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「たしかに美しいお顔だとは思いますけれど、でも殿方でしょう? やはり殿方に王太子妃は荷が重いお役目だと思うのですけれど」  わたしに似た黒色の髪に碧眼の姫君が、つり目がちな目をさらに吊り上げてわたしを見ていらっしゃる。  今日もよい天気だからと散歩に出たまではよかった。ところが途中から少し気分が悪くなり、ガーデンチェアで休もうと思って外廊下から庭へと出たところで、目の前の姫君に呼び止められたのだ。  姫君は王妃様と縁戚関係にある隣国の大公殿下のご息女で、ウィラクリフ殿下のお妃候補のお一人だったと聞いている。お妃候補でなくなったいまも王城内の貴賓館に留まり、そのまま留学されているのだという。 「別に殿方の伴侶がいらっしゃっても構わないのです。ただ、やはり公の場では正式なお妃が必要だと、きっと皆思っているはずですわ」 「そうかも、しれません」 「あら、わかっていらっしゃるのね。それなら、あなたからそのことを王太子殿下にお話すべきじゃなくて?」 「いえ、王家の大事なことにわたしが口を挟むのは、さすがに、」 「まぁ、やっぱり新しい妃を迎える気はないんじゃないの。嫌な方ね」 「そういうわけでは……」  そもそも、わたしが王家の事情に関わることなどできない。  たしかに王太子妃の地位ではあるけれど生家は底辺の貧乏貴族で、社交界での立場もほぼないに等しい。そういう家柄の妃が王家のほかの妃について何か口にするのは分不相応であり、許されないことだ。 「あなた、エルラーン殿下に認めていただいたからって、それで自惚れているんじゃなくって? たしかに大国の後ろ盾代わりにはなるでしょうけれど、その程度のことで大きな顔はしないほうがよろしくってよ」 「そんなことは、決して、」 「本当に王太子殿下はお気の毒だわ。何があったのかは存じ上げないけれど、いくらお顔が綺麗だとはいっても殿方を娶らなくてはいけなかったなんて、おかわいそう」  少し離れたところで、姫君の侍女たちが「姫様!」と慌てたように声をかけている。  こういった出来事は今回が初めてではなかった。  婚約者として王太子宮に移ってきた当初は、王太子宮を出ればあちこちでこういう言葉を投げかけられた。遠巻きに言われることもあれば、お妃候補だという方々に取り囲まれて、よくない噂話を聞かされることもあった。 (その程度のことは、別にいいんだけど……)  元々噂話やわたし自身への言葉に興味はなかったし、気にすることもなかった。王太子宮に住むにあたって、そういった言葉は甘んじて受け入れようと覚悟もしていた。  しかし、そういった噂話を殿下に知られたくないとは思った。わたしのせいで殿下まで悪く言われているような気がして、お耳に入れたくないと思ったのだ。 (一人で出歩いていてよかった……)  こういう出来事が起きるたびにそう思った。もし侍女たちを連れていたら、彼女たちからメリアンの耳に入り、いずれは殿下の知るところになっていただろう。 (殿下を煩わせることだけは避けなくては)  中にはひどい内容を聞くこともあったけれど、大方の意見はわたしが考えていることと同じだった。だから反論する気もない。  第三王子殿下を養子にお迎えする話も、本当にいいのだろうかといまだに考えることがある。そのたびにリラ様はお笑いになり、何も気にすることはないのだと殿下と同じことをおっしゃるけれど……。 (そういえば、こうして直接何か言われるのは久しぶりだな)  王太子妃候補の方々はいつの間にか王城をお出になったようで、王太子宮に一番近いところに建つ貴賓館も随分と人が少なくなったと聞いている。すっかり静かになったこともあって、こうして貴賓館の近くを歩いていたことに気づくのが遅れてしまったくらいだ。 「とにかく、早く正式な王太子妃を迎えられるべきだわ」  姫君の言葉を、ただじっと聞く。それしか、いまのわたしにできることがないからだ。そう思いながら見ていた姫君の顔が、一瞬ぐにゃりと歪んだように見えた。手足がわずかに痺れているような感覚もある。 (……最後まで、聞くべきなんだろうけど……)  治まっていた気分の悪さがぶり返してきた。このままでは何か粗相をしてしまうかもしれない。少しずつ焦り始めたとき、意外な方の声が聞こえてきた。 「高貴な姫君が、他国の王家のことをあれこれ言うのはお行儀が悪いのではないかしら」 「……リラ様」 「ご機嫌よう、エルニース様」  聞こえてきた声は、五日前にお会いしたばかりのリラ様のものだった。