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第九章・6
屋敷に戻った貴士の隣に、悠希がいない。
使用人たちは、それだけで全てを察した。
残念だが。
悠希さまは、他の方々とは違うと思っていたが。
あの方ならば、貴士さまの氷の心を溶かしてくださると信じていたが。
しかし、誰もそれらを口に出さなかった。
貴士もまた、常日頃のように振舞った。
シャワーを浴び、お茶を飲み。
残務をこなし、夕食を摂り。
バスタブでくつろぎ、寝酒を嗜む。
『お休みになる前のお酒は、あまり体に良くないと聞きます』
悠希の言葉が、思い出された。
「好きで飲んでいるんだ。放っておいてくれないか」
ぼそりとつぶやいた後、言い直した。
「そうだな。だが、今夜は酔いたい気分なんだ」
飲んで、酔って。
忘れてしまいたい。
全てを。
この体に、心に残った悠希の全てを忘れてしまえれば、どんなにいいか。
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