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婚礼式は緊張の連続だった。
着慣れない礼服も、見たことがないほど大勢の視線に晒されることも、すべてが緊張に拍車をかけた。人々の歓声が聞こえるたびに本当に恐れ多い立場になるのだということを痛感させられ、最後まで薄氷の上にいるような気持ちだった。
歴代国王への報告というもっとも重要な儀式では、緊張のあまり足元が覚束なくなり躓 きそうになることが何度もあった。そのたびに殿下に助けていただき、なんとか無事に乗り切ることができた。その前には国王陛下へご挨拶したけれど、きちんと返答できたのかまったく覚えていない。
そうして最後に待っていたのがわたし自身のお披露目、それに続くパーティだった。わたしにとってはこれがなによりも難題だった。
わたしはこれまでどの社交界にも出たことがなく、行儀作法は学んだけれど無事にこなせるのか自信が持てないままでいた。リードベル教授から太鼓判をいただき、久しぶりに会った父上から「まるで社交界の花だった母上のようだよ」と言われても、うまく立ち振る舞えるか不安で仕方なかった。
「緊張しているようだね?」
「殿下……」
「あぁほら、泣かないで。せっかくの化粧が落ちてしまうよ」
ほんの少し濡れた目尻を、ウィラクリフ殿下の指が優しく拭ってくださる。
(……そうだ、今日は化粧を施されていたんだった)
今朝、化粧のことをメリアンから聞いたときは驚きのあまり声もでなかった。男でも化粧をするなんて知らなかったからだ。
あのときキルトが「社交界じゃ、男でも化粧する貴族は結構いますよ?」と教えてくれなければ、絶対に嫌がってメリアンの手を煩わせることになっていた。「化粧と申しましても、肌を少し整える程度でございますよ」とメリアンが言ったとおり、何かの粉を顔全体に薄く付けられただけで、内心ホッとしたのは言うまでもない。
「今日のルナはいつもよりずっと美しいから、自信を持つといい」
「殿下、このようなときまでご冗談を……」
「おや、わたしはこれまでも冗談など言ったことはないのだけれどね」
そうおっしゃって微笑む殿下に、手袋をした手をそっと握られる。
「うん、手袋も礼服と同じ生地にしてよかった。胸元と袖口の飾り布もよい色合いだし、靴の色もちょうどいい。やはり青みがかった光沢の生地で正解だったね」
頭から足元までを優しい緑眼に見つめられ、胸がとくんと高鳴る。
最終的に十二着仕立てられた中から婚礼式用に選ばれたのは、光が当たるとわずかに青みがかった白色になる光沢のある礼服だった。胸元や袖口、裾には青銀の糸で織られた飾り布があしらわれ、靴には淡くほのかに青色に見える異国の白い革が使われている。
この礼服は式の直前である昨夜まで手直しが続けられた。何度も試着した状態を殿下が確認され、毎回どこかしらに手直しが入る。それを何度もくり返す様子に、婚礼用の礼服とはなんと手間暇をかけるものだろうかと感心したくらいだ。
その甲斐もあって着心地はとてもよく、体が締めつけられて苦しくなることもない。礼服と同じように調整された靴のおかげで、立ち続けている足が痛くなることもなかった。
すべてウィラクリフ殿下がわたしを気遣ってくださったからで、本当に優しい方だと万感の思いを抱く。
そんな殿下は、王族が重要な式典のときに身につけるという礼服をお召しになっていた。深い緑と優しい白からなるその服は、胸元や裾に黄金の刺繍が施されているのがなんとも優美で美しい。
腰には刀剣を提げているけれど、これは国のために戦い国民を守る決意を示すために王族男子が携える儀礼刀だと教わった。その証拠に刃の鋭さは関係なく、真っ白な鞘には黄金で模様が描かれ、所々に美しく光る宝石が散りばめられている。
胸元には王太子の証である大きな真紅の宝石が光っていて、それと対をなすように作られた深い蒼色の宝石は、恐れ多くもわたしの胸元を飾っていた。
(殿下は、とても美しくていらっしゃる……と、思う)
