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第66話
アメリカ西海岸。アメリカの中でも比較的、治安が良いと言われているサンフランシスコは平均気温が20度前後と、一年を通して過ごし易く住みやすいと言われている都市だ。
だがサンフランシスコ全体が治安が良いわけではなく、そこはアメリカ。ユニオンスクエアの近くにあるテンダーロインは日中でも危険だと言われている場所だ。
その一角にある古びたドアを、橅木はゆっくりと開けた。ギィっと嫌な音がして、店内に居た客と思しき人間がギラつく目で橅木を睨むように見た。
だが橅木はそれに臆することなく店内に入ると、カウンターに肘をついて頭を抱えるようにして座るフードを被った男を見つけ近付いた。
店内に流れるブラックミュージックは時折、ザザっと雑音が入り耳障りだ。橅木はそれには顔を顰めた。
「Hey」
声を掛けたが男は動かない。橅木は顔を覗き込むようにしてもう一度、声を掛けた。すると男は窪んだ目でチラッと見ると大きく息を吐いた。
フードはアジア人とバレないために被っているのか、それとも顔の刺青を隠すためなのかは分からないが、表情に生気はなく呼気は酷く酒の匂いがした。
「橅木…よくここが分かったな」
「黄 連杰 。仁流会への奇襲の前に部隊が壊滅したって?そっちこそよく逃れたな」
男は黄 連杰。あの奇襲の事件の時に運良く逃げ出した、来生の残党だ。黄は顔を両手で覆うと、声にならない声を出して中国語で何かを言った。
「なに?俺は中国語は分からないぞ」
橅木は隣に座ると黄のフードをソッと取った。この目立つ顔でここまで良く逃げたものだ。
「くそ!龍魏 社にも裏切られた!このままでは同胞に示しがつかない!」
大きな声で日本語で話せばさすがに周りが一斉に橅木達を見た。ここに日本人がいることはカモも同じだ。
「落ち着け。龍魏社は一新一家から手を引くように言われたみたいだな」
「一新一家…?仁流会ではない組がどうして。なぜ、龍魏社もそんなところから言われたくらいで」
「繋がりがあるみたいだな、一新一家と。一新一家としても仁流会に恩を売っておく機会にもなる。龍魏社としても一新一家との関係が切れるのは良くないという判断だ」
「俺たちは捨て駒なのか!」
「熱くなるな。ほら、飲め」
橅木は黄の前に置かれたグラスを取った。すでに空だったので長い手を伸ばしてカウンターの中にある瓶を手にすると、グラスに注いだ。
だが差し出されたそれに黄は淀んだ目を向けるだけで、受け取ろうとしない。橅木は笑って、その酒を口に放り込むと一気に飲み込んだ。
酷い安酒だ。瓶を見ると見たことがないラベルが貼ってあり、決して美味いとは言えるものではなかった。
「用心深いことは良いことだ。だが、礼儀も忘れるな」
カウンターの奥から出てきた店員に声を掛けると、ウォッカの入ったショットグラスが二個、滑るように前に置かれた。
黄は今度はそれを手にして一気に口に放り込んだが、咳き込んだ。
「強い酒は苦手か?中国人は酒に強いと思ったんだがな」
橅木の言葉に腹を立てたのか、黄は橅木のグラスを奪うとまた口に入れ、カウンターに叩きつけるように置くと同じものを寄越せと中国語で叫んだ。
店員が怪訝な顔を見せたが、橅木が酒の金と多めのチップをテーブルに置くと渋々、ウォッカを出してきた。
何ショット目かを口にしたところで黄はカウンターに顔を付けて、朦朧とした意識のなか中国語で何かを呟いていた。
同じ量を呑んでいる橅木は顔色一つ変えずに今にも眠りそうな黄を横目で見ると、フッと笑った。
「Первая рюмка колом,а вторая соколом,прочие мелкими пташками.」
