔を上げた夜顔の表情はいつになく精悍だった。千珠は思わず泣きたくなるほどに、それを誇らしいと思った。
思い悩みながら夜顔の命を救うために奔走した、十年前の陰陽師衆動乱の日々を、えらく近しく感じた。
あの日、涙を流しながら人を殺していたあの獣のような夜顔が、意思を持って生きている。
千珠は言葉に詰まって、夜顔を見つめていた。
「僕、強くなります。医術も、しっかり勉強します。それでいつかまた、千珠さまのお役に立ちたいんです」
「……夜」
「まだまだ、僕は多分いっぱい悩んだり泣いたりすると思う。でも、千珠さまもそうやって大きくなったんでしょう?だから、僕も頑張ります」
「……そっか。それがいい」
千珠の目が潤んでいるのを見て、夜顔ははっとた表情で千珠を見つめる。
「どうしたんですか?」
「いや……ちょっと、嬉しくて」
夜顔は少しまた照れたように笑うと、
「舜海さまが、千珠さまは泣き虫だとおっしゃってましたが、そうなのですね」
と、言った。
「嬉しくても、人は泣くのですね」
「……そうだよ。これは嬉し涙だ。気持ちがいいもんだぞ。……しかし舜海のやつ、余計なことを」
「千珠さまは、お優しいんですね」
「……まぁ、そういうことにしておこう」
「ああーははうえーまんま」
珠緒が千珠の髪を引っ張って、空腹を訴えている。千珠は笑って、珠緒の身体を大きく揺すってやった。また楽しげに笑う珠緒の声が庭に響いた。
「だから珠緒、俺は父上だってば。母上は宇月だろ」
「ちちうえ、って言い難いんですよね」
と、夜顔が笑いながら言った。
「発音が難しくて」
「そうなのか?じゃあいいか、しばらく母上で」
「千珠さまはおきれいだから、間違ってるんですよ」
「なるほどね」
千珠はさもありなんという表情で頷くと、夜顔を促して食事を取りに城の中へと入っていった。
珠緒の明るく幼い笑い声を、楽しく響かせながら。
❀ ❀
一方、すでに朝餉を取り終えていた槐、佐為、石蕗は身支度を整えながら離れの空気を入れ替えていた。
午前中の涼しい風が、ここ数日寝間にしていた離れの部屋を、清めるように吹き抜ける。
佐為は一人腕組みをして縁側に立ち、庭を眺めている。そんな佐為の後ろ姿を見上げて、槐は唐櫃の蓋をきっちりと閉めた。
「佐為さま、どうされたんです?」
「いや……この国は、実に美しいなと思ってね」
「確かに、潤い満ちて、気持ちの良い国です」
「槐、祝言をあげたら、なかなかここへは来れなくなるよ。しっかり見ておくことだ」
「はい。ちょっと、散歩してきます」
佐為に軽く一礼し、槐は草履をつっかけて出て行った。離れに石蕗と二人残った佐為は、浮かない顔をしている石蕗を見て眉を下げる。
「……君には、酷な数日だったな」
「いいえ……。槐とこんな遠出をすることも、もうないですから……いい思い出になりました」
「想いを伝えられないというのは、苦しいもの?」
「そうですね……。でも、ここで私が想いを告げたところで、どうなるものでもありませんし。妾になる気もありません」
「あはは、しっかりしているね」
「はい。ここで負けては、女が廃ります。……私も、気持ちを切り替えていくつもりです」
「そう、女は強いな」
舜海は……きっと今も千珠を想い続けているというのに。
と、佐為は舜海と千珠のどうにもならない関係を思った。
千珠には妻子があり、舜海も山吹との暮らしがある中でも、二人のつながったままの絆は、佐為の目にははっきりと手に取るように見えるのだ。
「佐為さまは、所帯をお持ちにはならないのですか?」
「僕?そうだな……その気はないな」
「業平様に言われませぬか?」
「うん、しょっちゅう言われるけどね。まぁ、今世では無理だろうな。人を愛する気持ちっていうのは、どうも難しそうだから」
「難しそう?」
「……僕、よく分からないんだ。人の気持ちとか、そういうものが」
「そうなんですか?」
「君が槐を思う姿を見て、少しは想像できたけどね。それも想像だ、身をもっては分からない」
「……そうですか」
「ひょっとして、槐はやめて僕のことを好きになろうとしているのかい?」
振り返ってそんなことを言う佐為を、石蕗はきょとんとして見あげた。そして、少し微笑む。
「そんな恐れ多いこと、できませぬ。佐為さまだって、私に興味などおありじゃないでしょうに」
「……まぁね。興味か」
「まずは興味が沸かねば、愛や恋は生まれませぬから」
「なるほど」
「もし私にご興味が沸かれましたら、また仰ってくださいませ」
「そうするよ。何年先か分からないけど」
「ちょうどいいですよ。そのころまでには、きっと槐への思いも片付いておりましょう」
「忘れるのにも、そんなに時間がかかるのか。……まったく、人というのは難しい」
「まったくでございます」
大きく頷く石蕗に、佐為は優しく微笑んだ。石蕗も微笑みを返して、そして少し寂しげに、目を伏せる。
何も知らない槐のことを、佐為は少しだけ哀れに思った。
こんなにも想いを寄せてくれる相手がいるというのに、それに全く気づかないなんて、と。
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