これまで男性の美醜について思いを巡らすことなどなかった。けれど目の前の殿下は紛れもない美丈夫で、男としての美しさと力強さに満ち溢れているように思う。
(わたしは、そんな殿下の伴侶になったんだ……)
そう考えるだけで、いつもより鼓動が早くなる。気がつけば殿下に見惚れることも増えた。
(お慕いしている方、なのだし……こういうことは、普通、だよな)
婚約式を終え、王太子宮に住むようになってから薄々感じていたのは、紛れもない殿下をお慕いする気持ちだ。自分にもそんな感情があったのだと、はじめのうちは驚いた。
(……毎日のように思いを伝えられたら、わたしでなくとも絆されるというか……)
すでに“絆される”という程度ではないのだけれど、照れくさくて言い訳のようなことを思ってしまう。
そんなわたしの気持ちに殿下は気づいていらっしゃるに違いない。……ほら、いまもわたしの気持ちを察しているかのように笑っていらっしゃる。
「そんなに熱い眼差しで見つめられると、このあとのお披露目なんて無視してしまおうかと思ってしまうよ」
「それは、さすがに許されないのでは……」
「ふふ、ルナは真面目でいい子だね。涙も止まったようでよかった。大丈夫、ルナは随分と努力してきた。わたしの伴侶として申し分ない」
「そうだといいのですが……。わたしは社交界に行ったことがありません。作法は習いましたが、実際にどうなるか……」
考え始めると、また不安になってきた。今回のお披露目は国内外の貴族や王族が集まる盛大なもので、初めての社交の場がそんな大きなものだと考えるだけで足がすくみそうになる。
「大丈夫だよ。きみの美しさを前にしたら、誰もが我を忘れてしまうだろうからね。それでも心配だというなら……。ルナ、きみはいま何を読んでいる?」
「え? あの、本のことですか?」
「そう、いまはどんな本を読んでいるのかな?」
「ええと、北の国で書かれたという不思議な生き物たちの物語、ですけど……」
「ふむ……」
口元に手を当てながら、殿下が思案するような顔をされる。
「それなら、こういうのはどうだろう。たとえば緊張してどうしようもなくなったら、自分はその物語の中にいるのだと思えばいい。誰かに話しかけられたら、物語の登場人物を前にしていると思って微笑んでいればいい」
「笑顔、ですか……?」
まったく自慢にならないことだけれど、わたしは誰かに微笑みかけるという行為が苦手だった。笑顔で会話を楽しむという経験も乏しい。おかげで殿下のように優しく微笑むこともできず、微笑みながら会話をすることもできないままだ。
キルトは「無理に笑わなくても、唇の端を少し上げるだけで十分ですけどねー」と言ってくれたけれど、それで微笑みになるのかすらわからない。
「無理に笑う必要はないよ。そうだね、目の前の人物が物語に出てくる不思議な生き物だったらと想像してごらん。きみが本の話をしているときの微笑みは見惚れるくらいのものだから、十分に効果はあるはずだ」
本を前にしたときに表情が柔らかくなることは、父上や執事のジルバートンに何度も言われてきたので知ってはいる。ただ、それが微笑みかどうかは……自分がどんな顔をして本を読んでいるのかまではわからなかった。
「本当に、それで大丈夫でしょうか……」
「大丈夫、わたしが保証する。それとも、わたしの言葉は信じられない?」
「そんなことは、絶対にないです!」
わたしにとって殿下の言葉は誰よりも信じられるものだ。殿下はいつもわたしを思ってくださり、わたしのためにと心を砕いてくださるのだから絶対に嘘はおっしゃらない。
「じゃあ大丈夫だ。さぁ、行こうか」
「はい、殿下」
わたしの指先を優しく握ってくださる殿下に誘 われ、一歩を踏み出す。手の位置が胸のあたりにあるからか、自分がどこぞの令嬢になったような気分がした。
(さすがにそう見られるのは恥ずかしいけれど……)
そう思っているのに、殿下に大切に扱われることを嬉しいと感じている自分が、たしかにいた。
お披露目は国王陛下のお言葉から始まり、次いでウィラクリフ殿下がお話になられ、わたしはただ傍らでじっとし、促されるままにお辞儀をするだけで終了した。
