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15・終

「王城内の散策をやめる?」 「はい。きっとこれまでも大勢に迷惑をかけていたと思うんです。だから、歩き回るなら王太子宮の中だけにしようかと……。それならメリアンやキルトも近くにいますし、どなたかに呼びに来ていただく手間もかけずに済みますし……」 「ルナが気にするようなことは何もないんだけどね」 「いえ、ただでさえ侍女を連れずに出歩く我が儘を許していただいているわけですから……。それに、今回のことでは殿下にもご迷惑をおかけしましたし、これ以上執務の邪魔をするわけにはいきません」  寝込んだ二日間、殿下は執務室に行くことなく、わたしが眠っている間もずっとそばにいてくださったのだとあとから聞いた。ベッドの傍らで仕事をされていたとは聞いたけれど、それでも執務の邪魔をしたことに変わりはない。  それにすっかりよくなった三日目も何度も様子を見にいらっしゃって、あれでは満足に執務が進まなかったに違いない。  王太子の務めを邪魔してしまうなど、殿下の伴侶として絶対にしてはいけないことだ。だから、自分の我が儘を通してまで一人で出歩くことはやめようと思った。 「ルナがそれでいいと言うのなら構わないけれど」 「はい、殿下のお手を煩わせるようなことは、したくないのです」 「……ふふ、わたしのため、ね」 「殿下?」  わたしの髪を撫でている殿下はとても楽しそうだ。 「しかし、それではルナが退屈してしまうだろう……。そうだ、それなら星見の塔を建てようか」 「星見の塔?」 「エルラーン殿下の宮殿にあった建物で、それは素晴らしいものだった。いつかは造りたいと思って準備だけはしていてね。……そうだね、この際だ、王太子宮の隣に造るとしよう」  そう言って殿下が大きな紙の束を持ってこられた。それは建物の図面で、植物や家具などの配置も描かれている。 「これは……、五階建ての塔ですか?」 「七階分の高さを持つ五階建てだよ。エルラーン殿下のところで見たのは十五階分くらいあったかな。昔は星の動きを観察するためのものだったそうだけど、いまは王族の娯楽用として使われているそうでね。塔自体はそれほど広くなかったけど、そのぶん高くてとてもよい眺めだった。あの景色をルナにも見せたいと、ずっと思っていたんだ」  小高い場所にある王城なら、七階分ほどの高さで十分よい眺めになるらしい。  エルラーン殿下のところで見た塔と違うのは、高さだけでなく中の部屋も違うのだと殿下が図面を指でなぞっていらっしゃる。  一階には書棚や給湯のための小部屋があり、侍女たちが休める部屋もある。二階と三階は吹き抜けになっていて、回廊のような階段と途中に休憩用の椅子、それに景色を眺めるための窓があちこちに描かれていた。  四階には庭園にも見える植物があふれる談話室が、そうして最上階の五階には外を眺めながらゆっくりとくつろげる部屋まである。そこには寝椅子にしては大きすぎる家具の絵が描かれていて、見間違いでなければ小振りな浴場らしきものも描かれていた。 「殿下、この最上階は寝室ですか?」 「そうだよ。ここで一晩中星を眺められるように、そのまま寝てしまっても大丈夫な部屋を作ろうと思ってね」 「一晩中、星を……。それは、とても素敵ですね」  小さい頃から大好きだった星の観察記録本のことを思い出した。どの季節の星空も美しいと思うけれど、一番は空気が澄んでいる冬だろう。とくに冬の大星座は、この国でもよく観察できて圧巻なのだと観察記録本には書かれていた。  幼い頃から、いつかは自分の目で観察したいと思っていた。しかし、あまりの寒さに外で観察し続けるのは難しく、いままで成功したことは一度もない。けれどこの塔なら、きっと明けの綺羅星まで見られるに違いない……そう思うだけで子どものようにワクワクした。初めて星の本を見たときのように気分が高揚する。 (……そうだ、初めて星の本をくれたのは母上だった)  小さな子どもでも楽しめるようにと、最初にもらった本にはたくさんの星空の絵が描かれていた。