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■03:Miniature garden
ずはっ、と空気が一気に肺に流れ込んだ。
僕はどうやら、息を止めていたらしい。突然の酸素に身体が驚いたように痙攣し、何度も咳き込む。
脳みそがグラッと揺らされたような最悪な感覚は、身体の血液をシェイクしたような最低な気分を伴って、僕の身体に不快感をぶち込んだ。
本来ならば胃の中の物をぶちまけていたのかもしれない。だが残念なことに、僕には吐くべきものが何もない。何もないのでただ脳みそを掻きまわされるような不快感に息を浅く吐き続けることで耐え、五分後にはなんとか平常の心拍数と呼吸数に戻した。
……フルアバターの強制終了は、こんなにも肉体的負担がかかるものなのか。
もう少し演算する余裕があれば、フルアバターの転送先を指定できたかもしれない。けれど、あの人なら通常アバターでも追跡してきそうだ、と思った。だから僕はデータ転送という逃走を諦め、フルアバターを強制終了させた。
意識を繋いだまま、ブツンと切れたプログラムは僕の本体とも言うべき身体に酷い負担を強いたが、どうにか死ぬような事はなかったので良しとする。
目の前には、くすんだ色の天井が見える。見慣れすぎてもう何の感慨もわかない光景だ。先ほどまで僕の視界に広がっていた色鮮やかで美しい拡張現実の街並みは、今や跡形もない。
ここにあるのは管理の行き届いていない薄汚れた部屋と、何人もの横たわった生きる臓器ばかりだ。
彼らはただ、恐ろしく静かに呼吸を繰り返す。安らかな目覚める事のない睡眠の音は、いつでも僕の耳を侵した。
消毒液と独特な酸っぱいような甘いような腐敗臭にはもう慣れた。不快感を覚えたとしても、どうせ僕には吐く物はない。ただ、ひたすらに不快なだけだ。
二〇三五年の表面上の世界は美しい。
ただ、僕の現実は美しいとは言い難い。COVERが演出する色鮮やかで情報に溢れた世界は、僕の住む世界ではないのだ。
「…………もう少し、で、南区のカフェ、周りきれた、のに」
普段ほとんど声帯を使わないせいで、僕の声は酷く小さいし掠れている。腹に力が入らないので大声が出せないのは仕方のないことだ。
恨み言を呟いても、僕の声に反応する人間はいない。唯一僕の言葉にレスポンスを返してくれる親友は、今頃強制ログアウトした僕を追って慌ててC25から飛び出している事だろう。
だから言ったのに、と、眉を吊り上げるギンカの顔が目に浮かぶ。
ギンカはアバターでもリアルでも、同じように眉を吊り上げて僕を睨む。リアルの外見を毛嫌いしているギンカは、COVERの適用範囲内では常にアバター機能をオンにしている。
僕は別に、どちらのギンカも好きだからどうでもいいのだけれど。カラフルでやせぎすなツインテールのギンカも、ぼさぼさの黒髪をうっとうしそうに掻きむしる痩せた青年のギンカも、別に、差なんてない。どちらも僕の親友で、僕が言葉を放り投げる唯一の人間だ。
アバターの盗難を思いついた時、僕はギンカに迷惑がかかるからやめようとした。けれどギンカは、今さら迷惑だとかどうでもいいと鼻で笑った。
恐らくギンカはセキュリティガードに追われる事になるだろう。他の誰でもない、僕がフルアバターを違法利用しているマエヤマさん本人に見つかってしまったのだから。
COVERのアンダーグラウンド階層で売りに出されていたマエヤマさんのフルアバターを見つけたのは、一か月前の事だ。
自動プログラムで朗らかに笑い顔を傾げてみせる甘い顔の男性アバターに、僕はただ単純に目を奪われた。
それは一目惚れという奴だ。そう言って眉を潜めたのはギンカだ。ギンカは真面目で、そしていい奴だから、僕がそんな危ないものに心を奪われた事に酷く怒って心配してくれた。
あのアバターが欲しい。
そう思ったから僕は彼のフルアバターの権限を落札した。お金は腐るほどある、とは言い難いが将来の事を一切考えなければ何の問題もない。僕は未来に絶望している。だから、好きな人を手に入れる為に、特に考慮すべき事はなかったし考慮の時間も必要なかった。