その後は多少の無礼講も許されるパーティへと移る。王族方も上段から下りられ、貴族の方々と会話を楽しんでいらっしゃるように見えた。
……そう、はじめは周囲の状況がわかる程度には緊張がほぐれていた。おそらく隣に殿下がいらっしゃったからだろう。ところが、殿下の周りはあっという間に他国の王侯貴族の方々で埋め尽くされてしまい、いまは少し離れた場所で歓談の真っ最中だ。
わたしは邪魔にならないようにと思い、壁際に移動しようとした。……はずだったのに、気がつけば周りを国内の貴族たちに取り囲まれていた。そこからは代わる代わる挨拶をされ、目を回しながらも必死に頷いて答え続けている。
(ええと……いまのが子爵家で……こちらが……)
覚えることが苦手でないとはいえ、人の顔となると話は別だ。元々人と接する機会が少なかったせいか、流れるように入れ替わると顔がわからなくなってしまう。しかも全員が似たような礼服姿だから、服装で判別することも難しい。
(せめて殿下の伴侶として、みっともないことにならないようにしなければ)
いまの自分にできることは、そのくらいしかなかった。
疲れた顔をしないように、不快に思われないようにと何度も言い聞かせる。それでも緊張してしまうせいか、頬が引きつっているのが自分でもわかった。
(そういえば……)
――目の前の人物が物語に出てくる不思議な生き物だったらと想像してごらん。
不意に殿下の言葉を思い出した。
(……殿下がおっしゃったとおりにしてみよう。それで少しでも緊張が和らげば……)
先ほどから熱心に話しかけてくる男性を見た。淡い金髪はきっちりと後ろに撫でつけられ、縁のない眼鏡をかけている。雰囲気はリードベル教授に似ていなくもないけれど、教授というよりも勉学に励む学生のような雰囲気だ。
(なんとなくだけど、知恵の神の御用使いの梟の精……に、見えなくもないかな)
あの子は真面目で一生懸命だけれど、必死になりすぎて相手を少し困らせてしまう。そう思いながら男性を見ると、まるで本当に物語の登場人物のように思えてきて緊張が和らいだ。
つぎに、大きな体を窮屈そうに礼服に収めている隣の人を見た。
(森の番人である熊と狼の子が、こんな感じだったかな)
そう考えると、思わずクスッと笑みがこぼれてしまった。さらに奥に視線を向けると、やけにお腹が出ている人が目に入る。
(あの人は、食いしん坊の竈 の精に似てる)
あっちの人は、あぁ、向こうの人も、あの人は誰に似ているだろうか、そんなことを考えているうちに、気がつけば周囲がしんと静まりかえっていることに気がついた。よく見れば皆、口を開いたり目を見開いたりしていて、誰ひとりわたしに話しかけようとする人はいない。
(……しまった、何かしでかしたに違いない)
サァッと血の気が引く思いがした。いくら殿下がおっしゃったとおりにしたとはいえ、それは緊張をほぐし微笑みを浮かべるための手段だったはず。
それなのにわたしは微笑むことも忘れ、まるで本を読んでいるときのように熱心に空想に耽ってしまっていた。自分がどんな顔をしていたかなんてわかるはずもなく、これでは本末転倒ではないか。
(初日から、なんという失態を……)
やはりわたしのような男が王太子妃になるなんて、とんでもないことだったのだ。
(どうしたら……)
混乱したわたしはリードベル教授の教えもすっかり忘れ、ただ胸の内で右往左往するばかりだった。どうしていいのかわからず、じっと立ち尽くしていたそのとき……。
「妃殿下はお疲れのようだ」
聞き覚えのある声がした。しかし殿下の声ではない。少し似てはいるけれど、殿下のほうがもう少し低くてビロードのような艶がある。声を聞くだけでホッとする、わたしの好きな声――それによく似た声。
振り返ると、ハルトウィード殿下のお姿が見えた。
「初めてお目にかかる王太子妃に挨拶をしたい気持ちはわかるが、そう急 く必要もないだろう。それよりも、王太子妃を疲れさせたとなっては兄上に睨まれかねないぞ。なんといっても兄上が掌中の珠のように大切にしている妃殿下だからな」