あまりに美しい絵に夢中になったわたしは、毎晩のように寝る直前まで眺めていたのを思い出す。  それだけ大好きだった絵本だったのに、母上が亡くなってからは見るのがつらくなり、どこかにしまい込んだままになっていた。 「小さい頃、ルナが嬉しそうに星の本を見せてくれたのが忘れられなくてね。それでいつか、心ゆくまで星を眺められるところに連れて行きたいと思っていたんだ」 「……その本は、たぶん母がくれたものだと思います」 「なるほど。それで三回とも大事に持っていたのか」 「……あの本はとても気に入っていて、いつも持ち歩いていました」  うっすらと思い出した。あの本を持ったわたしは、綺麗なドレスを着た母上に連れられて、とても大きなお屋敷に行ったような気がする。  ……そうだ、あのときは父上に本は置いていくようにと朝から叱られたのだ。それでも持って行きたくて、ぐずって嫌がって父上を困らせた。最後には母上が許してくれて、それで大好きな絵本を持って行くことができた。 (そういえば、そのときに誰かに絵本を見せたような……)  お屋敷のどこかで誰かに絵本を見せた覚えがある。あれはたしか、緑色の目の男の子だった。 (栗色の髪の男の子で……いや、金髪、だったかな……)  わたしより年上の男の子で、絵本を覗き込む髪は金色よりも少し濃い栗色……いや、違う。はじめは金色の髪の子で、そのあと栗色の髪をした大きな男の子が来たんだ。そうしたら金色の髪の子はいなくなって、つぎにお屋敷に行ったときには栗色の髪の子しかいなかった気がする。 (……ぼんやりとした記憶で、はっきりとしないな)  はっきりとは思い出せないけれど、そのとき殿下にお目にかかったのだろう。 「ではそのとき、殿下にお目にかかったんですね」 「初めてきみを見たとき、星の本を持った天の使いかと思ったよ。それくらいルナは可愛くて、そして美しかった」 「あのときはまだ、四歳になる前です。その、美しい、というのは……」 「年齢など関係ない。わたしにはルナが何よりも美しく見えたんだ。艶やかな黒髪もキラキラした灰青色の目も、赤い唇も乳白色の肌も、すべてが美しかった」 「殿下、」  段々と恥ずかしくなり、殿下の緑眼から顔を隠すように俯いた。 「あの頃からルナはずっと美しいままだ。もちろん見た目だけじゃなく内面もね。勤勉で努力家で、それでいて純粋なままで……。わたしが恋をし、ほしいと願ったルナのままだ」 「殿下……?」  最後のほうが聞き取れなくて顔を上げると、頬と唇にキスをされた。それだけで全身の熱が少し上がる。  キスをくり返し、唇を甘く噛まれ、舌を絡ませながら殿下の手が夜着をほどいていく。わたしも同じようにしたいけれど、キスで頭がぼうっとして殿下の上着のボタンを外すのが精一杯だった。  夜着をすべて剥ぎ取られたあとはベッドに運ばれ、あちこちにキスをされながら殿下を受け入れるための準備をされる。  潤滑剤で濡れた殿下の指が、一本ずつ中に入りほぐすように何度も出し入れされる。そのうち指が二本、三本と増え、ビリビリとする場所を何度も擦られた。直接注ぎ口を差し込まれて中をたっぷりの潤滑剤で満たされる頃には、わたしの不浄の場所ははしたないほど昂ぶってしまうのもいつものことだ。 「いつもは苦しくないように後ろからしているけど、今日は前からしようか」 「ん……、ま、ぇ……?」 「そう、抱き合いながらルナを感じたい」  そうおっしゃった殿下の熱い手が仰向けになったわたしの太ももを持ち上げ、あらぬところが殿下の眼前に晒された。あまりの状態に動くことも声を出すこともできずに固まっていると、潤滑剤で濡れたところに殿下の硬いものがあてがわれる。 「あ、」と思ったときには、グヌゥと押し開かれる感覚に襲われていた。そのままとてつもない圧迫感が内蔵を開いていく感覚に、痛くないはずの体が小さく震える。いつもと違い正面が触れ合っているからか、抱き合っているのだということを実感して胸がざわざわとした。まるで殿下の腕の中に閉じ込められているような気持ちになり、なんとも言えない恍惚とした感情に満たされていく。 「は、ぅぁ……っ! ん、んぁ、ぁあ……!」 