こうして僕は、驚くほど簡単に彼を手に入れた。
アバターネームは設定されておらず、ランダムになっていた。PALの接続も勿論切れていたけれど、これは僕のPALを繋げばいいだけだし問題ない。
カスタマイズに半月かかった。その間に僕は、このフルアバターの持ち主がC25セキュリティガード職員の男性である事を突き止め、彼の名前が『マエヤマさん』である事を知った。
セキュリティガードのフルアバターは、稀に覆面捜査に活用されると聞いたことがある。故に似ても似つかない別人の顔を設定すると聞いたけれど――実物のマエヤマさんは、髪型と装飾品の差はあれど、アバターとさして変わりない印象のちょっとだけ甘い顔をした人だった。
マエヤマさんと僕は、全く関り合う事のない人間だ。
彼はC25内で特殊警官という職に就く大人だ。そして僕は、都内の病院の一室で、ただ天井を見上げるだけの肉塊でしかない。
肉塊。他に何と呼べばいいのだろう。臓器の残り、と表現するのは自虐的すぎるがしかし、一番的確な気がする。
勿論ギンカにはこんなことは言えない。僕が自分を自虐的に扱き下ろす言葉は、彼女の両親を侮辱する言葉にもなりかねないからだ。
ギンカの両親は、今も僕の隣で静かに息を吸い吐いている。ただ、死ぬ時を待っている。本当は僕も彼らと同じように安眠を貪るように死んでいく筈だったのに――どうして、目が覚めてしまったのだろう。
こんな風に自分の人生を責めても仕方がない事を知っている。知っているので僕は細く息を吸い、少しの努力の元ゆっくりと吐き出し、いつものように億劫に指先を動かし天井を見上げたまま、両手の下に配置したキーボードを叩いた。
最近は腕の筋肉まで衰えてきた。もう、腕を上げるのも億劫だ。指先を動かすのだって面倒くさいと思うけれど、喋るよりはキーを叩く方が楽だと思ったのでどうにか文字を打ち付ける。
ショートカットキーでPALにアクセスし、プライベート通信でギンカに強制ログアウトした件を伝える。ギンカからは折り返しすぐに音声メッセが返って来た。
『おまえ、大丈夫だって、言ったじゃん!』
どうして映像メッセじゃないのだろう、と不審に思ったが、そうか泣いているからかと察した。
聞き取りにくいギンカの声は、感情的な涙に濡れていた。その上息が荒く乱れている。走ったんだ、と気が付いて僕はとても久しぶりに泣きそうになる。ギンカが辛い思いをするのは、やっぱり嫌だと思う。
『大丈夫だって、見つかんないって、見つかっても逃げられるって、言ったくせに……! どうすんだよスノ! あいつ、たぶん、あたしを媒体にして辿ってくる……っ!』
「おちついてギンカ。むしろ僕はよく半月も見逃してもらえていたと思う」
『冷静ぶってんじゃねーよ馬鹿スノ! だってまだ、何も、何もしてないのに……っ』
「そう? 僕は結構、満喫したよ。久しぶりに歩いたし、久しぶりに走ったし、久しぶりに外に出た。まあ、潮時かな、とは思っていたし……」
この数日、フルアバターへの不正アクセスが異常に多くなっていた。外部から迫る追跡が、僕にたどり着くのは時間の問題だ、と自覚していた。
フルアバターを手に入れてから一か月。微調整を繰り返し練習しカスタマイズして、僕が同期して自由に動けるようになってから半月。それなりに充実した日々だったし、やりたいことはやれたんじゃないかと思う。後は、僕達の最期の目的をこなすだけだ。
取り乱して喚くギンカに淡々と声をかけ続ける。
僕は喋る事が苦手だ。言葉を紡ぐ事は嫌いじゃないが、声を出す体力がほとんどない。だから僕がキーボードを叩いて並べた言葉を、僕のプログラム音声が代わりに読み上げてくれるようにしている。これは感情制御アバター機能の応用だ。
COVERの通常アバターはビジネスモードとして『口語を適切な言葉遣いに変換して音声として出力する』機能がある。勿論これは一度言葉を解析してから変換するためのタイムラグが発生するけれど、直接入力したものを読み上げてもらうだけならば通常の会話と同じスピードで問題なく適用できた。
感情の抜けた僕の声は、感情的なギンカの声とは対照的だろう。