そういえば、この近くの庭園はリラ様のお気に入りだったことを思い出す。 「何やら騒がしいと思って来てみれば、大公様の姫君でしたのね」 「これはリラ様、ご機嫌麗しく存じます」 「あら、機嫌はあまり麗しくなくってよ」  にこりと微笑みながらそうお答えになったリラ様の声は、たしかにいつもと違って少し固いように聞こえる。 「いかに大公様の姫君とはいえ、他国の内情に口を出されるのはいかがかと思うのですけれど」 「そのような大それたことではございませんわ。ただ、王太子殿下には正式な、女性の王太子妃が必要ではとお話していただけですの。それに、この方も賛成してくださって……」 「それが干渉だと申しますのよ。我が国のことも王太子殿下のことも、もちろん王太子妃のことも、国王陛下がお決めになられること。違うかしら?」 「それはごもっともなことですわ。ですから、この方から王太子殿下にお話されて、陛下とご相談のうえ、新しいお妃をと……」 「口を慎みなさいませ」  いつになく強い口調に、わたしのほうが驚いて体が強張ってしまった。 (もしかして、よくない状況なのでは……)  そう思ったものの、わたしが口を挟んでよい内容ではない。そうなると、ただお二人を見守ることしかできなかった。 「王太子妃に関しては、もう随分と前にすべて決まったこと。王太子殿下からも直接お話があったはずです」 「それは……、ですが」 「あなた様がこの国に留まっていられるのは、陛下が大公様のお気持ちを汲んでのこと。そこには王妃様だけでなく王太子殿下の口添えもあったと聞いています。そんな殿下のお気持ちを無下になさるおつもりかしら」 「そんなことは……! わたくしはただ、この国を、王太子殿下を思って、」 「殿下のことを思っているのならば、内政干渉と疑われる言動は慎まれたほうがよろしくてよ。なにせ我が国の王太子は、それはそれはお優しくも恐ろしいお方ですから」 「わたくしは、ただ……」 「それにお忘れかもしれないけれど、わたくし、陛下の第三夫人ですのよ。そして次の王太子の母でもありますわ」  リラ様が深く微笑まれた。それを見た姫君は途端に真っ青な顔になり、少し離れた場所に控えていた侍女たちが慌てたようにやって来た。そのまま姫君たちは貴賓館のほうへと足早に去っていく。  あまりの素早さに挨拶をすることもできなかった。結局わたしは、最後までお二人の間を取り成すことができなかったのだと情けなくなる。 「女というものは恐ろしいものですわ。エルニース様はもっとお気をつけになられたほうがよろしいですわね」 「あの……、はい、ありがとうございます」 「まぁ殿方が女性に弱いのは昔からのこと、仕方がありませんわ。それにエルニース様はお優しい方ですし、貴族同士の探り合いも苦手でいらっしゃいますものね?」 「ふふふ」と笑われて、何も返事ができなかった。  本当に、何もかもがリラ様のおっしゃるとおりだ。このままでは駄目だと思っているけれど、こういうことは学んでどうにかなるものでもない。かといって、いまの立場で社交界に行き経験を積むというのも気が引ける。 (やっぱり、王城内を歩き回るのはやめよう)  はじめは一人を楽しみながらも、早くこの環境に慣れようと思って始めた散策だった。そのうち体を動かす目的が加わり、庭園や植物を見るのも楽しく、よい気晴らしにもなった。しかし、このままではいつか殿下に迷惑をおかけしてしまうかもしれない。それなら王太子宮の中でできることを探したほうがいい。 「まぁ、今回のことも王太子殿下のお耳にはすぐに入るのでしょうけれど……。それよりエルニース様、少しお顔の色がよくないように見えますわ。もしかして、ご気分が優れないのではなくて?」 「えぇ、朝はなんともなかったんですが、歩いているうちに少し気分が悪くなって」 「まぁ、食あたりかしら。いつもと違うものを口にされたのでは?」 「変わった物は食べていないと思います。散歩の途中で果実水を飲みはしましたが……」 「果実水? 散歩の途中で?」  リラ様がわずかに眉をひそめていらっしゃる。いけないことだっただろうかと思いながら、事の経緯をお話しすることにした。 「はい。ちょうどよいガーデンチェアを見つけて、そこで休憩がてら本を読んでいたんです。そうしたら、庭師がわざわざ持ってきてくれて……」 「それは南の庭園かしら?」 「いえ、それより西側の……。ちょうど秋薔薇が見頃の、」 「西側、ということは貴賓館のそばですわね……。