12 / 16

あなたのいない夜

「お先に失礼しまぁす!」  定時を一時間ほど過ぎ、忙しなく更衣室から飛び出してきた雪村の明るい声に、未だ仕事を切り上げられない亜弓は白衣姿のまま微笑ましく顔を上げた。 「お疲れ様。なんだか今日はすごくお洒落だね、これからデート?」  脂ぎった中年上司が言えばセクハラにしかならないセリフも亜弓が言えばいやらしさは塵ほども含まれず、言われた雪村も素直に喜んで頬を緩める。 「この後友達とみんなでクリスマスパーティーするんです。で、ちょっといいなぁって思ってる人も来るみたいなんですけどぉ…なんか私、めちゃくちゃ張り切ってるっぽく見えちゃいません?」  首に巻いたファーの端を指で撫でつけながら、ツイードのコートを自分で見下ろした雪村は恥ずかしそうに首を傾げた。普段から亜弓の目にも可憐に映る雪村は、今日は意中の人を想ってか上品に決めて、より一層魅力的だ。今日の彼女がクリスマスのイルミネーションの中で微笑めば、日和のムードも手伝って、きっと想いは成就するのではないだろうか。 「そんなことないよ。すごく可愛い」  衒いもなくにっこりと笑って言った亜弓の言葉をまともに食らって、不覚にも本気で赤面してしまった雪村は思わず口元を押さえた。 「…やっだぁ、柴崎さんってばもー!」  ばし、と亜弓の肩を叩いた雪村は、ひっそりと痛がる亜弓に背を向け、失礼しまぁす、と語尾を延ばして薬局を出て行った。  その二人のやり取りを見ていた橋本が、コーヒーに口をつけながら亜弓に呆れた視線を寄越す。 「女殺しな口の達者ですこと。宗旨変えかしら、柴崎さん?」 「…何か言われましたか、橋本さん」  ひくりと口元を引きつらせ、亜弓は橋本の両手に掲げられたカップの一方を、ありがたく受け取った。 「予定があるなら、切りのいいところで終わってくださっていいですよ。私ももうすぐ帰りますし」 「橋本さん、何か予定あるんですか?」 「…失礼ね、意外な顔しないでくださる?」  そう言われてみると目の前の三十路女性にも、いつもより念入りなメイクが施されているのが見て取れる。普段は厳格な主任様も、誰かの前では愛らしい姿を見せるのかもしれない。 「…いいなぁ」  覚えず亜弓の口をついた言葉に、パソコンデスクに座った橋本が驚いたように顔を上げる。 「柴崎さん、今夜ご予定ないんですか?」  意外だ、という声に、カップに口をつけるタイミングを逸したまま亜弓は苦笑した。 「ないんですよ」 「あら…それはそれは。でも仕方ないわよね、」  彼も忙しい人だものね、と続けそうになった橋本は、奥の扉から局長が出てきたのに言葉を飲み込んだ。 「なんだ、きみたちこんな日に残業か。早く終えて帰りなさいよ」  言いながら局長は、子供へのプレゼントと思しき包みを片腕に抱えて、上機嫌で薬局を出て行った。その背中に向けて橋本が小さく、てめぇも働け、と罵るのにまた苦笑して、亜弓は仕事を片付けようと調剤室へ戻った。  十二月二十四日。年末の忙しさにもめげず、世間が今年の余力の限りを尽くして浮かれるクリスマスイブ。  亜弓の働く薬局の前にもツリーが綺麗に飾り付けられ、病院から一歩出れば街の至るところにイルミネーションが光る。どこを見てもカップルがひっついて練り歩き、この時期になると必ず耳にするクリスマスソングがどこからか聞こえてくるこの日。  けれど亜弓は、普段通りに働き、普段通りに残業し、普段通りに帰宅するしか予定はない。  本来ならば、亜弓の恋人――もとい、伴侶である中村一臣は、こういったイベントの類を重視するタイプで、ディナーだケーキだプレゼントだと、まめに準備しては亜弓の喜ぶ顔を見るのが趣味のような男なのだ。そんな中村が聖夜に亜弓を独りきりで過ごさせるなど、俄かには信じ難い事態である。  しかし、それ以上に彼は、医者として人格的にも優秀な男だった。  いや、医者だって人間なのだから、恋人や家族がいれば、イブくらいは早く帰りたい。