「…什么意思?」
急に口走ったロシア語に黄が意味を尋ねた。だがその呂律はほぼ回ってはいない。
「一杯目は棒杭、二杯目は鷹、三杯以後は小鳥さん。有名な諺らしいけどなぁ…。塀の中で暇だったからロシア語の本を読んでたんだけど…。中国語にすりゃあ良かったなぁ。強い酒ウォツカは初めは喉にきつい。だが次第にまろやかになっていくらしけど…」
酔い潰れてテーブルに顔を付ける黄を鼻で笑って、橅木は店員に輪ゴムで縛った札束を周りに見えないように渡した。
「四杯目は何だろうな?」
店員は札束を受け取ると黄の口に赤い錠剤を押し込んだ。そして肩を叩くと黄の目の前にグラスを置いた。
「water!」
「あー、あー…thank you」
黄はグラスを握り水をゴクゴクと飲んだ。橅木は黄の肩を軽く叩くと、そのまま席を立った。
「神童さん」
呼ばれた名前に振り向き、神童はにっこり微笑んで自分の対面の席に手を向けた。それに遠慮がちに橅木は座った。
先ほどまで橅木が居た場所とは違い、高級感しかない場所はユニオン・スクエアとファイナンシャル・ディストリクトの側にある五つ星ホテルだ。
そのホテルのラウンジでシングルモルトのスコッチウイスキーの入ったグラスの前に、手にしていた本を閉じると置いた。見ると、意外にも夏目漱石の坊ちゃんだ。それに橅木は思わず「え?」と言った。
「読んだことある?」
「あー、ムショで」
「そうなの?日本文学って不思議だよね。出た頃は酷評されていたのに今になって讃えられてもね。しかもさ、彼、胃潰瘍で死んじゃうんだよ?繊細な人だったんだろうね。ずっと胃潰瘍を繰り返してノイローゼにもなって。ああ、知ってる?彼の脳って今だに現代にあるんだよ?」
「え?」
「保存されてるんだって。気の毒だよね」
気の毒という言葉が一番似合わないなと、橅木は神童にどう返事をしていいのか分からずに困惑の色を見せた。神童はそれににっこりと笑うと自分の目の前にあるグラスを指を差した。
「何飲む?君、お酒強い?」
「黄 連杰 とウォッカ飲んできたんで…」
「ああ、来生の…。ウォッカ飲んだの?まぁ、いいか。じゃあ僕のチョイスで。で、黄は?」
「ご指示通り、BARに捨ててきました」
「そう?ああ、大丈夫だよ。君が疑われることはないから安心して。シスコの警察は酔っ払いをわざわざ解剖して検視するようなことはしない。急性アルコール中毒と同じ症状で天国に逝けるんだ。ラッキーだろ」
”気の毒”と言ったときと同じ表情で言う神童に、橅木は笑った。
「来生は死んだみたいですよ」
「ああそうなの?でも、そうなるよねぇ。勝手なことするから」
「あと、梶原秀治が生きているそうです」
「あらら。そっかー、まぁ、そうだよね。あの男がそう簡単にやられるわけないか。てことは、来生を殺したのは梶原?」
「Thanatosと梁が、向こう側に付いたようです」
「ふふふ…まぁ、彼らの当初の目的は日本への入国だったわけだし、そうなるよね?来生は本当、詰めが甘いよね。昔からそうだ…」
まるで昔を思い出すように言いながらグラスを手にして軽く振った。ロックアイスが小さな音を立てて崩れた。
「これから、どうするんですか?」
「えー、そうだなー。着いたばかりで時差ボケしてるんだよね。でも近代美術館へ行って、ユニオンスクエアにも行きたいなぁ。君の方が先に来てるけど、行きたいとこある?」
「いえ、ちょっと分からないんで」
「まだ、吉良静に恨みがある?」
急に飛んだ話題に橅木は視線を揺らせた。恨んでいるのだろうか?少なくとも静は橅木を恨んではいるだろうが、橅木はどうだろう?自分でも分からずに首を捻った。
