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VACATION 第4話
「うおー、すっげえ!」
庭の奥に設えられた屋根つき檜造りの露天風呂に、脱衣所を出た石田が歓声を上げた。
「これは…想像以上だな」
広い湯船に、亜弓も目を瞠る。
腰にタオルを巻いて飛び石を渡った二人は、掛け湯をしてゆったりと湯船に浸かった。
「あー…」
「石田、オヤジくさっ」
「いやー、でもほんま、溜め息モノっすわ」
周囲の垣根や、透明ガラスの屋根の向こうの星空を見回してはしきりに感心している石田に、そうだな、と笑って亜弓は肩まで沈んだ。
「雪の時期には、雪見しながら熱燗飲めるらしいよ」
そう言った亜弓が、パシャリと顔を洗う。
伸びた襟足の髪から滴った湯が、しっとりと濡れた亜弓の肌を滑った。想像した雪を映したような亜弓の白い肌に、不意に石田の視線が釘付けになる。
(うわ……やば)
かつての想い人のしどけない姿はそれだけで目の毒で、慌てて石田は首ごと顔を背けた。
「せやけどこんな凄い別荘かて、柴崎さんの物でもあるわけですよねぇ」
あらぬ箇所が反応しそうな自分の気を散らすため、石田は声を張る。
「どうですか、そろそろ中村家の一員として慣れました?」
問いに、亜弓は表情を変えずに小さく首を傾げて見せる。
「うーん、どうかな。銀行とかホテルとか、提携してる医療機器会社とかのお偉いさんに、だいぶ紹介されたりはしてるけど」
そのときの光景を思い出すように視線を上向かせた亜弓が、ふと自嘲気味に目を細める。
「……慣れるどころか、住む世界の違いをそのたびに実感させられてる感じ」
俺って庶民だから、と亜弓は笑って見せる。けれどその笑みが教える中村と亜弓との距離が何か切なくて、石田はフォローの言葉を探した。
「けど、そうやって紹介して回ってるってことは、一臣もほんまにちゃんと柴崎さんを迎えたいと思ってるってことですよね」
「うん、そうなんだとは思う。ありがたいけどね」
けれど石田に返す言葉はやはり歯切れが悪く、何か問題があるのかと問うて首を傾げた石田の視線に、亜弓は顔を俯けて苦い笑みを浮かべた。
「…何も、問題はないよ。大丈夫」
「柴崎さん」
腰を上げて洗い場へ向かおうとする亜弓の後を、眉を顰めて石田が追う。
「なに、背中流してくれるの?」
「いや、そらなんぼでも流しますけど。そんな顔せんとってください」
「そんな顔って? 俺そんなに不細工?」
まともには取り合わず、笑いで済ませてしまおうとする亜弓の手を石田は引いて、正面から視線を捕らえた。
「石…」
「――そんなんで笑って大丈夫て言うときは、柴崎さん、全然大丈夫やないときですよ」
「……」
「頼りにならんかもしれませんけど、どうにもならんようになる前に話すくらいはしてくれてもええんとちゃいます?」
結局石田や秀明のことを肝心なときに頼ることのできない亜弓の不義理を責めるような石田の言葉に、亜弓は手元に視線を落とした。
「ごめん」
信頼していないわけではないのだと、詫びる声は石田にもわかっていたことで、気兼ねなく他人を頼れるようになってほしいという皆からの願いは亜弓にも届いているはずだった。ただそれがまだ、叶っていないだけで。
「なんか、あったんですか?」
椅子に座った亜弓の背後に回って、石田はタオルを泡立てた。
「ん…ほんとに、何でもないつもりでいたんだ。誰かに聞いてもらうような話でもないと思ってたけど、…でもちょっと、重くなってたのかもしれない」
両膝に肘をついて俯いて背中をタオルでやわらかくさすられながら、亜弓は睫毛を伏せる。
「中村さんが、いろんな人に俺を紹介するときに。彼、ちゃんと俺のこと、養子縁組した伴侶として紹介してくれるんだ。つまりそれって、公然と、中村さんも俺もゲイですって宣言してるようなもんなんだけど」
「勇気ありますね…仕事上差し支えることだってあるやろうに」
「そう。そうなんだけどさ」
亜弓は頬杖をついて首を傾げる。
「そうやって紹介されるとき、相手が驚いたり俺たちのことを珍しそうにじろじろ見たりってことが、今まで一度もなかったんだ」
石田は思わず、へぇ、と声をあげた。むしろ奇異の目で見られることが多いのを気に病んでいるのかと思ったのに、その逆らしい。
「皆さん理解あるんですねぇ」
「…だったらいいんだけどさ、違うだろ、どう考えても」
素直に喜べる石田を羨んで嘆息して、亜弓は石田からタオルを受け取り、振り返って石田にも背を向けさせた。
「え、俺はいいですよ」
「いーからあっち向けよ。…だからさ、たぶん事前に中村さんが相手方に説明して回ってるんだと思うんだ」
遠慮する石田の背中を押さえつけて、亜弓はタオルを動かす。背中を這う亜弓の指の感触に意識を持っていかれそうになって、石田は必死に深呼吸を繰り返した。
「俺が失声なんかしたから…精神的な負担にはすごく気を遣ってくれてるんだと思う。今度紹介する相手は男だけど、そのことを本人の前でとやかく言わないでくれって、頼んで回ってくれてるんだろうな。でもそれって」
石田の背中で、ふと亜弓の手が止まる。
「中村さんの伴侶が女だったら、必要のない気遣いだったはずで」
「…柴崎さん?」
訝るような石田の声に、己の声の心細さに気づいて亜弓は苦笑した。
その声を続ければ、また同じところをぐるぐると回ってしまうことになると気づく。全ての障害を超えて、自分こそを選んでくれた中村の想いを無にするような疑いを、また抱いてしまいそうな不安がある。
「俺、中村さんが俺を選んでくれて、しかも自分の家にまで招いてくれたことを、本当に嬉しいと思ってるし、感謝もしてる」
それは確かなのだと、強く石田にも伝わる。
けれど亜弓が同時に抱いている不安もまた、石田にはわかるような気がする。自分が男であるがゆえに、愛する人の人生に瑕を作ってしまうことへの惧れ。
「――もしこの先、俺の存在が彼の負担や妨げになることがあったとして。それでも中村さんが、俺や俺の両親へ責任を感じて、俺を切れずにいたら」
その怯懦を、隠さず亜弓は声にした。
「俺の方から、離れていけるように。いつでも彼の手を離すことができるように、しておくつもりだよ」
哀しい決意は、閉鎖的な浴室のように篭ることなく、静かに渡った風に流されて消えてしまう。
「…これだけ、誰かに聞いておいてもらいたかったんだ」
返らない言葉を悔いることもせず、石田が肩越しに見た亜弓の表情はどこか晴れやかでさえあった。
それを間違っていると指摘することも、正しいと賛同することも、できずに石田は振り返って亜弓と向き合う。
もしかするとこの儚い青年は、相手のためになら自分の存在を消すことすら厭わないのかもしれない。そしてその決意は、誰にも曲げることはできないのだろう。
そう思えばなおさら何も言えることは見つからず、
「しんどなったら…俺や秀明、頼ってくださいね」
結局それだけしか言えなかった石田に、亜弓はやたら嬉しそうに笑った。
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