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三十九、忘却の彼方へ
いよいよ、槐たち、そして夜顔達の出立する刻限になった。
すっかり身支度を整えた一行は、城門の下に並んで一礼する。見送る一行も、ずらりと勢揃いだ。
「お世話になりました」
一行を代表するかのように、年長者の水国が深々と礼をしてそう言った。張りのある、若々しい声をしている。つられるようにぺこりと頭を下げる夜顔も、再び都子の誂えた旅装束に身を包んでいた。
そして、槐たちも礼儀正しく一礼する。槐がちらりと夜顔を気にしている様子があったが、二人の間には水国と佐為が立っているため、言葉をかわす様子はない。
「気をつけてな」
と、舜海が涼し気な笑顔を見せながらそう言った。
「はい。ありがとうございます」
と、槐。
「槐、今度は俺が都へ行くよ。珠緒を父上に見せなければいけないし」
と、千珠は珠緒を抱きかかえたままそう言って笑った。
「はい!お待ちしています!」
と、槐は顔を輝かせて笑顔になると、珠緒の頭を撫でる。ぱっちりとした大きな目で、珠緒はじっと槐を見つめ、そしてまた千珠を見つめた。
「お前も槐に挨拶しろ。またね、ってな」
と、千珠が促すと、珠緒はまた槐を見て、小さな手を差し出した。
「あたねー」
「あははは、可愛いな。またね、珠緒」
槐は顔を綻ばせて珠緒の手を取ると、軽く何度か振って握手する。佐為もにこにこと笑いながら、そんなやり取りを見守っていた。
「すっかり上手にお喋りをするようになったでござんすな」
宇月も嬉しそうに、千珠の隣に立って笑顔を見せていた。
「君たちの子だ、きっと賢くなるさ」
と、佐為が太鼓判を押す。
「そうだといいけどな」
銀色の髪の毛を握って離さない珠緒をいとおしげに見つめながら、千珠は微笑んだ。
「たまは集団行動できる子になるとええですけどね」
と、柊が腕組みをしながらそう言うと、舜海が笑った。
「ほんまやな。しつけは柊がしたほうがええな」
「五月蝿いな。俺だって集団行動くらいもうできる」
「ええ歳して、今更かい」
と、舜海。
「というか、今もあまりできてないねんけど」
と、柊が苦笑いするのを見て、槐と佐為が笑った。
「兄上、そうなんですか?」
「全く千珠は、見た目も変わらなければそういうとこも変わってないんだな」
と、佐為がからかう。
「五月蝿い五月蝿い。もう帰れ、お前ら」
千珠は面倒くさそうにふくれっ面をすると、猫でも追い払うように佐為たちに手を払う。しかしすぐに宇月に脇腹を小突かれて、千珠は呻いた。
「夜顔さまたちにもご挨拶をするでござんす」
「……いってぇ」
水国は貫禄のある笑いを響かせながら、「夫婦円満ですな」と言った。
「……朝飛が世話になりました。本当にありがとうございます」
と、柊が丁寧に一礼する。
「お二人では心もとないでしょう。国までの護衛に、竜胆と雪代をつけますが、それでよいでしょうか?」
「竜胆殿は、都まで付いて行ってくれた方ですな。もちろん。雪代という方は?」
雪代の名を聞いて、夜顔の顔がやや暗くなる。
音もなく柊の背後から現れた雪代が、ぺこりと一礼する。水国は雪代を見て、大きく頷く。
「これはこれは、お若い方で。夜顔とも話が合いましょうぞ」
「いいえ、多分合わないと思います」
と、雪代が淡々とそう言うと、夜顔はいつになく不機嫌な顔になってこう言った。
「僕もそう思います」
「はっはっは。これはこれは、夜顔がこんな顔をするのも珍しい。いい刺激だ。護衛をおねがい致しますよ」
「先生……」
「いいじゃないか。お前ももっと色んな人と関わっていかねばならんからな」
「……はぁ」
「よろしくお願いいたします」
と、雪代は馬鹿丁寧に頭を下げ、その横に立つ竜胆が苦笑した。
「夜も、挨拶せい」
「よろしくお願いいたします」
水国に促され、夜顔も渋々頭を下げた。
そこへ、白蘭と白露が人垣を押しのけて前へ出てきた。二人は旅立つ一行の前に膝をつくと、きりりとした表情で夜顔と槐を見上げる。
「先日は、誠にありがとうございました。我々、あのあと深く反省を致しまして、人の命がなんたるかということを、よくよく考えた次第であります」
と、白蘭はいつになく真剣な目つきで二人を見上げていた。
「命を助けていただき、本当に、ありがとうごいました」
と、白露はまっすぐに夜顔を見上げてそう言った。
「いや、そういうことは夜顔殿に言ってくれ」
と、槐は首をすくめる。
「いや、僕は……」
口ごもる夜顔の前に、二人は立ち上がって並び立つ。
「夜顔さまに止めていただかなければ、僕はきっと憎しみで人を殺していました」
白蘭は齢八つとは思えないほどに真剣な目つきで夜顔を見あげた。その小さな子どもの中に生まれた忍の芽を、夜顔は見つけた気がした。
「……いいや、きっと君はそんな事しなかったと思うよ」
「でも僕は、今後はそういう感情に呑まれないようにしなければと心に誓ったのです。忍として、人間として」
「そうなんだ。すごいなぁ、まだ僕よりずっと小さいのに」
夜顔のほんわりとした笑顔に、白蘭は少し表情を崩して笑った。隣で白露が、頬を染めて夜顔を見上げている。