けれどどうせ僕の本体で声を出したところで、僕は情緒豊かに話しかけることなんてない。僕の感情はもうすっかり壊れているし、枯れ果てている。時折点検に来る医療器具の整備士と担当医の顔を見ても、もう何も思わない。彼らも同じく、僕に対して何も思わないように努めているという事を知っていたので、こちらも無駄に泣きわめく事を止めた。
誰が悪いという話ではない。そんな事はわかっている。たぶん、僕の運が悪かっただけの話だ。
僕がただ天井を見上げるだけの身体になってしまった事も。そんな人々の中で唯一意識を取り戻してしまった事も。この先何の希望も持てない事も。
僕の運が悪かっただけだし、世界とこの国の大人が少し、馬鹿だっただけなんだと思う。個人が悪いわけではないので、僕はこの病院の人たちを恨む事はしない。
「準備をしよう、ギンカ」
僕は手元のキーボードを無感情に叩く。鼻をすすりあげていたギンカは一瞬だけ息を止め、そしてまた泣いた。その後にごめんとありがとうを何度か言われたが、僕は聞こえないふりをした。その言葉は、この計画を思いついたときに、僕は何度も聞いているし、僕は謝罪も謝礼も言われるべき人間ではないと思っているからだ。
「必要なもの、わかる?」
『……明日買いに行く。今日はそっち寄らないけど、明日も行かない方がいい?』
「べつに、来ても平気だよ。多分、あの人たちは頭がいいし仕事が早いから、とっくに病院の場所なんてバレてると思う。でもこの部屋には遺族しか入れないから、早急に僕が取り押さえられる事はないし、もう少しアバターを使えると思う。だから大丈夫。もっとちゃんと相談しよう」
大事な事だから。とても、大事な事だから。
僕の言葉に、ギンカは声を上げて泣いた。これで彼女の肩の荷はたぶん、ほんの少しだけ軽くなって、消えない罪悪感は一生のしかかるだろう。それでも僕達はその選択肢を選んだ。
最後に、僕の好きな人の『本体』に出会えたのは、僕の最低な運勢の中でも随分と珍しい幸運だったのではないか、と思えた。
マエヤマさん。セキュリティガード職員で、三十歳。年齢よりも随分若い顔のフルアバターだと思ったけど、実際の彼の見た目も十分若い。
マエヤマさんはよく困ったように笑っている。僕が視界を借りている監視カメラや映像記録端末の前で、仕方ないなぁと言うように首を傾げる。大体その顔は彼の仕事上のパートナーである鮫歯の男性に向けられていた。プライベートでは親しい人はいないらしい。少なくとも、マエヤマさんの生活圏内にはいない。
2Dの映画が好きで、犬よりは猫が好きで、ガムシロップを二個入れたアイスコーヒーが好きな人。僕はこの一か月の覗き見で、随分とマエヤマさんの事に詳しくなった。
彼に見つからない為に一応行動を監視しておかなくちゃ、なんてのは言い訳だ。僕は単に、マエヤマさんの事が好きなのだ。
そう自覚する度に笑ってしまう。こんな横たわる事しかできない肉塊が、恋だなんて。それも同性の、年上の人に恋だなんて。……誰に笑われてもおかしくないし、きっとほとんどの人が嘲笑すると思うので、見知らぬ大衆の代わりに自分で笑う。
しばらく自嘲した後に、僕はふと未練がましい思いに捕らわれた。きっと、本人に出会ってしまったからだ。あの人が、僕を見つけてしまったからだ。
「……ギンカ、あの、ごめん。全部準備終わったら、ちょっとだけ、無茶してもいいかな。捕まらないように、するからさ」
僕のささやかな我儘を、ギンカは許してくれるだろう。僕の親友は、口は悪いし態度も悪いけれど、でもやっぱり親友だからだ。
勝手にしろと吐き捨てる声はまだ涙で濡れている。ギンカはよく怒るしよく怒鳴るしよく泣く。まるで僕の代わりに全部ギンカが出力してくれているみたいなので、僕はいつもギンカに申し訳ないような気持ちを抱いた。
二〇三五年の、表面上の世界は美しい。COVERの上の世界はとても便利だ。
けれどCOVERの下の箱庭に横たわる僕達は、結局、死んだように息をするだけで精一杯だった。
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