それで、ご気分は?」 「そこまでひどくはないので、大丈夫だと思います。ご心配をおかけしてしまい申し訳ありません。王太子宮も近いですし、帰って休むことにします」 「そうね、それがいいですわ。エルニース様が体調を崩されでもしたら、王太子殿下が悲しまれますもの」 「そう、ですね……。気をつけます」 「えぇ、十分にお気をつけになって。エルニース様のお体ひとつで、この国は大きく変わってしまうのですから」 「え……?」  リラ様のおっしゃった意味がわからず首を傾げるわたしに、「侍女に送らせますわ」と言葉が続く。 「いえ、そこまでしていただかなくても大丈夫ですから」 「遠慮なさらないで。リドニスもエルニース様にお会いするのを楽しみにしているのですから、早くよくなってくださいませね」  再びにこりと微笑まれたら、断ることはできない。  こうしてリラ様の侍女に伴われて部屋に戻ると、予想以上にキルトが慌てふためき、メリアンにはすぐさまベッドで休むように言われた。もちろん、諸々のことはあっという間に執務中の殿下の耳に入ってしまった。  ……やっぱり王城内を歩き回るのはやめよう、わたしはすぐさまそう決意した。  ・・・・  三日ぶりに薔薇の香りを楽しみながら本を読む。  大したことはないと思っていた気分の悪さは思ったよりもひどかったらしく、あの日は夕食を口にすることもできず、翌日の夕食まで丸一日食事を取ることができなかった。殿下をはじめメリアンたちにも随分と心配をかけてしまったけれど、あれはなんだったのだろうか。  これまで大きな病にかかったことのないわたしには、あの気持ち悪さの原因がわからないでいた。 「あれ……?」  本を読みながら、顔馴染みになった庭師がいないことに気がついた。  最初にこのガーデンチェアを見つけたとき声をかけてくれた庭師で、それ以来ここに来るたびに果実水を用意してくれる親切な男だった。果実水を飲みながらの会話は興味深いものばかりで、本では得られない知識をいくつも教えてもらった。 (それも今日で最後だから、これまでのお礼を言いたかったのだけどな)  キョロキョロと辺りを見ていると、キルトの伴侶でありハルトウィード殿下の近衛兵でもあるハリスの姿が目に入った。 「ハリス」 「これはエルニース様、このようなところで読書ですか?」 「散歩の休憩に少しだけ。でも、これも今日で終わりにしようと思って」 「それがよろしいかもしれませんね。先だってのことでは、王太子殿下も我らも肝を冷やしました」 「あの……すみません」  まさか、ハリスにまで話が届いていたとは……。申し訳なく思い謝罪をすると、「キルトは心配のあまり体重が減ったと言っていましたね」と言われ、ますます申し訳なくなる。 「といっても、リンゴ一つ分ほどのようでしたが」  ニヤリと笑うハリスの表情に、気遣いからの冗談だということがわかった。少し笑ってから「キルトにも謝っておきます」と答えている間に、ハリスが腰を下ろし地面に片膝をつく。 「あの、ここは中庭ですし、畏まった作法は必要ありませんから」 「お気になさいませんように」 「でも……どうか、ベンチに座ってください」  そう伝えると、ハリスが再びニヤリとした笑みを浮かべた。 「それはやめておきましょう。エルニース様の隣に座ったとあっては、殿下にどんな嫌味を聞かされるかわかりませんので」 「ウィラクリフ殿下が、嫌味を? まさか……」  穏やかで優しい殿下からは想像できず、首を傾げてしまう。 「エルニース様はご存知ないかもしれませんが、殿下はそれはもう口が達者でいらっしゃるので、聞かされるほうは大変なのです」  大袈裟に眉尻を下げ右手を胸に当てる仕草に、思わずプッと吹き出してしまった。いまのもわたしを気遣っての冗談だったに違いない。キルトと言い、この夫夫(ふうふ)の雰囲気や気遣いは堅苦しくなく心地よかった。 「それよりも、どなたかお探しのご様子でしたが」 「あ、はい。少し前に顔見知りになった庭師が見当たらないなと思って」 「庭師……。もしや、果実水を差し上げていた男ですか?」 「はい。知っているんですか?」  わたしの問いかけに少し考えるような素振りを見せたハリスは、「まぁいいか」と言って口を開いた。 「その男ならば三日前、殿下に処分されました」 「処分?」  思ってもみなかった言葉に驚いてしまう。 「あの、ウィラクリフ殿下にですか?」 「はい。二重の罪を犯した咎で」 「二重の罪……」  そのような大それたことをするような男には見えなかった。