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第29話
「思い出したい。……僕が傷つくのなんかいいから……思い出して、ルークさんに話して……」
そしてもう、あんな目で見られたくない。
真実はどうでも良いのだ。もしも本当にアルバラがルークの大切な人を殺していたとしても、何も知らない状態で恨まれるよりましである。せめて自分の罪を知って、ルークにそれを伝えたかった。
「……お願い……思い出したい……」
ぎゅうと固く目を閉じる。
するとアルバラの頭の中に、まるで芽吹くように記憶の断片が降ってきた。
まったく知らない記憶だ。
散り散りになっているそれは、規則正しく時系列で並べられていく。
『そう。もうすぐ死ぬんだって』
ダークブラウンの髪に青の瞳。切れ長の目はルークと似ている。
彼女はいつも笑っていて、戸惑っていたアルバラの心にするりと入り込んだ。
『お母さんが居なくても寂しくないよ。……ずっとお母さんに言われてたんだ。私たちは家族から逃げ出したけど、家族はずっと私たちを見守ってくれてるんだって。それに、病院の裏で白い犬を見つけたの。唯一の私のお友達』
彼女は頻繁に離宮に忍び込んでいた。離宮が王宮の敷地の隅っこにあったのも良かったのだろう。
アルバラが閉じ込められていると、なんとなく彼女は察していたのかもしれない。彼女は何も言わなかったけれど、いつもアルバラのことを気にかけてくれていた。
『……ねえ、アル。アルはいつも寂しそうな顔をしてるんだね。ちゃんと家族と暮らしてるのに』
僕、寂しそう? 思わず聞き返したアルバラに、彼女は困ったような笑みを浮かべた。
『そっか。寂しくない時を知らないんだね。……大丈夫だよ。私が居れば、アルは「寂しくない」を理解できるから』
——彼女の隣は心地が良かった。彼女はアルバラに深入りしない。何も聞かない。ただアルバラの側にいて、アルバラと話をしてくれる。そんな存在がなかったから、アルバラにとって彼女は「特別」だった。
しかし、そんな時間が終わるのは早かった。彼女がアルバラの元に訪れて、ひと月が経った頃である。
ユーリウスが離宮に押しかけて、彼女と話しているアルバラを引き離した。
アルバラの母は遠目にハラハラとその様子を見ていた。アルバラも彼女も、突然のことに動けない。ユーリウスだけが怖い顔をしていた。
『アルバラ! こんな女と関わりを持つのはやめなさい! こいつは悪人だぞ!』
言われている意味が分からなくて、思わず彼女を振り返る。彼女は怒ったようにユーリウスを見ていた。
『や、やめてください、殿下! 彼女は何も悪くなんか、』
『衛兵、こいつを連れて行け。国王に突き出して、見せしめに殺してやろう。それで抗争を終わらせる。こいつはルーク・グレイルの弱点だ』
『やめて! この子は体が弱いんです! ユノ逃げて! 振り返らないで!』
ユーリウスの腕を振り払い、ユノの腕を掴む。まだ小さなアルバラは必死に彼女を引っ張って、彼女がいつも入ってくる隙間のある壁までやってきた。
『逃げて、早く、あのね、僕はユノが悪いなんて思っていないよ。だってユノは優しいもん。きっとユノの家族も優しいに決まってる』
『……もしも私が逃げたら、アルはどうなるの?』
『……え?』
『アルが酷い目に遭わない?』
『……遭わないよ、遭うわけない。大丈夫だから行って、お願い。僕、お友達ができたの初めてで嬉しいんだ。ユノを守りたい。だから生きていてほしい』
早口に言うと、アルバラはすぐに彼女の背を押した。
背後から足音が近づいてくる。それにもう一度「行って」と小さく繰り返す。
『……私も嬉しかったよ。死ぬ前に、アルみたいな子と出会えて。……実はね、本当は私、寂しかったの。強がってたけどずっと寂しくて、一人で死にたくなくて、何度も抜け出しちゃった。看護師さんには怒られるけど、みんなあんまり私には興味なんかないから……アルが私のことをしっかり見てくれて、嬉しかった』
『見つけたぞ!』
『捕まえろ!』
すぐ後ろで聞こえた声に、アルバラは踵を返す。衛兵を押さえるように飛びかかると、か弱い力で押し返そうと力を込めた。
『僕は大丈夫だから逃げて! 早く行って!』
嫌な予感がした。ユーリウスの言っていた「見せしめ」なんてことは分からなかったけれど、彼女が捕まれば殺されてしまうということだけははっきりと分かっていた。
子どもの力で大人を抑えられるわけもない。すぐに突破されるけれど、アルバラは諦めず衛兵にしがみついた。
それなのに。
アルバラがこんなに必死になっているのに、彼女は逃げることもなく、ただ嬉しそうに笑っているだけだった。
『いいかい、アルバラ。あんな女のことは忘れてしまいなさい。おまえと関われるような人間ではなかったんだよ』
ユーリウスには何度もそう言われた。
彼女がその後どうなったのかを、アルバラは知らない。けれどきっと殺されてしまったのだと分かっていたから、ユーリウスの言葉も耳をすり抜けていた。
アルバラは、その時に初めて「寂しい」と思った。
それまでは「寂しい」なんて分からなかったのに。彼女が「寂しくない」をアルバラに覚えさせたから、アルバラはそんな切ない感情を覚えてしまった。
——おまえが、ユノを殺した。
ああそうだ。きっとアルバラと関わらなければ、彼女は安らかに病死できていただろう。殺されるなんて経験をすることもなかったはずだ。
アルバラの瞳から、ぽろぽろと涙が溢れだした。
忘れたいと思った。だって寂しかったのだ。寂しくて、耐えられなくて、忘れてしまいたかった。そうしたら翌日から心が軽くなって、その存在は心の奥底に消えた。
都合よく、アルバラは自身のためだけに、彼女を忘れていた。
「……最低だ……」
彼女が逃げなかったのはきっと、アルバラが酷い目に遭うかもしれないと思ったからだろう。彼女はアルバラを守るために身を差し出した。
「……僕が、殺したんじゃないか」
どんな顔をして、覚えてないと言えたのか。
かちゃりと部屋の扉が開く。黒服だったようで、朝食の食器を片付けにきてくれたらしい。
「……おや、起きていましたか」
背を向けていたから、入ってきた時には気付かなかったのだろう。アルバラをちらりと見た黒服が、泣いていることに驚いて声をかけたようだった。
「……あの、ルークさんは」
「ボスはユーリウス殿下と交渉中です」
「……交渉……」
——おまえを交渉材料にあいつのところへ戻してやろうと思っていたところだ。
不意にルークの言葉を思い出して、アルバラは体を持ち上げた。
ルークはアルバラを恨んでいる。だからこそアルバラを交渉の材料として利用するし、ユーリウスを嫌っているのを知っていながら戻そうともするのだろう。
「……お願いがあるのですが」
ベッドからおりて、強い足取りで黒服の側に立つ。アルバラの顔は、いつになく必死だった。
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