だが皆が皆そう言って帰ってしまって、事故の多いこの年末に病院を空にするわけにはいかない。そこで中村は、それならば自分が、と率先して夜勤を引き受ける生真面目な人間だった。  もちろん中村も、イブを独りで過ごす亜弓を想わないはずがない。こんな夜に夜勤を入れてしまったことをしきりに謝ってはいたが、亜弓はそんな中村のことも、尊敬し、またいとおしいと思ってしまうので、構わないと微笑むのだった。  けれど一方で、やはり亜弓もイブを愛する相手と過ごしたい気持ちはある。  雪村は友達とパーティー、橋本も某かの予定があるという。薬局の同僚である石田淳は偶然今日が休日で、夜は恋人である佐野秀明の勤めるバーに行くと言っていた。予定がないなら一緒に行こうと誘ってはもらったが、そこへのこのこくっついて行くほど亜弓も野暮ではない。結局亜弓はいつも通りに帰宅するしかないのだが、周りが浮かれるこの日に、帰らない恋人を想って独り寝するのは少々寂しい。  ――ふう、と溜め息をついて時計を見上げる。  あらかた仕事が片付き、そろそろ帰れるかと支度を始めた二十時過ぎには、既に薬局内には亜弓一人になっていた。  着替えをして、荷物を持って、戸締りをして、さて誰もいないあの広すぎるマンションに帰ろうか、と重い足を踏み出したところで、後ろから声がかかった。 「亜弓くん」  呼ばれ慣れない呼びかけに振り向き、その声の主に亜弓は姿勢を正した。 「院長!」  こちらも今帰りかという姿の院長・中村義晴は、亜弓の元へ駆け寄りながら、亜弓の態度に苦笑をもらした。 「そんなに緊張しないで。父親として声をかけただけなんだから」 「あ…はい」  父親、という響きが耳にくすぐったくて、亜弓は俯く。 「仕事は終わった? もう帰れるのかな」 「はい。えぇと…お父さんも、もう帰られるんですか?」 「ああ。それで亜弓くん、これから何か用事はあるかい? 一臣は今日は夜勤だろう」 「はい…僕はもう今日は帰るだけですけど」  亜弓が寂しげに答えると、義晴は暖かい笑みを向けた。 「そうか。じゃあ、予定がないならうちに来ないかな」 「え」  唐突な誘いに、亜弓が首を傾げる。 「いや、実はね。美和子がうるさいんだ、亜弓さんは次はいつ来てくれるのかしら、一臣が夜勤ならクリスマスはうちで過ごしていただいたらどうかしら、そうだわあなた今夜亜弓さんを誘ってらっしゃい、わかった!? …てね。それで私は遣いに走らされてるわけなんだけど」  妻に対する立場の弱さを明かして、義晴が頭を掻くのに亜弓も思わず笑ってしまった。 「もし良かったら、私の車で一緒に帰らないかい?」 「あの…はい、ご迷惑でなければ」  喜びを湛えながらもまだ遠慮がちな亜弓の肩を、義晴は微笑んで大きく包んだ。 「――家族なんだから。いつ来たって、迷惑なんかじゃないんだよ」  中村が亜弓に与えたかったものを、中村の両親も理解し、そして与えようと努めてくれる。その気持ちを一つずつ受け取って、亜弓も、中村がどんなものを自分に持たせてくれようとしているのかを、少しずつ理解し始めていた。 「じゃあ、お邪魔します」  ようやく憂いの晴れた笑みで仰いだ亜弓を見下ろして、義晴は安堵したように笑った。 「よかった。きみに断られたら私が美和子に怒られるところだったよ。きっと彼女、きみの返事も聞いてないのに勝手にご馳走準備してるはずだ。もし来てもらえなかったら、誘えなかった罰として全部残さず食べて! とか言うんだよ。コレステロールの気になるお年頃だってのにね」  義晴の軽口に、亜弓は笑う。  家に着くまでの車内、亜弓を退屈させないようにとの義晴の気遣いの中で、亜弓は微温湯に包まれているような心地よさにたゆたっていた。  家に着くと、ドアを開けたとたんに料理のおいしそうな香りが漂ってきた。やっぱり、という顔で亜弓を見やった義晴が、折りしも鳴った亜弓の腹の虫を聞いて可笑しそうに笑った。 「ただいまー。