「ふふ……、甘く蕩けた顔を見ながらというのは、とても興奮する……」 「ひぅ! や、ぁっ、そこ、こすら、……ぃで、や……、ひっ、ひぅ!」 「反り返っているから、ちょうどよく当たるだろう……? ほら、ルナが気持ちいいとよく鳴いてしまうところだよ」 「ひあ、ぁ! ぁ、ぁふ、ふっ、ふや、ぁ!」 「ほら、一度果てたこちらもまた泣き出した……。あぁ、これは子種ではないね……。味はそれほどしないかな」  不浄の場所の先端をヌルヌルと弄られているのはわかるけれど、その手を止めることはできなかった。わたしの口からは無意味な音ばかりが出て、まったく言葉になっていない。 「もう潮が出るなんて、ルナはとても優秀だ。それに……、ほら、ここも物覚えがよくて、すっかりわたしの形を覚えてしまった」  パチュ、パチュンと肌がぶつかる音と殿下の声が重なる。殿下が何かおっしゃっていることはわかっているのに理解する余裕がなくて、ただ頭を振ることしかできなかった。  せり上がるように中が震え出し、それが信じられないほど気持ちいい。同時に大きすぎる快感が怖くて、訳のわからない恐怖から逃れようと何度も頭を緩く振り続けた。 「余計なものを排除し、時間をかけてこの手に囲う準備をしてきた。そうして手に入れたあと、今度はきみ自身が王太子宮の外に出ないと決断した。そう、きみは自分でわたしのそばにだけいることを選んだ」 「ぃ……っ。ひ、ふぁ、ぁ……っ」 「これからもずっと、わたしが大事に守ってあげよう。そのためには優秀な王太子にもなるし賢王にもなろう。愛しいルナ、わたしだけのルナ、きみさえそばにいてくれれば、それだけでわたしは幸せなんだよ」  殿下の言葉が、ただただ耳を滑り落ちて行く。声と一緒に腰をグッグッと押しつけられ、ヌプと引き抜かれ、それだけでみっともない声が漏れた。ゾクゾクとしたものがお腹の中でざわめき、全神経がそこに集中するような感覚になる。  そうして殿下の「ルナ」という声とともに、グウッと深いところを押し開かれた。同時に睾丸のあたりに柔らかなものが触れる。 (……これは……殿下の髪に似た、栗色の……) 「あ、あ、ぅ、んっ、っ――――!」  太ももを押し上げるように持ち上げられ、奥に硬く大きな圧迫感を強く感じて悲鳴のような声が漏れた。しかし声が外に漏れたのは一瞬で、殿下の唇に塞がれて一瞬の呼吸すら漏らすことができなくなる。  体中が苦しくてたまらないのに、それを上回る鋭い感覚が腰から背中を駆け上がり、頭にぶつかって激しい明滅をくり返した。  あぁ、駄目だ、きっと耐えられない――。  ブワッと広がった感覚に腰がビクンと跳ね、その動きさえも殿下に押さえ込まれたまま、わたしの意識は少しずつ薄らいでいった。  ・・・・  少し離れたところから建設中の塔を眺める。塔は王太子宮と外廊下で繋ぐように変更されたそうで、先に完成した外廊下の端から、こうして毎日のように塔ができるところを眺めていた。 (そういえば、貴賓館は随分と静かになったな)  王太子宮の隣に塔を建てるため、王太子宮にもっとも近い貴賓館の庭を半分ほど潰したと聞いている。そのようなことをしても大丈夫なのか少し心配したけれど、貴賓館はほかに三棟あり問題ないという話だった。  それに王太子宮近くの貴賓館は王太子妃候補が住まう場所だったそうで、ウィラクリフ殿下は「もう必要ない場所だからね」と笑顔でおっしゃっていた。  その貴賓館に滞在されていた大公殿下の姫君――ラティーナ様は、わたしが寝込んでいた間に帰国されたそうだ。なんでもすぐに帰るようにと母国から呼び戻されたそうで、陛下への挨拶もそこそこに大急ぎで出国されたのだという。  片付けもままならなかったらしく、貴賓館の片付けに駆り出されていた侍女たちが少し疲れた顔をしていたのを思い出す。そんな侍女たちの立ち話がたまたま耳に入ったのは、ラティーナ様が帰国されて十日ほど経った頃だった。  ――今回の帰国は、やっぱり……。  ――毒の件が表沙汰になったという話だから、大急ぎでの帰国になったそうよ。  ――帰国だけで済むかしら。  毒という言葉にドキッとした。  