変に畏まることもなく、学舎に通っていた頃のように話せる気持ちのよい相手だと思っていただけに、罪を犯したという内容に言葉を失う。 「……一体、何をしたんですか?」 「エルニース様のお耳に入れるような内容ではありませんので、それはご容赦を。ただ、決して触れてはならない殿下の逆鱗に触れたのです」 「一体どんな……」 「傷つけてはならない掌中の珠に近づいただけでなく、|刃《やいば》を向けたのですから仕方ありません。まぁこれで不穏な輩もおとなしくなるでしょうから、ご安心ください」 「……もしかして、わたしに関わることですか?」  問いかければ、少し細い眼がさらにすうっと細くなった。先ほどまでの人懐っこい雰囲気が消え、恐ろしさのようなものを感じる。鋭い眼差しに背筋がピンと伸びるような気持ちになり、思わず本を握る手に力が入ってしまった。 「これ以上口が滑っては、また隊長殿から『お喋り夫夫(ふうふ)が』と叱られかねませんね。そうそう、キルトは昔からよく喋る男だったのですが、エルニース様にご迷惑をおかけしてはいませんか?」 「え? あ、キルト、ですか? いえ、お喋りというか、人付き合いが得意でないわたしには、キルトくらい話してくれるほうが、ありがたいと思っています」 「そうですか、それはよかった。いや、伴侶が仕えている主人に褒められるというのは、なかなかどうして嬉しいものです」  再び戻った人懐っこい笑みのおかげか、奇妙な緊張感がすぅっと消えた。尋ねたい内容はいろいろあったけれど、またあの緊張感に包まれるかもしれないと思うと口には出せそうにない。 「さて、そろそろ王太子宮へお戻りになられたほうがいいでしょう。あぁほら、キルトの下の兄が迎えに来ましたよ」 「あぁ、ハリスか。エルニース様、殿下が心配されます、どうかお戻りを」 「すみません。体調も戻ったので、ちょっと外の空気を吸おうと思って」  急ぎ足でやって来た近衛兵の胸元を見ると、王太子付きの印がついていた。キルトの下の兄と聞いて顔を見れば、たしかにどこか似通っている部分がある。  たとえキルトの兄であっても、王太子付きの近衛兵に王太子妃を迎えにいく役目はないはずだ。わたしは「すみません」と謝りながら慌てて立ち上がった。 「ははは、相変わらず王太子殿下は心配性でいらっしゃるようだ。これでは昔と変わらないな。あの頃もこうして二人で忙しくしていたのが懐かしい」 「ハリス、笑い事じゃ済まなくなるところだったんだぞ」 「サリウス、そう睨むな。それに、今回のことは結果的によい方向に向かったのかもしれないぞ? まぁ、誰にとってのよい方向かは別としてだが」 「ハリス!」  キルトの兄だというサリウスが、立ち上がったハリスをギロリと睨んでいる。もしや喧嘩が始まるのではないかと心配したが、ハリスが人懐っこい笑みを浮かべたことで違うのだと安堵した。 「それではエルニース様、わたしはこれで失礼します」 「すみません、任務の邪魔をしてしまったようで」 「お気になさらず。これも広い意味では任務のひとつですので」  笑顔で去って行くハリスを見送り、迎えに来たサリウスに連れられて王太子宮へと戻った。道すがらサリウスにも庭師のことを訊ねてはみたけれど、ハリス同様に殿下の命令で処分されたのだということしか聞くことはできなかった。 (もしかして、キルトなら知っているだろうか)  そう思い、入浴のときにキルトにも訊ねてみた。 「庭師ですか? あー、あのことか」 「知ってる?」 「詳しくはわからないですけど、旦那様からちょっとだけ聞いてますよ」 「殿下が直接処分されたって聞いたんだけど……」 「みたいですねー。まぁエルニース様に勝手に近づいて仲良くなっちゃったりしたら、庭師どころか大抵の貴族だって処分されますけどね」 「え……?」  とんでもない言葉が聞こえたような気がしたけれど、キルトは表情を変えることなく話を続けている。 「それに、庭師はラティーナ様に懐柔されてたみたいですからねー。身元がちゃんとしていたから近衛兵も油断していたんじゃないかって話ですけど、仕方ないですよねー。そういや果実水が決定打になったって聞きましたよー」 「ラティーナ様って大公様の、果実水が、なに、って、ひゃっ!」  急にキルトに抱え上げられ、驚いている間によくわからない甕に足から入れられてしまった。  浴場の床には、口の広い大きな甕が上半分ほど出た状態で埋め込まれていた。中にはたっぷりのお湯と見たことのない薬草らしきもの、それに色とりどりの花が浮かんでいる。