美和子さん、亜弓くんをお連れしたよ」  リビングまで一続きになっている広いダイニングに二人が顔を覗かせると、キッチンに立っていた美和子がストライプのエプロンの裾で手を拭きながら、満面の笑みで出迎えてくれた。 「あらあらあら、亜弓さんいらっしゃい! もうすぐ夕飯できるから、向こうでゆっくり座ってらして」  亜弓の荷物を受け取り、上着を掛け、と甲斐甲斐しく世話を焼く美和子を、まるで無視された義晴が恨めしげに見つめる。 「…美和子さん、仕事帰りの夫にお帰りの一言もなしですか」 「あらあなた、いつまでもそんなとこに突っ立ってないで座ったらどうです?」  夫婦漫才のようにすげなく夫を追い払った妻の態度にしょんぼりと肩を落として、義晴は亜弓と共にリビングのソファに腰をおろした。 「なんか…すみません、僕」  自分の存在のせいで美和子の注意が義晴に向かないことを申し訳なさそうに言う亜弓に、一瞬何を謝っているのかときょとんとして、義晴は笑い飛ばした。 「あはははは、何を謝ってるんだ。いいんだよ、息子が久しぶりに寄ってくれて美和子も嬉しいんだ」  その言葉に、亜弓は緊張を解いてソファの背に深くもたれた。義晴や美和子がナチュラルに『息子』と呼んでくれることで、亜弓は本当にこの中村の両親から家族として受け入れられているのだと実感することができる。  しばらくテレビのニュースを眺めながら義晴と他愛もない世間話をしていると、キッチンから夕飯の出来上がりを知らせる美和子の声がかかった。特に何を狙うわけでもなく亜弓が配膳の手伝いを申し出ると、美和子は「本当にいいお嫁さんが来てくれたわねぇ」と、自分の目線よりかなり上にある亜弓の頭をくしゃくしゃと撫でた。  本当に亜弓のために張り切って作ってくれたのだろうクリスマスディナーは、豪華で多彩でボリューム満点だった。  歳の離れた大叔母夫婦と暮らしていた亜弓にとっても、クリスマスに足だけのローストチキンが振舞われるのはそう珍しいことではなかったが、家庭で丸ごとの七面鳥が大皿に乗って出てくるのを見るのは初めてのことだった。さすがにそれには義晴もやり過ぎだと呆れていたが、三人がかりでようやく平らげたあの料理をもし夫婦が二人だけで食べることになっていたらと考えると、両親の健康を思えば亜弓は心から今夜ここに呼ばれてよかったと思った。  そして食事が済んでそろそろおいとましようかと亜弓が時計を見上げたのを、目敏く見取った美和子がにこやかに尋ねた。 「亜弓さんは明日もお仕事なの?」 「え。いえ、僕は明日は休みですけど」  すると美和子はその答えを待っていたかのように(おそらく前もって知っていたのだろう)、真新しいパジャマを亜弓の前に差し出した。 「じゃあ今夜はうちに泊まっていきなさいよ、もう遅いし、あなたもお父さんもお酒飲んでるし」 「え…でも、僕は酔うほど飲んでませんし」 「いいじゃない、こんな機会でもないとゆっくりお話できないでしょう? 一臣のことも聞きたいものぉ」 「はあ…」 「ね、いいでしょう? 部屋は一臣の使ってた部屋があるの。あとお風呂沸いてるから、入ってらっしゃい」  背中を押され、あれよあれよという間に気づけば亜弓は脱衣所に押し込まれ、はっきり返事をする前に今夜の宿は決まっていた。  また義晴を差し置いて一番風呂をもらってしまった、と思いながら入浴し、用意されていたパジャマに腕を通す。ボタンをかけながら、まったく予想外のクリスマスを過ごすことになってしまったな、と亜弓は小さく苦笑した。  でも、予想外ではあったけれど、ひどく嬉しい。  今夜は中村のいない、寂しい夜になるはずだったのに。  ――ここまで思い至って亜弓はようやく、そうか、と納得した。この夜を与えてくれたのはきっと、中村だ。  自分の仕事のせいで、亜弓に寂しい思いをさせることを済まながってのことだけではない。自分がいなくても、共にいてくれる家族の存在があるのだと、それを教えるために。亜弓がもう、独りになることはないのだと教えるために。  湯にぬくもった体の中の、心までほんわか温まった気分で脱衣所を出ると、廊下の向こうの階段から、美和子が亜弓を手招いた。 