「どうでしょう。あいつが居なきゃムショにブチ込まれることもなかったし、大多喜組が壊滅させられることもなかったかもしれねぇけど…。あいつがああやって動いてないと、神童さんに目をかけてもらうこともなかったでしょうから、感謝するべきですかね」
「ふふふ…。僕はね、心みたいに強さがないんだよね。昔から暴力とは縁がないみたいで。だから君みたいな側近が欲しかったんだよね。大丈夫、これからは退屈せずにいれるよ。戦いは始まったばかりだ」
神童はそういうと、グラスを掲げた。橅木は自分の目の前に置かれたグラスを取ると、そのグラスに小さく当てた。
じっと神童が見てくるので、橅木は訝しみながらもグラスの中の酒を口にした。喉に通るまろやかな味。苦味もきつくなく、鼻から抜けるブランデー特有の味と香りに橅木は唇をキュッと締めた。
「美味しい?」
「そうですね」
「じゃあ、僕のもあげる」
「え?」
「僕ね、実は本当は下戸なの。乃愛は飲めたんだけどなぁ。僕は全然。これは多分、父親に似たかな」
神童はグラスを橅木の前に置くと、テーブルに一緒に置かれていた野菜スティックを齧った。
「聞いてもいいですか」
「いいよー、君と僕はこれから隠し事なしでいこう。君はちょっと、気に入ったんだよね。珍しく」
「鬼塚心に対しての感情って何ですか?」
無遠慮に聞くと神童は目を細めて橅木を見た。時折見せる眼光の鋭さは極道界で名を馳せてきただけあって、ゾッとする。
「どうしたいんだろうね」
「え?」
予想外の答えに橅木は目を丸くした。
「難しい質問だよね。心は昔は乃愛にすごく似ていて、可愛い子だったんだよね。今も彼の表情には乃愛の面影が見える。男の子ってやっぱり母親に似るよね。僕も母親に似てるんだ。酒が飲めないのは父親に似てしまったんだけどね。あー、でも、どうしてああなっちゃたかなぁ。佐野彪鷹のせいかなとも思うんだけど、心を愛してるけど鬼塚の血が見える時があって、その瞬間は殺したいほど憎く思えるんだよね。乃愛は僕から逃げて鬼塚の子を産んでしまった。結局、乃愛は死んでしまって、あの子は言うなれば忘れ形見なんだけど…。僕はあの子にも嫌われてるんだよね。あの子の夢を叶えてあげたい気もするけど、僕をそのまま受け入れる気もないみたいだし」
「風間組を潰すってことですか?」
「そんな簡単にトップにしたら、あの子、すぐに飽きちゃうよ。乃愛に似て飽き性なんだもん。それに僕もつまんない。それだけの力がちゃんとあるのか見極めも必要でしょ」
それがこれから起こるという戦いということかと橅木は残りのウイスキーを口にした。先ほどのバーの安酒と違い、何杯でもいけそうな一品だ。
飲めない神童の酒も遠慮なくいただくと、神童が恨めしそうに橅木を見てきた。
「いいなー、美味しそう」
さも残念そうに言うと、神童は両掌の上に顔を置いて唇を尖らせた。
「関連施設から全てやり尽くしましたけど、出ませんでしたね、盗聴器」
「そりゃ、ええことで」
心はさも興味がないとばかりに言うと、ソファの背凭れに身体を思いっきり凭れさせて天井を仰ぎ見た。
イースフロントの会長室。ほぼ弄んでいる部屋は無駄に豪華で設備も揃っている。主が常時不在なので仕方ないが、たまに来る主はデスクではなく部屋の中央の応接セットのソファがお気に入りだ。
ligne rosetのROSETANDY。全体的にシャープに見えるデザインで部屋の色合いに合わせて特注にした分、値段も張る。決して、この男の寝具にするために厳選して購入したわけではない。
それを考えるだけ無駄だし、注意するのも無駄。言えば、ここにあるのが悪いと言われかねない。無用なストレスは自分から招く必要はない。
「念の為、他の車も調べましたけど仕掛けられていたのはあなたの車だけでしたね」