ハルトウィード殿下の声にハッと目が覚めたような顔をした貴族たちは、全員慌てふためいたように次々と挨拶をして去って行った。
一体なんだったのだろうかと彼らの後ろ姿を見ていると、「やはり……」という声が聞こえ、慌ててハルトウィード殿下に挨拶をする。
「ありがとうございました」
「いや、あまりの人集 りに、まるで見せ物のようだと不快に思っただけだ。ま、我が妃のときのほうが酷かったがな」
ハルトウィード殿下とベアータ様の婚礼式は、ベアータ様が懐妊されていることもあって内々で行われた。顔を見せないほうがいいだろうと考えたわたしは、まだ婚約者という立場だったこともあり婚礼式には出席しなかった。
キルトの話では、おおよそ王族の婚礼式とは思えないほど小規模だったそうだ。それでも第二王子の婚礼式なのだから、国内の主要な貴族や王族は出席したに違いない。そこで何があったのかは、なんとなくだが想像できる。
「きっとわたしのような男が王太子殿下の最初の妃だというのが、もの珍しかったのだと思います」
「多少はそれもあるかもしれないが、どちらかといえば近くで見たいという下心のほうが強かったと思うがな。あわよくばお近づきになりたいなどと思ったのだろう」
「お近づき、ですか……?」
「婚礼式の前にきみを見た者たちが、それはもう興奮して喋りまくっていたようだからな。興味津々でお披露目を待っていれば、噂以上に美しい妃殿下に男どもは皆釘付けというわけだ」
「釘付けということは……」
さすがにそんなことはないだろう。それに、美辞麗句というのは社交界でよく使われる言葉だ。おろらくわたしが“王太子妃”という立場だから、誰かが過剰に表現したに違いない。
「そのようなことはないと存じます」
不敬かと思いつつも、視線を上げてしっかりと否定の言葉を口にした。すると、どうしてか殿下が驚いたような顔をされた。
(……そういえば、ハルトウィード殿下の顔をしっかり拝見するのは、これが初めてかもしれない)
元婚約者としては最低だなと思いながらも、ウィラクリフ殿下に似た顔立ちだと思った。緑眼も似ているけれど、ウィラクリフ殿下のほうがもう少し優しい雰囲気で、新緑の若葉のような瑞々しい色合いだ。
(それに……)
ウィラクリフ殿下の目に見つめられると、いつも頭がぼうっとしてしまう。不敬だとわかっているのに、いつまでも見つめていたくなる。
(……しまった)
不敬にもハルトウィード殿下を見つめていたことに気がついた。実際には殿下の目を見てウィラクリフ殿下のことを思い出していたのだけれど……、いや、結果的に見つめていたことには違いない。
王族に対して不躾な視線を向けるなど、絶対にやってはならないことだ。ウィラクリフ殿下はこうしたわたしの不敬も笑って許してくださるけれど、いくら元婚約者とはいえハルトウィード殿下は不快に思われたはず。
慌てて視線を外し、もう一度お礼を述べて立ち去ろうとした。
「やはり、変わったな」
「え……?」
声をかけられ、再び視線を上げる。
「以前のきみとは違うように見える。涼やかな声には隔たりを感じないし、こうしてしっかりとわたしを見てもくれる。雰囲気が違うせいか別人に感じるほどだ」
「そうでしょうか」
「たしかに以前から飛び抜けて美しいとは思っていたが、いまは血が通った美しさというか……」
「殿下……?」
ハルトウィード殿下の視線が、じっとわたしに注がれ続ける。こんな様子は初めてのことで、婚約者だったときでさえ見たことのない緑眼の様子にざわりと肌が粟立った。
「どうか、されましたか……?」
見たことのない雰囲気に思わず声をかけしてしまったけれど、返事はない。代わりにすうっと手が伸びてきて、わたしの頬へと指が近づき――。
「ハルト、何をしている?」
今度こそ、間違いなくウィラクリフ殿下の声がした。わたしの体はすぐさま声のほうへと振り返る。そこには思ったとおり微笑みを浮かべた殿下の姿があった。
「ルナ、一人にしてすまなかったね。大丈夫だったかい?」
「はい、殿下に教えていただいた方法で、なんとか……。それに、ハルトウィード殿下にも助けていただきました」