昔から貴族や王族の間では、政敵や恋敵などに毒を盛るというのは珍しいことではない。そういうドロドロした話は民たちの格好の餌食らしく、市中にはその手の本がたくさん溢れていた。わたしも何冊か読んだことがあるし、歴史上、毒殺事件が何度も起きたことは知っている。  もしかして大公殿下の身に何かあったのではないだろうか。であれば、ご息女であるラティーナ様が大急ぎで呼び戻されたのもわかる。 (大変なことになっていなければいいけれど)  すっかり人気のなくなった貴賓館を見ながら、そう願わずにはいられなかった。 「これはエルニース様、また塔をご覧になっていらっしゃるんですか?」 「ハリス」 「最上階までほぼ完成したと聞いています。あとは王太子殿下こだわりの内装だけだとか」 「図面とは少し変えるのだとかで、まだ時間がかかるそうです。たしか自動で上り下りできる装置を付けるのだとおっしゃっていました」 「なるほど。やはり新しい愛の巣ということで、殿下も力が入っていらっしゃる」 「あい、の……」  ハリスの言葉にカッと頬が熱くなった。 「いやいや、いつまでも蜜月のご様子で何よりです」 「いえ! あの、その表現は少し違うのではと思うのですが、ええと、この塔はそういうものではなくて、」 「おっと、これ以上お可愛らしい顔を見ては、殿下に尻を蹴られてしまいそうですね」 「え? 殿下が何を……」 「ハリス! おまえはまた余計なことを申し上げているのではないだろうな!」  王太子宮のほうから大きな声が聞こえる。振り返るとキルトの下の兄であるサリウスが小走りで近づいてくるところだった。 「なんだ、藪から棒に。人をお喋りみたいに言うな」 「そのとおりだろう! まったく、おまえと言いキルトと言い、口が滑りやすいのはどうなんだ」 「なんだ? 人の伴侶の悪口か?」 「うるさい。あれはわたしの弟でもあるんだ」 「そうそう、おまえと違って可愛い奴だ」 「そんなことは、おまえに言われなくともわかっている」 「そうか? おまえよりもわたしのほうが、もっと可愛い姿を知っていると思うぞ?」 「何を言ってる。キルトが小さい頃から世話を焼いてきたのはわたしだ。それこそおしめを替えるのだって……」 「……ふ、ふふっ、くくっ」  二人の会話にどうにも我慢ができず、思わず笑ってしまった。 「……これは、大変お見苦しいところをお見せしてしまいました。どうぞお忘れください」 「いえ、あの、とても仲が良い兄弟だというのがよくわかって、よいのではないかと、ふふっ、思います」  あぁ、いけない、どうしても口元が緩んで笑い声が漏れてしまう。笑っては失礼だと思うのに、なんだか楽しくなって声が漏れてしまうのだ。 「キルトたち兄弟とは長い付き合いですが、昔からとても仲の良い兄弟でしたね。とくに末っ子のキルトは年が離れているからか、そりゃもう溺愛されていましたからね」 「そのせいか、自由奔放に育ってしまったように思います。それに口ばかりが達者になって、つるりと余計なことまで口を滑らせてしまう。おまえら夫夫(ふうふ)はそっくりだ」 「うん? わたしはつるりと滑らせたりはしないぞ? わかっていて漏らしているだけだ」 「余計に質が悪い!」 「ははは、そうカッカするな」 「十も年下のおまえに言われたくない!」 「おまえとは九歳しか違わないじゃないか」 「同じようなものだろうが!」  二人の様子にまた笑ってしまった。キルトがハリスとは幼馴染みだと言っていたけれど、おそらく全員が兄弟みたいな感じなのだろう。それにしても、兄弟とはなんと羨ましいものだろうか。 「わたしには兄弟がいないので羨ましい限りです。ウィラクリフ殿下とハルトウィード殿下も、とても仲の良い兄弟でいらっしゃるし」  わたしの言葉に二人の動きがぴたりと止まった。そうして、それぞれの視線がわたしへと向けられる。 「あの……?」  何かおかしなことを言ってしまっただろうか。首を傾げていると、ハリスがいつもの人懐っこい笑みを浮かべて口を開いた。 「そうですね、兄弟仲が良いのはよいことかと思います。ところでエルニース様、王太子殿下への贈り物に悩まれておいでだとか」 「え? 