「端っから俺にしか用がなかったんやろうな。まぁ、これで決定的やろ。野良犬は仁流会の中。まぁ、今は尻尾掴まさんやろうな」
「見つけ出しますよ、何が何でも。ところで黄 連杰はロスで事故死してましたよ」
相馬の顔を見て逡巡し、一応、考えた素振りを見せたがやはり、首を傾げた。
「誰?」
「あなたが取り逃した、来生と一緒にいた残党です」
「取り逃したて…。ほんで、ロス?事故死って?」
「追っ手から逃げるためにロスに飛んでたみたいですね。事故死というか、急性アルコール中毒です」
「ほんまは?」
「他殺のようですね」
相馬はそこでようやく心の隣の一人掛けソファに腰を下ろした。並んで座ってもたっぷりと余裕のあるソファなのに、この男がいると一人掛けソファは必須だ。
「ソースは誰やねん、ほんまかよ」
「月笙の調べですので、確かでしょう」
「へー、信用するんか」
意外なのか、少し高くなった声に苛立ち睨みつけると、心がニヤニヤ笑っていたので更に腹立たしくなった。
「王暁、あなたが襲撃に使ったThanatosの別名で雨宮の双子の片割れですが、あなたの思惑通り裏に入れろと言ってきました」
「崎山とは合わんやろ、あいつは」
「海外のあちこちに情報源を持っている人間を囲うのは、後々、都合がいいと思います。それに鬼塚組内部のことを知りすぎた節があるので、自由にするなら始末するしかありません。ですがThanatosに関して言えば、あの戦力を手にしないのは勿体ないかと。あなたがくれたSDカードでその腕前は補償されていますしね。私は知らない襲撃ですので、あれがあって助かりましたよ」
ちくっと嫌味が刺さり、心は目を閉じた。
「俺はどっちでも」
「引き取り先は彪鷹さんにします」
「は?そこ?」
「崎山の裏の構築はほぼ完成していますし、厄介な鷹千穗も崎山の言うことは聞きますが月笙とは合わないそうです」
まぁ、彪鷹を撃ち抜いた張本人だもんなぁ。でも撃ち抜いた人間を引き取れと言うのもどうかと思ったが、自分もさして変わらないかと思った。
「どっちにしても鷹千穗とThanatosも合わへんやろ」
「仲間内で殺し合いはごめんです。ですから、拾った人が責任を持て。この間も言ったでしょ。それに鷹千穗は彪鷹さんの言うことなら犬のように聞き入れますから」
拾ってないし、仕掛けてこられたから応戦しただけだとは言わずに、自分じゃないからいいやと答えるのをやめた。
「あなたの精鋭部隊に入れてくれても結構」
「定員オーバー。やけど、あの彪鷹がうんって言うか?」
面倒くさがりで言えば心をも上回るし、心の言うことなんか聞きもしない。本位ではないがの長年育てられた自分が言うのもなんだが、誰かの面倒をみるというのを一番、面倒臭がるのだ。
「何かあったときにThanatosを殺せる人間があれの面倒を見るべきです」
彪鷹ならそれが出来るということか。まぁ、出来るだろうなと心は天井を仰ぎ見た。
「裏に入りたい理由は?」
「Thanatosは命を狙われているそうですよ」
「死の神がか?」
思わず鼻で笑った。
「さすがに私も殺し屋の世界のことまで掌握しておりませんが、あちら側はあちら側で色々と事情がおありのようですよ。何でも賞金が懸けられているとか」
「互いに都合がいいってことか」
「WIN-WINの関係とまでは言えませんがね。ですが、利用価値はあります。問題があるようでしたら手を打てばいいだけの話ですから」
「お前って…時々、俺よりもヤクザよな」
「失礼な」
ニッコリと微笑む相馬に心は呆れた顔を見せて手を軽く上げた。それで了承したという返事だ。
「あ、せや、一人、組に入れたい」
相馬は舌を鳴らして鬼の形相で心を睨みつけた。
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