「あぁ、そうだったのか。ハルト、わたしからも礼を言うよ。わたしの大切な伴侶を助けてくれてありがとう」
「あぁ、いや……」
ハルトウィード殿下ににこりと微笑まれたウィラクリフ殿下が、わたしの手を取って「疲れていないかい?」と声をかけてくださる。それだけで心臓がとくんと鳴り、頬に熱が集まるようだった。
そんなわたしの状態など当然ご存知であろう殿下は「ふふ」と笑い、「そういえば」とハルトウィード殿下へ視線を向けられる。
「ベアータ殿は休まれているのかな?」
「あぁ、体のこともあるから、今夜は欠席させてもらった」
「それがいいだろう。こういう場は何かと気を遣うからね。身重ならば、ますます大変だろう。……ふむ、ハルトもようやく相手を慮ることができるようになったか」
「兄上、」
「恥ずかしがることはない。人として、王族としては大切なことだ。わたしはハルトがひとつ大人になったことが嬉しいんだよ」
喜んでいらっしゃるウィラクリフ殿下に対し、ハルトウィード殿下は少し困ったような顔をされている。
「いつまでも子ども扱いしないでくれ。わたしだってもう十八、成人しているんだ」
「そうだった。どうも年の離れた弟という感覚が抜けなくてね。そうだな、わたしより先に妃を迎えたのだし、そういう意味ではもう立派な大人になったということか」
「……なんだか嫌味に聞こえる」
「そんなことはないよ。おまえはいつまでもわたしの大事な弟だ。ベアータ殿と好いて結ばれたのだから、心からよかったと安堵もしている。それにね……」
にこりと微笑まれたウィラクリフ殿下が、ハルトウィード殿下の肩に手を載せて顔を寄せていく。
「おまえが思ったとおりの弟に育ってくれて、本当に嬉しいんだよ」
まるで父親のような殿下の言葉に、年の離れた兄弟というのはこういう感じなのだろうかと思った。
(小さいときから、ハルトウィード殿下のお世話をされてきたんだろうな)
だから、わたしに対しても気遣いなどが細やかでいらっしゃるのかもしれない。わたしには兄弟がいないからわからないけれど、もしウィラクリフ殿下のような兄がいたら、きっと誇らしく思っただろう。
そう思いながらハルトウィード殿下に目を向けると、どうしてか少し眉を寄せて難しい顔をしていらっしゃった。
「ルナ、あと少し付き合ってもらえるかな?」
不思議な表情をされているハルトウィード殿下が気になったものの、視線を外してウィラクリフ殿下を見上げる。
「はい、なんでしょう」
「じつは姉上が戻られていてね。ルナに会いたいとごねていらっしゃるんだ」
「え……?」
「夫である王太子殿下が駄目だと言うのをはねつけて、先ほど到着されたのだよ。子どもが生まれたばかりだというのに、ご自分の体よりもルナに会うことを選ぶなんて、困った姉上だ」
「あの、母が話し相手をさせていただいていた王女殿下が、わたしに会いたいとおっしゃっているのですか?」
「そう、その王女殿下だ。きっとお母上の話もしたいのだろう。申し訳ないけれど、姉上の我が儘に付き合ってもらえるかな?」
「そんな、我が儘などともったいないことです」
以前は母上のことを考えるだけで胸がツキンと痛んだ。しかしいまは、どんな人だったのか知りたいと思っている。
本当なら父上に聞くのがよいのだろうけれど、いまだに心に傷を負ったままの父上に尋ねることはできなかった。もし王女殿下に直接お目にかかれるのなら、ぜひいろいろなことをお伺いしたい。
(それに、母上のことを思い出せれば……)
もしかすると、ウィラクリフ殿下に初めてお目にかかったときのことを思い出せるかもしれない。そうして結婚を申し込んでくださったという、十二歳の殿下のことを思い出したかった。以前はあれほど事故に関わるすべてのことを思い出したくないと思っていたのに、そんな気持ちはどこかへ消えてしまっていた。
わずかに興奮しつつウィラクリフ殿下のあとをついていくわたしを、ハルトウィード殿下が複雑な眼差しで見ていたことなど、当然知るよしもなかった。
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