「お風呂、次は義晴さんが入るって言うから。亜弓さんに見せたいものがあるの、上がってちょうだい」  促されて亜弓は階段を上がり、二階の奥の部屋へと通された。 「ここね、一臣が小学生のときまで使ってた部屋なの。中学校に上がってから、下の部屋に移ったんだけど」  入った部屋は、普通の小学生の部屋にしては少々広すぎるが、木製の学習デスクに丈の短いベッド、ガラス扉のついた棚にはミニカーやプラモデルが並んでいたりと、中村にも子どもらしい時代があったのだということを亜弓に教えてくれた。 「それでね、さっき思い出したんだけど」  美和子は言いながら、クローゼットを開けて奥を探り、布を掛けられた高さ一メートルほどの物体を出してきた。被せられた布をおもむろに取り払う。 「あ。ツリー」  目を見開いた亜弓に、美和子はにっこりと笑った。 「一臣が大きくなってからはクリスマスにそれらしいことなんかしなくなっちゃったんだけど、そういえばうちにもこんなものがあったはずって思い出したの。飾りも確かこの奥に…ああ、あった」  部屋の暖房を入れ、取り出したツリーと飾りを前に、美和子と亜弓は並んで床に座り込んだ。 「想像はつくかもしれないけど、一臣の中高時代、ほんとにあの子ガリ勉でね」  金色の球体を一つ取り上げて、美和子はツリーの枝に引っ掛ける。 「小学生の頃はやんちゃで、成績も特別良かったわけじゃなかったのよ。なのに卒業して中学に上がるとなった途端に、急に何かに目覚めたみたいに真面目な子になっちゃってね。たぶん病院の跡取りとしての自覚に目覚めてくれたんだろうとは思うんだけど、なんていうか、あの子何するにも極端なのよ。もうこんな子どもっぽい部屋はいやだ、とか言って、下の空き部屋に義晴さんの書斎と同じような家具を入れさせてね。クリスマスにツリー飾ろうか、て誘っても、そんなのいりません、てメガネ押し上げて塾に行くのよ。ほんっと可愛げのない子だったわぁ」  美和子に習って、亜弓も手近にあったトナカイをツリーに飾り付けた。 「大学に入ったら一人暮らし始めて、しかも途中で勝手に外国行っちゃうし。なんだか自分の子じゃなくなっちゃったみたいで、実は私もずっと寂しかったのよ」  着々と飾り付けをし、雪を模した綿や煌びやかなモールを巻きつけ、美和子は目を伏せて笑う。 「…でもこのままあの子はそんな調子で、医者になって適当に見合いして結婚して、病院継いで何かの義務果たしたつもりになって、私たちの子どもであることなんか忘れた顔して生きていくんだろうなって、どこかで諦めてた」  冷めた親子関係だったのだと、悔いるように語った中村の表情を、亜弓は思い出した。 「うちにまたこうしてツリーが飾られることになるなんて、思ってもみなかったのよ」  ふふ、と笑って美和子は、部屋の電気を消す。そして手元のスイッチをかちりと入れると、束の間闇に包まれた部屋の中に、ツリーの電飾が明るく浮かび上がった。 「亜弓さんがうちに来てくれることになって、本当によかった」  改まった声に、当惑しながら亜弓は美和子を見つめる。 「私たちは亜弓さんがいてくれて幸せだけど、亜弓さんはどうかしら?」  問われ、亜弓はふと視線を落とした。  等間隔に点滅する電飾の明かりが亜弓の瞳を揺らす。 「――おかあさん」  しばし黙り込んだ亜弓が頬を緩めた。 「ちょっとだけ、抱き締めてもらってもいいですか」  照れくさそうに、小さな声で亜弓はねだった。それに美和子は一瞬驚き、けれどすぐに両手を広げ、床に座り込んだままの亜弓を包み込むように抱いた。 「ちっちゃい子みたいなこと、言うんだからこの子は」  しょうがないわね、と言いながらも、美和子はどこか嬉しそうで。  優しい腕に身を預けて、亜弓は泣きそうに、幸せだった。  明日、中村が夜勤明けで帰ってきたら、今夜のことをたくさん話そうと、亜弓は思った。  それから、ありがとう、と。 <END>

ともだちにシェアしよう!