以前はなかったものだから、寝込んでいた三日の間に用意されたものなのだろう。 「今夜からしばらくは、この湯甕に浸かっていただきますからねー。これ、海を渡った異国のお風呂らしいんですけどね。薬草を入れて、こうして肩まで浸かると体内の毒素が抜けるそうですよ」 「毒素って、ぅわ!」 「湯甕も薬草も、あとこの花も、全部殿下がエルニース様のためにって用意されたんですよ? いやぁ、愛されてますねー」  突然湯に突っ込まれたことに驚き、慌てて立ち上がろうとした。しかしキルトに肩をグッと押され、再び甕の中に入れられてしまう。  甕はとても大きく窮屈には感じない。中の湯も煮立っているわけではなく、ちょうどよい温度だけれど……。 (なんというか、スープの具になったような気がする……)  そういえば異国の本に、どこかの国ではこうしてお湯に体を浸ける入浴法があると書いてあった気がする。もしかして、これがそうなのだろうか。 (……もしかして、わたしが体調を崩したから、わざわざこれを?)  わたしのために、たった三日で殿下が用意してくださったということに体の熱がフッと上がった気がした。  これはお湯に浸かっているからじゃない。鼓動が少し早くなったのも、口元が緩んでしまうのも、特別なこのお湯のせいだけじゃないことはわたし自身がよくわかっている。 「早く万全の体調に戻るといいですね。旦那様も兄たちも心配してましたよー」 「そうだ、サリウスには送ってもらってしまって……。それにハリスも任務の途中だっただろうに、わたしに付き合わせてしまったみたいで」 「あはは、旦那様は好きでウロウロしているからいいんですよ。サリウス兄だって任務ですからね。それに二人は昔っから任務で関わることが多かったんです」  そういえば、ハリスが「昔も二人で任務を」というようなことを言っていた気がする。 「二人は昔から一緒の任務を? ……あれ? でもハリスはハルトウィード殿下の近衛兵だったんだよね?」 「ハルトウィード殿下の近衛兵に就く前の少しの間、旦那様はサリウス兄と同じ王太子直属の騎士団にいたんです。だからエルニース様の護衛というか監視というか、そういう任務に就いてたみたいなんですよねー。馬車での事故があってから、殿下はすっかり心配性になってしまわれたみたいで」 「事故って、いや、わたしの護衛って、一体……」  思わず甕から上半身を出してキルトを見たら、再び肩をググッと押されてしまった。 「はいはい、ちゃんと肩まで浸かってくださいねー」 「わたしの護衛って、どういうこと?」 「俺が勝手に思ってるだけですけど、たぶんそうだと思うんですよねー。それにあんな図体のでかい二人が市中の学舎に出入りするなんて、それだけで怖いじゃないですか。効果抜群だとは思いますけど、周囲にはいい迷惑だったんじゃないですかねー」 「え? もしかして学舎に二人が来てたってこと?」 「はい。エルニース様はお気づきじゃなかったかもしれませんけどね。ま、不用意に近づこうとする輩を排除して回っていただけなんで、気づきようがなかったかもしれませんけど。いやー、あの二人に睨まれたら誰だって近づかなくなりますってねー」 「それはどういう、って、うわっ!」  いろいろ訊きたくて口を開こうとしたら、今度は脇の下に手を入れられて一気に体を引き上げられた。あまりのことに呆気に取られている間に柔らかな布で全身を拭われ、あっという間に夜着を着せられる。 (たしかに、キルトはそれなりの体格だとは思うけど……)  それでも、こんなふうに子どものように扱われるのは、どうなんだろうか……。  少しばかり衝撃を受けている間にメリアンの手入れが始まり、キルトは退室してしまっていた。 (あとでまたキルトに訊いてみよう)  そう思っていたのに、テーブルの上に砂漠の国の本があるのが目に入った途端、綺麗さっぱり忘れてしまった。 「殿下が取り寄せてくださったのだろうな……」  十日ほど前にこの本について話をした。王太子宮の蔵書にないと聞いたときには残念に思ったものの、ほかにも本はたくさんあるし、わたし自身はすっかり忘れていた。しかし殿下は忘れるどころか、こうしてわざわざ取り寄せてくださったということだ。  口元がだらしなく緩むのを感じながら、気がつけば夢中になって本を読み進めていた。そのうち湯のおかげがすっかり眠くなり、殿下をお待ちすることなく眠りについてしまった。

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