贈り物……、あぁ、はい。どうしたものかと考えあぐねています」 「ふむ、ではキルトに相談されるとよいかもしれませんね。昔からキルトは賑やかなことが大好きでしたから、そういうことにも詳しいのです。なぁ、サリウス」 「あぁ、たしかに。もしお困りのようでしたら、弟にご相談ください。多少なりとお役に立てるかと思います」 「はい、ありがとうございます」  二人に言われ、ウィラクリフ殿下の誕生日の贈り物を決めかねていたことを思い出した。  殿下は一月(ひとつき)と少し前に二十七歳の誕生日を迎えられた。国を挙げての祝い事や盛大なパーティは行われたものの、王太子宮での祝い事は先延ばしになっている。それは殿下が「ルナの誕生日と一緒に祝いたい」とおっしゃったからで、わたしの誕生日は十日後に迫っていた。  そのときこそ、殿下に贈り物を差し上げたい。一月(ひとつき)前にはできなかったことを遂行しようと日々あれこれ考え続けた。  けれど、これまで父上にしか誕生日の贈り物をしたことがないわたしには、殿下に何をお贈りすればいいのかさっぱり見当がつかなかった。それに殿下は王太子でいらっしゃるから、おかしなものをお贈りするわけにもいかない。 (なんて難しいのだろう……)  出来上がっていく塔を見ながらずっと考えていたのだけれど、結局よい案は何も浮かばなかった。それなら二人が言うように、キルトに相談するのがいいのかもしれない。 (本当は一人で選びたかったけれど……)  いや、今回は何もかもが初めてだから仕方がないと納得しよう。来年の贈り物こそ、一人で考えて選べばいいのだ。 (そう、来年もそのつぎも、殿下への贈り物を考えることができるのだから)  そのためにもたくさん学び、殿下の伴侶に相応しい人間になりたい。  ふと、先日、殿下から歴史書の編纂をしてみないかと言われたことを思い出した。 「ルナは王城一の読書家だ。きっと城にある歴史書のことをルナ以上に知っている者はいないだろう。だから、歴史書の編纂はルナにぴったりの役目だと思うのだけれど、どうかな?」 「歴史書の編纂、ですか?」 「そう、我が国と近隣国に関する歴史を遡りながらまとめるんだ。これは国にとっても重要な資料になるし、異国の言葉の読み書きができるルナには最適だと思うのだけど」 「わたしにできるでしょうか?」 「ルナにこそ相応しいと思うよ。それに、書物の編纂なら王太子宮から出なくともできるからね」  歴史書の編纂が殿下の伴侶に相応しい役目なのかはわからない。けれど、少なくとも殿下のお役に立つのであれば、やってみたいと思った。  それに馬車や人目が苦手なわたしにもできる役目をと、王太子宮内でできることを殿下がわざわざ考えてくださったに違いない。「時間はたっぷりあるから考えておいて」と殿下はおっしゃったけれど、そろそろ返事をするべきだろう。 「さぁエルニース様、部屋へ戻りましょう。ハリスはどうする?」 「近辺を少し回っておく。ではエルニース様、わたしはここで失礼します」 「はい、あの、いつもありがとうございます」 「いえいえ、これも新しい任務の一環ですので」  そういえば、ハリスはハルトウィード殿下の近衛兵から別の任務に変わったのだとキルトが話していた。きっと出産準備でベアータ様がご生家に戻られ、護衛の任務が必要なくなったからだろう。  一体どんな任務かまでは聞いていないけれど、王太子宮の近くで見かけることが多いからウィラクリフ殿下に関わる任務なのかもしれない。 「足元にお気をつけください」 「わたしはご令嬢ではないですから、大丈夫ですよ」  サリウスはいつもご令嬢の相手をするように声をかけてくれる。すっかり慣れてしまったけれど、やっぱりおかしいような気がして少しだけ笑ってしまった。 (もうすぐ冬が来るな)  王太子宮に来てから、あっという間に時間が過ぎた。  澄んだ青い空が綺麗だなと王城の上の空を見上げ、その下で風に揺れる木々の緑を目にし、いつもわたしを見ていてくださる優しい緑眼を思い出して頬が緩んだ。

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