「白蘭殿も白露殿も、元気でね。お父さんと千珠さまのお力になれるように、頑張って」
「はい!夜顔様も、お元気で」
もじもじと言葉を発しない白露の代わりに、白蘭は元気いっぱいにそう答えた。ついでのように槐を見て、白蘭は言った。
「槐さまも、しゅうげん頑張ってください!」
「……祝言は頑張るもんでもないけどね。……まぁ、ありがとう」
と、槐は苦笑した。
「馬鹿なこと言うな、よう意味もわからんくせに」
と、柊がぺしと白蘭の頭を軽く叩く。
わいわいとした別れが済み、夜顔は最後に千珠の姿をしっかりと見つめた。
二人は目を合わせ、頷き合う。それだけで充分だった。
珠緒は黙って手を振って、泣き喚くこともなく夜顔を見送っている。
「それでは、これにて」
旅立つ一行は、一斉に一礼すると、ぞろぞろと城門をくぐって三津国城を後にした。
見送る一行は、大きく手を振りながらその背を見守る。
「……元気でな」
千珠が小さくそう呟くと、珠緒が意味有りげな目つきで千珠を見上げる。
千珠は珠緒の脇の下に手を差し入れて、その身体を高く持ち上げた。
「お前も早く、大きくなれよ」
「ははうえーいやあー」
珠緒は大きな声で笑いながら、千珠に向かって小さな手を差し伸べた。
+
城下町を過ぎると、槐ら一行と夜顔一行は逆方向へと進む。一礼して立ち去りかけた夜顔を見て、思わず槐は声をかけていた。
「待って」
「……は、はい?」
槐に呼び止められて、びくりと肩を揺らした夜顔は、ゆっくりと振り返る。槐はそんな夜顔を見つめたまま、すっと手を差し伸べた。
「?」
「こうして出会ったのも何かの縁です。あなたも兄上を慕う方だ、そのうち仲良くもなれるでしょう」
「……はい」
「握手。しましょう」
「……はい」
おずおずと伸ばしかけた夜顔の手を、槐はぐいと掴んで握手した。
その瞬間、槐はえも言えぬ悪寒を感じて、思わずすぐに夜顔の手を振りほどいていた。
握手をせがまれた上にすぐに振り払われた夜顔は、きょとんとしながらも悲しげな目をしている。佐為が首を振りながら、槐のそばへやってきた。
「なにやってんの、失礼なことを」
「あっ……すみません……」
槐は冷や汗まで流している自分に驚きながら、悲しげな夜顔に申し訳なさをも感じて唖然としてしまう。
「ごめん。夜顔殿……」
「あ、いいえ……いいんです」
「ごめんね、夜顔。うちの槐が失礼ばかり」
「いいえ」
夜顔は弱々しく笑って、丁寧に頭を下げた。
「お気持ち、ありがとうございます。またどこかでお会いしたときは、よろしくお願いいたします」
「上手に挨拶できるようになったねぇ、夜顔」と、佐為が褒めるのを、夜顔は困ったように笑って肩をすくめた。そして、小走りに水国たちの方へと駆けていく。
かすかに震える手を、槐はもう一方の手で抱え込んだ。
そして、はっとひらめいた脳裏の映像に、槐は目を見開く。
「佐為さま……」
「どうした?」
「私は……あの者に幼い頃、会ったことがあるような気がします」
「え?まさか」
「いえ……とてつもなく、恐ろしい場所で……」
佐為は真顔になると、糸目になっていた目を開く。
そして、すっと人差し指と中指を立てて、槐の額に触れた。
その動きは流れるようで速く、槐はすぐに意識を失い、虚ろな目になった。石蕗が驚いて馬の手綱を離す。
「……さ、佐為さま?」
佐為は目線で石蕗を黙らせると、槐に目を移して、静かな声でこう言った。
「……槐。君は何も見ていない。幼い頃の記憶は、怖い夢の中のことだよ」
「夢……の中」
「そう。君は夜顔とは、青葉で初めて会ったんだ。千珠を取り合って、あまり仲は良くなかったがね」
「兄上を……」
「そう、だから、このまままっすぐ都へ戻り、君は祝言を上げて穏やかな家庭を築くのだ。夢のことは忘れてしまうといい」
「……祝言」
「そうだよ、槐」
佐為はすっと指を離して、槐の目を覗きこんだ。槐はしばらくぼんやりとしていたが、突然はっとしたようにあたりを見回し、佐為を見上げた。
石蕗は、恐ろしいものを見るように佐為を見つめている。
「佐為、さま?」
「なんだい?」
「なにしてるんです。早く帰りましょう」
槐は何事もなかったかのようにそう言うと、石蕗が取り落としていた手綱をとって、さっさと歩き出した。その顔はいつもの槐で、さきほどの動揺のことなど、まるでなかったことのように見える。
佐為は石蕗を振り返り、唇の前に人差し指を立てて見せる。石蕗は訳がわからないといった表情を浮かべたまま、佐為を見上げた。
「……このことは内緒だよ。一生」
「……忘却術、ですか」
「思い出さないほうが、幸せなこともある」
「……私にも、かけてくださったらいいのに」
「君のことは信頼している。変なことはしないよ」
佐為は微笑んで、くるりと踵を返して槐を追った。その隙のない妖艶な笑みに、石蕗は恐怖すら覚えてしまった。
一体何を隠しているのか。
あの夜顔という人物は誰なのか……石蕗は胸の中に生まれた黒い疑念を、敢えて見ないようにと目を伏せた。佐為が自分に課した秘密なら、それを拒否することも、口外することも許されない。
振り切るように首を振り、石蕗は慌てて二人の背中を追っていった。
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